第二十八話 救援
奥へ行くほど偏差は濃くなった。抜けていく魔力の速さが走るごとに増していく。僕は掌に陣を組んだまま走った。絶やせばその瞬間に身体が削られはじめる。走るごとに偏差が濃くなる。抜けていく魔力の速さが一歩ごとに増していく。陣を保ちながら走る。保つための集中と走るための注意を同時に回し続ける。その二つを両手で別々に抱えるように。空気が重い。道が微かに歪んで見える。この深さは僕がこれまで単独で歩いたどこよりも濃かった。それでも足は止まらなかった。あの地を伝う震動と人の叫ぶ気配が。僕の理性よりずっと大きく背中を押していた。
走りながら頭の隅で計算が動いていた。この速さでこの深さまで行けば帰りの分がどれだけ残るか。答えははっきりしていた。ぎりぎりだ。誰も助けずに、自分だけが引き返すなら余裕がある。でも誰かを助けて支えて戻るなら。二人分の消耗を僕一人の余力で賄うことになる。それはぎりぎりを通り越して危うい。やめておけと計算する僕が言う。深部の異変は管理側に報せればいい。救援は専門の者がやる仕事だ。学生の登用者が単独で突っ込む話ではない。
全部正しい。
正しいのに足は止まらなかった。あの夜僕は深いところで一人だった。誰も来なかった。当たり前だ。僕がそこにいることを誰も知らなかったのだから。でも今は違う。僕は知っている。あの奥に人がいることを。薪にされかけている人がいることを。知っていて行かなかったら。僕はたぶん一生それを覚えている。あの夜の自分の孤独と重ねながら。そしてそういう記憶を一つまた一つと抱えていくうちに。僕はあの底に着く前に僕でなくなる。母が恐れたように。それだけは嫌だった。
だから正しい忠告の全部を振り切って。僕の足は暗い奥へ向かっていた。
どれくらい走ったか。開けた場所に出た。そして僕はその光景に足を止めた。
灰縄が追い詰められていた。五人のうち二人が倒れている。動いてはいる。でも立てない。魔力が尽きかけているのだ。残る三人がその二人を庇うように立っていた。鵜飼もその中にいた。
三人とも傷を負っていた。前衛の男は盾を片手で辛うじて支えている。もう片方の腕が垂れていた。探知役の女は片膝をついたまま周囲を読み続けていた。読み続けなければ次の攻撃の方向が分からないからだ。鵜飼の槍は穂先が半ば欠けていた。あれだけ入念に確認していた装備が。この短時間でこうなっている。彼らの丁寧さが足りなかったのではない。相手が彼らの想定の外にいたのだ。そして彼らの前に。巨大な魔物がいた。
新種の魔物だった。
これまで見たどの魔物より大きく、硬く、速い。鵜飼たちのあの見事な連携が通じていなかった。前衛が受け止めきれない。探知が動きを読みきれない。この魔物は彼らの経験の外にいた。彼らがこれまで面で制圧してきたどの状況とも違う。一体で彼らの連携の隙間をこじ開けてくる。前衛の男の斧が魔物の胴に叩き込まれた。鈍い音がして弾かれた。刃が通っていない。男が舌打ちをする。その斧はダンジョン産の素材で打った上等なものだったはずだ。
それでも通らない。武器が通じない相手に武器を頼りに戦う者は何ができるのか。その答えを僕は目の前で見せられていた。鵜飼の顔に初めて焦りが見えた。
「……くそっ!引くぞ!全員退避——」
鵜飼がそう叫んだそのときだった。
偶然が重なった。退避しようとした一人が崩れた足場に足を取られた。その拍子にその男の攻撃が坑の壁の脆い一点を抉った。鈍い音がした。偏差領域の歪んだ壁のその奥から。もう一体別の気配がこじ開けられた壁の向こうから引きずり出されるように現れた。
同じ新種の魔物。
それが二体になった。一体でも灰縄の連携が通じなかった相手だ。その一体を五人がかりで捌ききれずにいたそこへ。偶然が、壁の奥からもう一体を引きずり出した。二体の巨体が疲弊しきった五人を挟むように立ち塞がる。万全でも一体を捌けなかった。消耗しきった今、二体を相手に五人が生きて帰れる目は。限りなくゼロに近い。
鵜飼の静かな目に初めて諦めの色が差した。その色を僕は見てしまった。あの夜名前もない坑の底で僕自身の目に差しかけたあの色を。二体の巨大な魔物が疲弊しきった灰縄を挟むように立ち塞がる。
絶望的。
鵜飼の目がそれを悟っていた。諦めの色がその静かな目に差しかけたその瞬間。
僕は二体の魔物と灰縄のあいだに割って入った。
考えて動いたのではない。身体が勝手に動いていた。あの夜、枯渇の死の淵で右手が勝手に陣を組んだように。あの夜もそうだった。助かろうと思ったわけでも誰かのためを思ったわけでもなく。ただ右手が勝手に陣を組んだ。今も同じだ。目の前で人が薪になろうとしている。その光景を見過ごすことが僕の身体にはできなかった。頭が核を隠せと叫んでいる。深く潜れることも燃費が異常なことも全部知られると。
でも、その叫びは一瞬で身体の外へ弾き飛ばされた。考えるより先に。僕はもう二体の魔物と灰縄のあいだに立っていた。目の前で人が薪になろうとしている。その光景を見過ごすことが僕にはできなかった。核が晒される。深く潜れることも燃費が異常なことも全部知られる。ずっと隠してきたのに。でもその計算は一瞬で頭の外へ弾き飛ばされた。隠すことより大事なものが目の前にあった。二年の間僕はこの核を必死に隠してきた。演技をして、数字を調整して、桐山先生にも、縁にも、橘さんにも、本当のことは渡さずに。
その全部がこの一瞬でどうでもよくなった。目の前で人が薪になろうとしている。あの夜の僕のように。指の先から自分が無くなっていくのを味わおうとしている。それを見過ごしてまで守る核なら。そんなものは要らない。あの底に着く前にそんな選択を重ねて僕でなくなるくらいなら。核などいくらでも晒せばいい。その迷いのなさが。僕自身を少しだけ驚かせた。
「——下がってください」
僕はそう言って掌に陣を組んだ。守りの陣。二体の魔物の攻撃を受け止めるための盾。鵜飼が僕を見て目を見開いた。
「学生……!お前!なんでこんなところに——」
「説明は後で」
僕はそう答えた。もう演技をしている場合ではなかった。辛そうな顔も余分な消費も二重の目盛りも。この瞬間には何の意味もなかった。二年間僕を縛ってきたあの隠すための作法の全部が。目の前の五人の命の前では紙のように薄かった。僕は本当の力で盾の陣を張った。
色のない輪郭がこれまで人前で見せたどれよりも濃く澄んで掌の上に立つ。鵜飼がそれを見て目を見開いた。その視線を僕はもう気にしなかった。隠すことをやめた瞬間のその奇妙な軽さを。濃い偏差の底で僕は初めて味わっていた。辛そうな顔も余分な消費もどうでもよかった。目の前で人が薪になろうとしている。あの夜の僕のように。それだけは嫌だった。
僕は本当の力で盾の陣を張った。二体の魔物の凄まじい一撃がその盾に叩きつけられる。重い。単層の盾でも僕の効率なら一撃くらいは受けきれる。でも受けた瞬間腕の芯まで痺れが走った。この深さの魔物の一撃はこれまでのどの魔物とも桁が違う。掌の上の色のない輪郭がその衝撃にたわむ。たわんでけれど辛うじて砕けずに耐える。受けきれるのは一撃だけだ。
二体が同時に来たら。
守りながら、逃がすことは。守りながら、攻めることは。一度に一つしか組めない単層の僕には——できない。その動かしがたい事実が。濃い偏差の底で僕の前に壁として立っていた。単層の盾でも僕の効率なら一撃くらいは受けきれる。壁がそこにあった。濃い偏差で魔力が滝のように抜けていく。その中で二体の強魔物を同時に捌く。魔力不足と強い魔物。その二つが同時に牙を剥いていた。
これが鵜飼の言った想定外の重なりだった。どちらか一つなら僕は越えられた。強い魔物だけなら、拘束して急所を撃てばいい。濃い偏差だけなら、陣で抜けを抑えればいい。でもこの二つが同時に来たとき。単層の僕はその両方に手が回らなかった。守れば、攻められない。攻めれば、守れない。一度に一つしか組めない。その当たり前の限界が。この極限の場所で初めて命に直結した。燃費だけでは越えられない壁が。濃い偏差の底で僕の前に静かに立ち塞がっていた。
一人ってのは強いようで脆い。深いところで想定外が重なったときにゃ一人じゃ手が足りなくなる。あの言葉が今まさに僕の身に降りかかっていた。灰縄なら五人でこの二体を分けて捌けたかもしれない。でも彼らはもう消耗しきっている。そして僕は一人だ。燃費だけでは越えられない壁が初めて僕の前に立ち塞がった。




