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第二十七話 予兆


その坑のことは、登用者の間で少し噂になっていた。新しく開かれた偏差級の坑。これまででいちばん深い。資源も桁違いにいい。でもその分危険も大きい。特に深部にはまだ記録の少ない強い魔物がいるという。まだ誰もその坑の底までは辿り着いていない。国が坑を開いてからまだ日が浅いのだという。


開かれたばかりの坑には必ずこういう時期がある。誰も底を知らず地図もなく記録も少ない。だから資源は手つかずで、価値が高い。だから危険も読めない。早い者勝ちであると同時に、早い者から死ぬ。登用者の間ではそう言われていた。


開かれたばかりの坑には地図がない。どこに何がありどこが危ないか。全部自分の身体で確かめるしかない。確かめた者だけが手つかずの資源を独り占めできる。でも確かめ損なった者はそのまま帰ってこない。だからこういう新しい坑には独特の張りつめた空気があった。


欲と恐れが同じ濃さで漂っている。僕はその空気を吸い込むたびに胸の裏が疼いた。誰も底を知らない。その一点にだけ僕の熱はいつも真っ先に反応する。僕はその話を聞いて胸の裏が静かに疼くのを感じた。誰も辿り着いていない。その一言に僕の熱はいつも反応する。地図もなく、記録も少なく、底も知れない坑という迷宮<ダンジョン>。普通の探索者にとってそれは恐怖の理由だ。何が出るか分からない。どこで死ぬか分からない。でも僕にとっては逆だった。誰も見たことがないということは。その奥に僕のいちばん見たいものがあるかもしれないということだ。あの海辺の届かない星のように。まだ誰の手も届いていない場所。その一点にだけ僕の胸の裏はいつも静かに灼けた。




僕はその坑への審査を通した。核は隠したまま。いつものように器用さと生還で。初めて潜ったその坑は確かに深かった。偏差の濃さがこれまでとは段違いだった。立っているだけで抜けていく魔力の速さに僕でさえ少しだけ気を引き締めた。陣を絶やせば僕でも危ない。


その代わり、資源は桁違いだった。鉱脈の色がこれまでの坑とは違う。もっと深い青。削り出すと断面が淡く光った。薬草も見たことのない種類があった。葉が七枚に分かれていてその一枚一枚に別々の脈が走っている。どれが薬でどれが毒なのか。教本にも載っていない。


僕は慎重に脈の質を指で確かめていった。一枚目。流れが細い。二枚目。流れが逆を向いている。三枚目。これは強い。試行錯誤の末に僕はその株の薬効のある部位を特定した。特定できたのはたぶん僕だけだろう。他の探索者はこういう未知の植物を丸ごと持ち帰るか丸ごと捨てるかだ。一枚ずつ確かめる余裕がないからだ。その日僕はその葉をかなりの量持ち帰った。買取所の職員が目を見開いた。


「これ、どこで。……いや、それよりよく選り分けましたね」


値はこれまでの三倍近くついた。それでも僕はまだ浅い層しか歩いていない。それでも僕の燃費ならまだ余裕があった。この坑の資源はこれまでとは色からして違った。鉱脈の断面は深い青に淡く光る。削り出すと指先にこれまでの鉱石とは違う細かな魔力の脈が伝わってきた。濃い偏差の中で育った資源はそれ自体が濃い魔力を抱えている。その濃さがそのまま値になる。僕はその資源を指先の感覚だけで選り分けていく。どれが本物でどれが紛い物か。目には見分けられないものを。魔力の脈の細さと向きだけで拾い上げる。この深さではそのけちな見極めがいよいよ他の探索者との差を広げていった。浅い層で資源を採りながら、僕は坑の奥へ続く暗い道を見つめた。あの先に誰も見たことのない深部がある。いつか。でも今日はまだ無理をしない。一歩ずつだ。僕は自分にそう言い聞かせた。




その坑で僕はまた灰縄と顔を合わせた。鵜飼たちは装備を入念に確かめていた。いつもより慎重だった。いつもの潜行でも彼らは丁寧だった。でもこの坑ではその丁寧さがいっそう際立っていた。罅を指でなぞり、留め具を一つずつ確かめ、撤退の基準を声に出して復唱する。


その念の入れようが。かえってこの坑の底知れなさを物語っていた。あれだけの経験を積んだ男たちがこれだけ慎重になる坑。僕はその様子を少し離れて見ていた。そして少しだけ自分の確認相手のいなさを思った。僕の撤退基準は僕の頭の中にしかない。復唱してくれる仲間もいない。その身軽さが。このときはまだ危うさには見えていなかった。


装備の確認は一つ一つ声に出して行われていた。槍の柄に罅がないか。盾の留め具が緩んでいないか。予備の武器は何本持ったか。持ち帰る資源の重量の見積もり。水と非常用の携行食。撤退の判断基準を全員で口頭で確認する。魔力残量が何割を切ったら無条件で引く。その数字を全員が復唱していた。その丁寧さに僕は少し感心した。これが四人を失った男のやり方なのだ。僕には確認する相手がいない。全部頭の中だけで済ませてしまう。済ませられてしまうことがたぶん危ういのだとそのときはまだ分かっていなかった。


「今日は少し奥まで行く」


鵜飼が仲間に言っているのが聞こえた。


「例の新種の魔物の素材が金になる。……ただ無理はするな。やばけりゃすぐ引く」


仲間が頷いていた。手慣れた油断のない確認だった。でもと僕は後になって思う。手慣れているということは。どこかで慣れているということでもある。慣れは探索者を生かす。同じ動きを身体に刻み無駄を削り判断を速くする。でも慣れは、時に、探索者<ダイバー>を殺す。これまでと同じだと思った瞬間に、目の前の坑の本当の深さが見えなくなるからだ。


灰縄の丁寧な確認は慣れのいちばん良い形だった。でもその丁寧さの底にも、この坑をこれまでの坑の延長で捉えるという慣れが潜んでいた。そしてそれは僕も同じだった。自分の燃費ならどこでも大丈夫だと。あの夜一度死にかけたことを。僕は少しずつ忘れかけていた。


この坑をこれまでの坑の延長で捉えている。自分たちの連携なら捌けると思っている。その確かな経験に裏打ちされた自信が。ほんの少しだけこの坑の本当の深さを見誤らせていたのかもしれない。もっともそれは僕も同じだった。僕もこの坑を少し甘く見ていた。自分の燃費ならどこでも大丈夫だとどこかで思っていた。あの夜の枯渇死の淵を。僕はいつのまにか遠い記憶のように扱いはじめていた。


あれは無知だったからだと。今の僕は削れ方を知り、陣を磨き、燃費を極めた。だからあの夜のようなことはもう起きない。そう心のどこかで高を括っていた。でも鵜飼の言葉がその慢心に小さな棘を刺していた。深いところは腕じゃどうにもならん場面が必ず来る。


その「必ず」が。いつどんな形で来るのかを。このときの僕はまだ本当には分かっていなかった。分かっていないことすら、分かっていなかった。深いところが見たいという熱に任せて。自分の力の届く範囲を少しずつ過信しはじめていた。うまくいっているときほど足元は見えなくなる。


僕は上の偏差級を平然と歩き。資源を桁違いに稼ぎ。その全部を自分の燃費で賄っていた。賄えてしまうから僕は少しずつ忘れた。あの夜名前もない坑の底で指の先から自分が消えていくのを味わったことを。想定外というものの恐ろしさを。燃費がいいというのは想定の中で無敵というだけだ。想定の外に出たとき。その無敵さが何の役にも立たないことを。僕はまだ身体では知らなかった。知らないまま坑の奥の暗がりを少しだけ甘く見つめていた。


人はうまくいっているときほど足元が見えなくなる。灰縄も。そして僕も。


その日僕は浅い層で採取を続けていた。昼を過ぎた頃だった。坑の奥のほうから。地を伝って。微かな震動が届いた。偏差領域の中では音も震動も少し歪む。でもそれは確かに何か大きなものが暴れている震動だった。僕は手を止めた。胸の奥がざわついた。灰縄が奥に行っている。例の新種の魔物を狙って。まさか。いやと僕は自分を抑えた。あの老練なチームだ。やばければすぐ引くと鵜飼は言っていた。大丈夫なはずだ。でも震動は収まらなかった。むしろ少しずつ大きくなっていく。そしてその震動に混じって。微かに。人の叫ぶような気配が伝わってきた。僕の足は気づけば奥へ向かって動きはじめていた。


行くな、と理性が言う。


あそこは深い。お前の想定よりずっと。救援に入ったところで単層のお前に何ができる。共倒れになるだけかもしれない。それは正しい。正しい忠告だ。でもあの熱と鵜飼の言葉が同時に背中を押した。一人じゃ手が足りなくなる。そのとき隣に誰もいねえのはこたえるぞ。あの言葉を言った本人が今その状況に陥っている。隣に誰もいなくなろうとしている。あの夜深いところで一人で死にかけた僕には。それがどういうことか痛いほど分かった。僕は暗い坑の奥へ走りだした。



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