第二十九話 束ねる
二体の魔物は容赦がなかった。一体の攻撃を盾で受ければ、もう一体が横から来る。僕は盾の陣を慌てて組み替える。でも組み替えているあいだは、無防備だ。一度に一つしか組めない。
守りの陣をこちらに向ければ、あちらが空く。あちらに向ければ、こちらが空く。僕は二体のあいだを必死に駆けずり回った。右へ。左へ。陣を組んでは崩し、崩しては組む。その繰り返しがどれほど無駄か頭では分かっていた。組み直すたびに魔力が余計に食われる。僕がいちばん得意なはずの効率がこの状況ではまるで活かせない。効率とは無駄を省くことだ。
でもこの状況では無駄を省く暇そのものがない。背後では灰縄が倒れた仲間を引きずって後退している。まだ逃げきれていない。僕が二体を食い止めているあいだに、逃がさなければ。でも食い止めるだけで精一杯だった。攻めに転じる余裕はない。二体を同時には押し返せない。時間だけが過ぎていく。そして時間が過ぎるほど魔力が抜けていく。濃い偏差の中で。いくら僕の燃費が良くても。こんな全力の陣を組み替え続ければ。さすがに減る。みるみる減っていく。
いくら燃費がよくても。無駄だらけの戦い方をすれば魔力はみるみる減る。指の先の感覚が薄れはじめる。あの枯渇死の淵の感覚が。すぐそこまで迫っていた。
指の先の感覚が薄れはじめた。あの感覚だ。あの夜の枯渇死の淵の。自分の身体が薪みたいに減っていくあの。まずい、と頭の隅で冷たい声がする。このままでは僕も灰縄も全滅する。
指の先の感覚が薄れていく。あの夜のあの感覚だ。自分の身体が薪みたいに減っていく。でもあの夜と今は違った。あの夜僕は一人だった。今は背後に守るべき五人がいる。守るべきものがあるということが。枯渇の恐怖の中で僕を少しだけ冷静にした。逃げるという選択肢が頭をよぎる。でもその選択肢を選べば。僕はあの底に着く前にたぶん僕でなくなる。だから逃げない。逃げないなら越えるしかない。この二体を同時に相手にする壁を。単層のこの身で。
その冷たい声が同時にこうも言った。——今ならまだ逃げられる。
灰縄を置いて。二体の魔物は僕を追ってはこないだろう。目の前に動けない獲物が五人もいるのだから。彼らを囮にして僕だけが退く。冷酷な計算だ。でも生存の計算としては正しい。僕が死ねば、誰も救われない。僕が生きれば。少なくとも一人は助かる。その理屈は完璧だった。完璧すぎて、吐き気がした。僕はその考えを頭の中から追い出した。追い出したところで状況は何も変わらない。変わらないなら、せめて吐き気のしないほうを選ぶ。それだけのことだった。灰縄を囮にして僕だけが退く。その計算は完璧だった。僕が死ねば誰も救われない。僕が生きれば少なくとも一人は助かる。どこにも穴のない生存の理屈。その理屈に従える自分になりたくなかった。あの底が見たいのは名前のない渇きのためだ。でもその渇きのために目の前の五人を囮にするなら。僕がその底で見るものはたぶん僕が見たかったものではなくなる。渇きだけの冷たい何かになった僕が。どんな景色を見たところで。それはあの海辺で星を見上げた僕の望んだものではない。だから僕はその完璧な計算を頭の外へ放り出した。
守りながら攻める。
それができれば。
二体を同時に抑えられれば。
でも単層では無理だ。一度に一つしか組めないのだから。二枚あれば。二枚の陣を同時に組めれば。片方で守りながら、片方で攻められる。でもそんなことはできない。
できるはずが——。
そこで僕の思考が止まった。
できるはずがない?
本当に?
誰がそう決めた。
二枚の陣を同時に組めれば。片方で守りながら片方で攻められる。単層のあの逃げ場のない板挟みから抜け出せる。でもそんなことはできない。一度に一つしか組めないのだから。できるはずがない。誰がそう決めた。教本か。律の伝説か。収束は量で焼く力だと信じている世界のほうか。その誰も疑わなかった前提を。僕は一度覆している。ならもう一度覆せないと誰が言える。枯渇の淵で右手が勝手に答えを掴んだように。今も僕の中のいちばん深いところが静かに次の答えを探しはじめていた。
収束は魔力を一点に集める力だ。一点に集めるということは。その一点を、どこまでも細くできるということだ。一点に集めるとは、突き詰めれば一点を限りなく小さく鋭くすることだ。その細さに限りはあるのか。
ないはずだ。
細くするということにだけは僕は誰よりも長けている。これまで僕は集めた魔力をそのまま一本の太い線として陣にしていた。一本だから一枚しか描けない。でも一本の太い流れを扱うのをやめたらどうだ。一本を無数の細い糸の束として捉え直したら。撚った縄が遠目には一本に見えてその実細い糸の集まりであるように。魔力の流れもそう見立てられるはずだ。これまで僕は収束を一本の太い流れとして扱ってきた。一点に集める。その一点を太い一本の線として陣に注ぐ。一本だから一度に一枚しか描けない。でも収束の本質は集めることではなく細くすることだ。ならその細さに限りはあるのか。ないはずだ。細くすることにだけは僕は誰よりも長けている。一本の太い流れを極限まで細い糸に撚り上げる。撚り上げた糸を、二本に割る。束ねた縄をほどくように。できるはずだ。いや、僕にしかできないはずだ。束の中の一本一本を別々に動かす。なら。もっと細く。もっと密に。一本の線を極限まで細い糸に撚り上げる。撚り上げた糸を二本に三本に割る。できるはずだ。束ねて。糸のように。一本の太い流れではなく細い糸を何本も同時に操る。そうすれば。二枚の陣を同時に描ける。三枚でも。
僕は目を閉じた。迫りくる魔物の気配を肌で感じながら。残りわずかな魔力をこれまでにないほど細く、細く、収束させる。
その感覚はこれまでとはまるで違った。これまで僕は魔力を「集める」ことに集中してきた。一点に鋭く。でも今僕がしているのは逆だ。集めた一点をさらに細くする。細くしてその細さを保ったまま割る。例えるなら糸を指で裂くような。太い糸を二本の細い糸に裂いていく。裂けるはずがないと頭のどこかが言う。魔力は糸ではないのだから。でも僕の指はそう感じていた。この感覚が正しいかどうかは分からない。分からないまま僕はその感覚に賭けた。
一本の糸が二本に割れる。その二本を別々に動かす。右手で守りの陣を。同時に左手で攻めの陣を。初めての感覚に脳が軋んだ。二つのことを同時に描く。指が混乱する。糸が絡む。一度崩れた。崩れて危うく攻撃を受けかけた。糸が絡むのは二本を同じ一つの意識で操ろうとするからだ。なら意識を割ればいい。一つの意識で二本を追おうとすると。視線が行ったり来たりしてどちらも疎かになる。両手で別々の絵を同時に描こうとするようなあの混乱。でも右手のことを右手に任せ。左手のことを左手に任せたら。
脳が二つの流れを別々の場所で抱えはじめる。利き手でないほうは遅れる。線が歪む。でも繰り返せば追いつく。そうやって意識を二つに割っていくことは。母が恐れたあの一線をまた一つ越えることでもあった。でも今はそれを考えている暇はない。右手に一本。左手にもう一本。右と左を別々の生き物のように扱う。利き手でないほうが遅れる。線が歪む。でも繰り返せば追いつくはずだ。脳が二つの流れを別々に抱えることに少しずつ慣れていく。軋みながら。悲鳴を上げながら。覚醒したときも。枯渇の淵で真形を掴んだときも。僕はそのたびに母の恐れた線を越えてきた。取り返しのつかないところが変わってはいないか。母のあの声が遠く蘇る。今僕は意識を二つに割ろうとしている。自分の中に二つの手を生もうとしている。それはたぶんまた一つ僕を普通の人間から遠ざける。でもその先に五人の命がある。だから越える。僕でなくなる恐れよりも。目の前の命のほうが今は重い。その天秤に迷いはなかった。でも。
もう一度。
もっと細く。
もっと密に。
撚り上げろ。
できるはずだ。
束ねて糸のように。一本の太い流れではなく細い糸を何本も同時に。撚り上げろ。もっと細く。もっと密に。迫りくる魔物の気配を肌で感じながら。




