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第三十話 二枚目の陣



二本目の糸がようやく独りで立った。


感覚としては、右手と左手が別々の生き物になったようだった。これまで僕の魔力はいつも一本の流れだった。太い一本をどこへ向けるかを選んでいた。でも今は違う。一本を二本に割った。割ったそれぞれが別々の意思で動いている。脳のこれまで使ったことのない場所が軋むように熱を持った。


右手の守りの陣が一体の攻撃を受け止める。

その同じ瞬間に。左手の攻めの陣がもう一体の関節を正確に撃ち抜いた。


二つの色のない輪郭が掌の左右に別々に浮いていた。右の輪郭が守りの形に。左の輪郭が攻めの形に。これまで僕の掌にはいつも一つの輪郭しかなかった。それが二つに割れて別々に脈打っている。組成の、あの無音の圧が左右で二重に耳の奥を詰まらせる。二つの輪郭は確かに同時に立っていた。守りながら攻める。単層ではできなかったことが。今この掌の上で初めて形になっていた。同時だった。守りながら攻める。二枚を同時に組むこの新しいやり方でできた。一体が体勢を崩す。その隙に、僕はもう一枚を崩れた一体の足元に敷いた。三枚目の陣。拘束の陣だ。立体に組み上げて魔物の巨体を下から絡め取る。平らな陣ではない。


三次元に編んだ檻だ。この陣は敷いてしまえばあとは勝手に保つ。いちいち操り続けなくてもいい。だから僕が同時に手で操っているのはあくまで二枚。守りと攻めだ。三枚目の拘束は敷いて放っておける。一体をその檻で縫い止めながら。僕は空いた手でもう一体と打ち合った。魔物たちの動きが初めて鈍った。


消耗は激しかった。二枚を操りながら三枚目を敷いて保つのは一枚のときの比ではない。いくら細く撚ってもこれだけの陣を一度に抱えれば魔力は速く減る。でも。それでも単層で二体を相手に無駄に駆けずり回っていたときより、ずっと効率がよかった。守りに余分な魔力を割かなくていい。攻めに専念できる隙が生まれる。拘束で一体を抑えている分相手にするのは実質一体だ。同時に複数のことをこなす。それは灰縄のあの連携がしていたことだった。五人で分けてやっていたことを。僕は二枚の糸を操り、一枚を敷いて、一人でやっている。


守り。

攻め。

拘束。


その三つの働きが同時に噛み合った瞬間。拘束していた一体の急所に渾身の攻めの陣が突き刺さった。巨体が崩れ落ちる。残る一体は僕の変わった動きに怯んだように後退し。そして深部の暗がりへ逃げていった。


巨体が暗い奥へ消えていく。その足音が遠ざかりやがて聞こえなくなった。あとには静寂だけが残った。濃い偏差の中の重い静寂だ。自分の荒い息だけがやけに大きく聞こえる。僕はその場に膝をついた。立っていられなかった。二枚を操り三枚目を敷いて保つのは。単層の何倍も魔力を食う。残りはもうほとんどない。


でも生きている。

背後の五人も生きている。


その事実だけが空になった身体を辛うじて支えていた。静寂が戻った。僕はその場に膝をついた。魔力はほとんど残っていない。でも生きている。みんな生きている。


「……お前」


鵜飼の掠れた声がした。彼は信じられないものを見る目で僕を見ていた。灰縄の生き残った全員がそうだった。


「今の、なんだ。……二枚、いや、三枚同時に陣を……。収束でそんなことできるのか」


僕は答えられなかった。答える力もなかった。核が、晒された。誰よりも深く長く在れるその本当の力を。この人たちに見られた。ずっと隠してきたものを。でも不思議と後悔はなかった。隠していたら、この人たちは死んでいた。それだけは嫌だった。隠すことより大事なものが確かにあった。鵜飼はしばらく僕を見て。それから深く頭を下げた。


「……助かった。恩に着る。この借りは必ず返す」


老練な探索者のそのまっすぐな礼を。僕はただ受け取った。恩に着るこの借りは必ず返す。鵜飼の言葉には飾りがなかった。助けられたことを恥じもせず大げさにもせず。ただ事実として頭を下げる。そのまっすぐさが。二年、いないものとして扱われ道具として値踏みされてきた僕には。どう受け取っていいか分からないほど眩しかった。僕はいえとも言えずただその礼を身体で受け止めた。核を晒した代償に僕が得たのは。この一人の男のまっすぐな礼だった。悪くない取引だと思った。




それから僕らは一緒に坑を出た。動けない二人を残りの三人と僕とで交代で支えながら。時間はかかった。でも僕の余力があったから、なんとかなった。動けない二人を板に乗せ交代で支えながら僕らは浅いほうへ退いた。僕は、二人ぶん、三人ぶんの身体を薄く包む陣を途切れさせずに保ち続けた。濃い偏差の中でそれだけの陣をこれだけの時間保つのは。さすがに僕の燃費でもこたえた。でもこたえるだけで、済んだ。尽きはしなかった。


灰縄の生き残った全員が。そのあり得ない余力を横目で見ていた。誰も何も言わなかった。言葉にする力もなかったのだ。ただ一歩ずつ。浅いほうへ、明るいほうへ。僕らは生きて坑を出た。途中で鵜飼がぽつりと言った。


「あんた、なんで来た」


僕は少し考えてから答えた。


「知ってしまったので」

「知った?」

「あそこに人がいることを。……知っていて、行かなかったら。たぶん、ずっと、覚えてると思ったので」


鵜飼はしばらく黙っていた。それから短く笑った。笑ったところを僕は初めて見た。


「……そうか。俺も昔、同じことを思ったな」


その先は言わなかった。たぶん四人を失ったときの話だ。行けなかったのか。行って間に合わなかったのか。どちらにしてもこの人はそれをずっと覚えている。覚えていて今日まで生きてきた。坑を出たとき外は夕方だった。管理棟の職員が駆け寄ってきて大騒ぎになった。




僕はその騒ぎの外側で壁にもたれて座り込んでいた。魔力はほとんど残っていない。でも生きている。みんな生きている。それだけで十分だった。魔力はほとんど残っていない。指の先はまだ少し痺れている。あの枯渇死の淵の名残だ。でも僕は生きている。灰縄の五人も生きている。誰もあの淵の向こう側へ落ちなかった。管理棟の職員たちが駆け寄ってきて大騒ぎになるその外側で。僕は壁にもたれて座り込んでいた。騒ぎの音が遠く聞こえる。その遠さの中で僕は静かに確かめていた。あの夜僕は一人でこの淵を覗いた。今日は五人をこちら側に引き戻した。あの夜の誰も来なかった孤独の分だけ。今日僕は隣にいてやれた。それだけで核を晒した意味は十分にあった。




坑を出て僕は思い知っていた。壁があった。魔力不足と強い魔物。その二つが同時に牙を剥くあの壁が。単層では越えられなかった。でも収束を細く撚り、束ねて、多重に立体に組むことで。僕はその壁を越えた。一つ上の段へ進んだ。あの夜、枯渇死の淵で僕は収束の本当の使い方を掴んだ。今日、二体の魔物の前で、僕はそれを束ね、割り、多重に組む術を掴んだ。どちらも安全な場所では決して掴めなかったものだ。極限に追い詰められて、初めて。次の一歩が足元に現れる。


壁は僕を殺しかけると同時に。その壁の越え方を教えてくれる。


それはあのいちばん深いところがそうであるように。いちばん危ない場所にだけいちばん見たいものがある。その法則を僕はまた一つ身体で確かめた。怖いはずのその法則に。僕の胸の裏の熱はまた静かに喜んでいた。思えばあの夜もそうだった。枯渇死の淵で僕は収束の本当の使い方を掴んだ。今日も、同じだ。安全なところではたぶん一生気づかなかった。それはあのいちばん深いところがそうであるように。いちばん危ない場所にだけいちばん見たいものがある。


けれど同時に分かってもいた。


この壁のさらに上にまた壁があることを。二枚で足りなければ三枚。三枚で足りなければその先。撚る糸を増やしていけばいつかそれにも限りが来るだろう。撚る糸を増やせば増やすほど。一本あたりは細くなる。細くなれば扱いは難しくなる。


そして何より。

それを同時に別々に操る僕の頭のほうに限りがあるはずだった。


魔力の細さには限りがなくても。それを束ねる意識のほうに限りがある。その予感はうっすらとあった。でも今はまだいい。越えられる壁がまだ目の前にある。その越えられるうちは。僕はただ越え続ける。越えても、越えても、終わらないその果てのなさにこそ。胸の裏の熱は静かに喜んでいた。




その日から僕の周りの空気がまた変わりはじめた。



そして僕はもう一つ思い知っていた。僕の秘密は思っていたより脆かった。僕は必死に隠してきた。演技をして数字を調整して誰にも見せずに。その全部があの一晩で崩れた。崩したのは僕自身の判断だ。助けると決めたのは僕だ。だから後悔はしていない。でも思い知りはした。


秘密というのは守り続けられるものではないのだ。どこかで必ず選択を迫られる。秘密を守るか目の前の何かを取るか。その天秤が来たとき。僕はたぶんいつも秘密のほうを捨てる。そういう人間だと自分で分かってしまった。


灰縄の救援でそれがはっきりした。時間をかけて築いた核を僕はためらいもなく晒した。後悔はしていない。でも思い知りはした。僕という人間は秘密より目の前の命を選ぶ。そういうふうにできている。だとしたら核が完全に晒される日は、遅かれ早かれ来る。僕にできるのはその日を少しでも遅らせることだけだ。


守り抜くことではなく。遅らせること。その諦めに似た覚悟がこの一件で静かに僕の中に据わった。


灰縄を救ったその一件は静かに噂になった。噂は数字とは違う。数字は消耗の低さという遠回しな異常だった。でも噂ははっきりしていた。収束で複数の陣を同時に操る学生がいると。橘さんの勧誘が熱を帯びた。常磐縁の観察が鋭くなった。


そして。あの遠い人の——受付の奥にいたあの静かな目の人の。その視線がこの一件を境に僕のほうへ静かに向けられはじめたのを。僕はまだ知らなかった。



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