第三十一話 値の付く男
灰縄を救ったあの一件から、僕の周りの流れが明らかに速くなった。噂は数字とは違った。数字は消耗の低さという遠回しな異常だった。でも噂ははっきりしていた。収束で複数の陣を同時に操る学生がいると。噂というのは、坑の詰所や買取所の待合や探索者の集まる安酒場を水のように伝っていく。顔も知らない誰かが、また別の誰かに話す。話は口から口へ渡るたびに少しずつ形を変える。
複数の陣が、いつのまにか十いくつもの陣になっている。一人で救ったが、たった一人で全滅寸前の坑を制圧したになっている。僕はその噂をいくつもの場所で少しずつ違う形で聞いた。どれも僕の話のはずなのに。どれも僕の知らない誰かの話のようだった。しかも格上の灰縄が深部で全滅しかけたところをたった一人で救ったらしいと。そこだけは芯を捉えていた。噂は尾ひれを付けて探索者の世界を駆け巡った。
噂の出所はたぶん灰縄だった。彼らは僕を悪く言ったわけではない。むしろ逆だ。鵜飼は助けられたことを隠さなかった。恩を受けて、それを黙っているような男ではなかったのだ。だから彼は周りに正直に話した。学生の収束使いに命を拾われたと。複数の陣を同時に操っていたと。その正直さが結果として、僕の秘密を世界に撒いた。鵜飼を責める気にはなれなかった。あの人は恩を恩としてまっすぐに返しただけだ。むしろ正直であることがこれほどこちらの首を絞めることがあるのかと、僕は静かに思い知った。
嘘はいつか露見する。でも正直もまた思わぬ形で人を追い詰める。鵜飼の正直と僕の秘密。その二つは本来両立しないものだった。どちらかがどちらかを削る。今回は鵜飼の正直が勝った。それでよかったのだと僕は自分に言い聞かせた。あの正直さがあの夜五人をこちら側に引き戻したのだから。誰も悪くない。悪くないまま僕の値は勝手に跳ね上がっていった。
僕は何も変わっていない。
変わったのは周りだった。坑の詰所で職員の態度が変わった。以前、詰所の職員は、僕を記帳を促すだけの事務の対象として扱った。丸腰の学生。珍しくはあるが、値打ちはない。そういう目だった。今は違う。僕が帳面に名を書くと職員が少し居住まいを正す。声の調子が丁寧になる。その変化は心地よいというより居心地が悪かった。彼らは僕を丁寧に扱っているのではない。僕の噂を、僕の背後の影を、丁寧に扱っているのだ。同じ人間が、値がないときはぞんざいに扱われ、値がつくと丁重に扱われる。そのあべこべを僕は二年の間のいちばん下の暮らしで嫌というほど見てきた。
だからこの丁重さに僕は少しも心を許さなかった。値で態度を変える手のひらは値が下がればまた返る。僕はそれを知っていた。
買取所でもそうだ。持ち込んだ資源を以前より丁寧に扱われる。値も少しだけ良くなった。
同じ坑に通う探索者たちの視線も変わった。以前は丸腰の学生を物珍しそうに見るだけだった。今は遠くから探るように見てくる。噂の当人があれかと。話しかけてくる者も出てきた。どうやって二体を相手にしたのか。複数陣というのは本当なのか。どこでそれを覚えたのか。僕はその全部に曖昧に答えた。答えないと余計に話が大きくなる。だから少しだけ答えて、あとははぐらかす。その加減がまた難しかった。人の口に蓋はできない。できないと分かっていて、僕はそれでも蓋をしようとしていた。ただあの日、隠していた力を少しだけ見せてしまった。それだけで僕には値が付いた。値が付くというのは奇妙な感覚だった。二年の間の僕には値がなかった。いてもいなくても同じものに値は付かない。その値のなさに僕は慣れていた。慣れてその居心地の悪さをいつのまにか心地よさにすり替えていた。
誰にも期待されないことの気楽さ。誰にも奪われないことの安全さ。その二つを僕は二年かけて身につけた。なのに、今値が付いてしまった。値が付けば奪い合いが始まる。値が付けば期待が生まれる。僕が二年かけて手に入れたあの値のなさの気楽さは。たった一度力を見せただけで音もなく崩れていった。
橘さんの勧誘が熱を帯びた。これまでの柔らかい搦め手が少しだけ性急になった。
「深澤くん。もう、迷ってる場合じゃない」
学外の受付で橘さんは僕を捕まえて言った。
「きみの噂は、もう、うちだけのものじゃない。他所も動きはじめてる。……早くうちと正式に契約しよう。守ってあげられるうちに」
守るという言葉に僕は引っかかった。
守る、とは。
誰から。橘さんは僕を守ると言った。でもその守るはたぶん二つの意味を持っていた。一つは鉄環のような荒い手から僕を守ること。もう一つは僕を宵星の囲いの中に守り込むこと。外の脅威から守るふりをして自分の檻に囲い込む。その二つは言葉の上では同じ「守る」だった。鳥籠も外から見れば猫から鳥を守る囲いに見える。でも籠の中の鳥にとっては、それは自由を奪う檻だ。橘さんの「守ってあげられるうちに」もたぶんそういう言葉だった。守られれば囲われる。囲われればあの底へは行けなくなる。僕はその優しい響きの言葉の裏に静かに身構えた。守るという言葉ほどその裏を見なければならないものはなかった。
その答えはその日のうちにやってきた。
坑を出たところで見慣れない男が三人僕を待ち構えていた。身なりはいい。でも橘さんのような洗練された柔らかさはない。もっと剥き出しの力の匂いがした。橘さんはこちらの損得にそっと手を差し入れてくる人だった。でもこの男は違った。立っているだけで周りの空気を押しのけている。肩の幅も首の太さも探索者というより壊し屋のそれだった。握られたら骨の一本や二本はたやすくへし折れそうな手。
その手をこの男は値踏みのためではなく掴むために持っている。欲しいものは話し合うのではなく、掴んで、奪る。その気配が言葉より先に僕の肌に届いていた。先頭の男が僕の前に立ちはだかる。大柄で目つきが鋭い。
「深澤灯真だな」
低い圧のある声だった。
「鷲尾という。鉄環の者だ」
鉄環<てっかん>。聞いたことはあった。武力で名を上げた大手のクランだ。強引な資源の奪取と力ずくの縄張り争いで知られている。宵星が搦め手なら。鉄環は腕ずくだ。
「話は聞いてる。複数陣の若造。……うちに来い」
鷲尾は勧誘とは思えない口調で言った。誘っているというより命じている。
「宵星なんぞに飼われるな。あそこはけちだ。うちなら待遇も潜れる坑も桁が違う。……断る理由はないだろう」
僕は少し考えてから聞いた。
「鉄環さんは、僕の何を買ってるんですか」
鷲尾は鼻で笑った。
「決まってんだろ。複数陣だ。……あれが本当なら前衛と後衛を一人で兼ねられる。パーティの構成が丸ごと変わる。人件費が浮く」
なるほどと僕は思った。この人は正直だ。橘さんのような飾りがない。僕を人件費として見ている。その剥き出しさはいっそ分かりやすかった。
「それだけですか」
「それ以上何がある」
鷲尾は怪訝な顔をした。それだけだとこの人は本気で思っている。僕の燃費のことも。深度のことも。この人は何も知らない。知らないままで僕を欲しがっている。その噛み合わなさが僕を少しだけ安心させた。核はまだ守られている。僕は鷲尾を見上げた。この男の目には橘さんにあった"欲"すらなかった。もっと単純だ。欲しいものは奪る。それだけの目だった。商品ですらなかった。僕はこの男にとってただの獲物だった。
「……考えさせてください」
僕はいつものように答えた。鷲尾は鼻で笑った。
「考える?……いいだろう。だがあまり悠長にしてると」
男は僕の肩にぐっと手を置いた。重い手だった。
「考える"暇"がなくなるかもしれんぞ」
脅しだった。
橘さんの「守ってあげられるうちに」の意味が分かった。僕はいつのまにか二つの大きな手のあいだに立っていた。搦め手の宵星。腕ずくの鉄環。どちらも僕を欲しがっている。僕の価値が勝手に独り歩きして、政争の駒になりはじめていた。噂は独り歩きするほど大きくなる。複数陣を操る学生。灰縄を一人で救った男。その像は僕の実像から少しずつ離れて膨らんでいった。
膨らんだ像に勝手に値が付く。その値を巡って大人たちが争う。僕自身は置き去りのまま。可笑しな話だった。僕が本当に持っているいちばんの力はまだ誰も知らないのに。みんな影を奪い合っている。本体を見もせずに。複数陣を操る学生。灰縄を一人で救った男。その像は確かに僕から生まれた。でもそれは僕のいちばん外側の薄い皮一枚だ。その皮を大人たちが必死に奪い合っている。皮の下に本当の核があることを誰も知らない。誰よりも深く長く在れること。その本体を。
だからこの綱引きはどこか滑稽だった。影で彼らが満足するなら。影をくれてやってもいいとすら思った。そのぶん本体は静かに深くへ行ける。みんなが薄い皮一枚を奪い合っているその隙に。僕は誰にも見られずいちばん下へ潜っていける。影を差し出すことが本体を守るいちばんの隠れ蓑になる。そう気づいたとき、僕は少しだけこの綱引きを利用してやろうとすら思いはじめていた。
僕が望んだわけでもないのに。僕が見ているのはこんな水たまりの中の綱引きではなかった。それでも綱引きは僕を掴んで離さない。厄介なことになったと僕は静かに思った。僕が望んだわけでもないのに。僕はただあの夜目の前で薪になりかけた五人を放っておけなかっただけだ。そのたった一つの選択が。僕を二つの大きな手の間に立たせた。核を守るために隠し続けてきた二年間が。あの一件で少しだけ崩れその崩れた隙間から僕の値が世界に漏れ出した。漏れ出した値は独り歩きして勝手に膨らんでいく。僕にはもうそれを止められない。止められないものを抱えて僕はこれから剥き出しの世界を歩いていく。厄介だった。でもと僕は思う。厄介ごとのいちばん外側で大人たちが騒いでいるそのぶんだけ。いちばん奥の本当の核は静かなままだ。だからこの厄介ごとは悪いことばかりでもなかった。騒がしい影が静かな本体を覆い隠してくれる。




