第二十五話 遠い人
その人を、僕が初めて見たのは、まったくの偶然だった。上の偏差級の坑の受付。僕が潜航を終えて戻ってきたときのことだ。受付のいちばん奥。普段は誰も通されない区切られた一角にその人はいた。
女の人だった。
歳は分からなかった。二十代にも三十代にも見える。でもそのどちらでもない気がした。髪は長く暗い色をしていた。服装は地味と言っていいほど簡素だった。装飾も目立つものは何も身につけていない。なのに、その一角だけが周りと切り離されているように見えた。受付の職員たちがその区画に誰も近づかない。近づかないようにしていた。若く見えるのに、纏っている空気だけがひどく古い。何十年も何かを見続けてきたような静かな目をしていた。
その古さは服や持ち物の古さではなかった。むしろ身につけているものは簡素で新しくすら見えた。古いのは時間の溜まり方だった。人は生きた年月の分だけ目に時間を溜めていく。その人の目に溜まった時間は見た目の若さとまるで釣り合っていなかった。二十代にも、三十代にも見える顔に。何十年も同じ場所を見つめ続けてきたような、静かな澱みが沈んでいる。その釣り合わなさが。いちばん僕を落ち着かなくさせた。橘さんがその人の隣に立っていた。あの僕を勧誘してきた宵星の橘さんが。背筋を伸ばして。まるで格上の前の、新人のように。僕を値踏みしたあの橘さんがこの人の前ではただの下の者だった。
その人の視線がふと僕のほうに流れた。目が合った。一瞬だった。
その一瞬がやけに長く感じられた。時間が伸びたわけではない。ただその目にあまりに多くのものが含まれていた。値踏みではない。橘さんや縁の、あの道具を測る目とは違う。驚きでもなかった。もっと静かでもっと深い何か。しいて言えば、確認だ。何かを確かめる目。
自分の中にある問いに対して答えを照らし合わせるような。でもその一瞬で僕は悟った。この人は違う。これまで会った誰とも、違う。桐山先生とも縁とも橘さんとも。格が違う。何がと言葉にはできない。ただその静かな目の奥に僕がまだ想像もできない深いものが沈んでいるのが分かった。その人は僕をほんの少しだけ見た。そしてすぐに視線を外した。興味を失ったのではない。むしろ逆だ。何かを見つけた者がそれを悟られまいと目を逸らす。そういう逸らし方だった。そのほんの一瞬の視線に僕は値踏みされたのではないと感じた。橘さんや縁のあの道具を測る目とは違った。もっと静かでもっと深い何か。同族を見つけたときのような。あるいは自分がずっと欲しかったものを他人があっさり持っているのを見てしまったときのような。そんな目だった。値踏みではなかった。あの人は僕を道具として測ったのではない。僕の中に自分と同じ渇きを。自分が届けなかった場所へ向かおうとするその熱を。見つけてしまった。そういう目だった。
だからあの人はすぐに視線を外した。見つけたことを悟られまいとするように。その逸らし方の中に。僕は初めてあの人の人間らしい動揺のようなものを見た気がした。橘さんがその人に何か耳打ちをした。その人は答えなかった。ただ静かに立ち上がり奥へ消えていった。最後まで一言も発しなかった。
「今の人は」
僕は受付の職員に聞いた。職員は少し困った顔をして口を濁した。
「……さあ。私らもよくは。時々いらっしゃる上の方、としか」
その言い方が気になった。知らないのではない。言えないのだ。
「どこかのクランの方ですか」
僕は重ねて聞いた。職員は首を横に振った。
「クランなら名乗りますよ。……あの方は、名乗らない」
名乗らない。それは名乗る必要がないということだ。名乗らなくても通じる。名乗らなくても通される。クランは名乗る。鉄環と名乗ればたいていの相手は身構える。名乗ることでその看板の格を示すのだ。でもあの人は名乗らなかった。名がなくてもその場の空気そのものを静かに従わせてしまう。受付の職員があの一角に近づけない。近づいてはいけないと身体が知っている。名を持つ者たちのずっと上に。名を必要としない者がいる。その事実だけで水たまりだと思っていた世界の思いのほかの深さが知れた。そういう立場の人間がこの世界にはいるらしい。
「まあ、あんまり詮索しないほうがいいですよ」
職員はそう言って話を打ち切った。その打ち切り方に慣れがあった。これまでにも同じ質問をされてきたのだろう。知らないのではない。言えないのだ。その差は大きい。知らないなら首をかしげる。でもこの職員は目を伏せた。伏せて話を打ち切った。言ってはいけないことを知っている者の伏せ方だった。あの人のことを聞かれ口を濁す。それを何度も繰り返してきた。そういう慣れだった。名を持たない者の周りには。その名を口にしてはいけないという静かな掟が張り巡らされている。その掟の見えない大きさが。あの人の格を名よりも雄弁に物語っていた。そして同じように打ち切ってきた。上の方。常磐縁の言った「大きな手」。橘さんの言った「もっと大きな手」。あの人はたぶんその大きな手の持ち主のひとりだ。
そして縁の言葉が蘇る。あの人たちは老いないという噂があります。あの古い空気。若く見えるのに、何十年も見続けてきたようなあの目。ばかな、と思う。人が老いないなんて。でもあの人を見たあとではそのばかげた噂がほんの少しだけ現実味を帯びていた。
その夜僕はなかなか眠れなかった。あの人の静かな目が頭から離れない。目を閉じても。あの渇いた目が瞼の裏に浮かぶ。若く見えるのに、古い。格が高いのに渇いている。その釣り合わなさが僕の中でずっと解けずにいた。僕はこの学校でいちばんになった。学外でも上の偏差級を歩けるようになった。少しだけ自分の力に慣れていたのかもしれない。でもあの人を見たあとでは。その慣れがひどく幼く思えた。上にはまだ僕が想像もできない場所がある。
そしてその場所に立つ人でさえ。あの底には届いていない。その事実が僕をこわがらせるより先に。静かに奮い立たせた。あの人を見て思い知った。常磐縁の言った通りだった。ここはまだ浅い。上には僕が想像もできない人たちがいる。あの人の見ている場所は僕のずっと上だ。水たまりを出れば池がある。池を出れば湖がある。常磐縁はたぶんその湖のあたりにいる。でもあの遠い人は。湖よりもさらに上だ。あるいは上という言い方すら、正しくないのかもしれない。あの人は水面の高さでは測れない場所にいる。名を必要としないほど上に。
そしてそれだけの高さにいながら。あの人の目は僕と同じいちばん深いところを渇いた目で見つめている。高さのいちばん上にいる人が。深さのいちばん下を欲している。そのねじれが。僕にはなぜかとても他人事とは思えなかった。けれど。と僕は暗闇の中で思う。あの人でもたぶんあの底には届いていない。あの静かな目にはどこか渇きのようなものがあった。何かをずっと欲していて手に入らない者の渇き。僕はその渇きになぜか覚えがあった。
あの海辺の届かない星を見上げた僕自身の渇きに。上にも下にも壁がある。その壁のいちばん奥にあるものを、あの人も欲しているのだろうか。もしそうだとしたら。あの人はそれを手に入れられずにいるのだ。あれだけの格を持ちながら。あれだけの時間を生きてきたように見えながら。それでも届いていない。だからあの渇いた目をしている。もし老いないという噂が本当なら。あの人は何十年、あるいはもっと長く、同じものを欲し続けて。それでも手が届かずにいる。そう考えると、あの静かな目が少しだけ哀しく見えた。あれだけの格を持ちながら。あれだけの時間を生きてきたように見えながら。それでもあの人はまだ渇いている。欲しいものに手が届いていない。力があればたいていのものは手に入る。でもあの人が欲しているものだけは。力の量ではたぶん届かないのだ。
それは僕がいちばんよく知っていることだった。あの底は量では踏めない。だからあの人はあれだけの格を持ちながら届かずにいる。その届かなさの哀しさだけが。時代も格も飛び越えて僕の胸に静かに届いた。考えても答えは出なかった。ただ胸の裏の熱だけが遠い人の渇きに静かに呼応していた。
でもその意味を深く考えるには。あの人はまだあまりに遠かった。




