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第二十四話 上の階


宵星の勧誘を僕は保留したままにした。頷きも断りもしない。その宙ぶらりんがいちばん身軽だった。その代わり僕は自分の足で少しずつ上を目指した。登用者にも階がある。潜れるダンジョンの偏差級が実地の審査で上がっていく。


偏差級というのは坑の危険度を示す区分だ。国が坑ごとに測定して割り振っている。浅い坑から深い坑へ。数字が上がるほど偏差が濃く魔物が強く資源が高い。そして探索者の側にも級位がある。五級から一級まで。その上に特級。自分の級位より上の坑には原則入れない。


入れば免許の停止だ。僕は登用の時点で五級相当だった。学生の登用者としてはそれが上限だからだ。でも実地の審査を通れば級位は上がる。審査は年に何度か行われている。誰でも申し込める。ただ落ちれば次の機会まで半年待つことになる。だからたいていの探索者は確実に通える時期まで待つ。僕は待たなかった。最初の機会に申し込んだ。通るかどうかはやってみないと分からない。でも待っている時間が惜しかった。


僕は一つ、また一つ、とその審査を通した。核は隠したまま。資源の見極めと確実な生還で。器用さだけで通せる審査を選んで受けた。審査のたびに僕を見る目が少しずつ変わっていくのが分かった。最初は学生が来たという物珍しさ。二度目はまだいるのかという驚き。三度目には、誰も何も言わなくなった。通って当然の者として扱われはじめた。


その変化の速さが少しだけこわかった。人の評価というのはこんなにも簡単に動く。半年で僕が潜れる偏差級は二段階上がった。級位は坑の入口の梯子のようなものだった。一段上がるごとに潜れる坑の扉が一つ増える。増えた扉の奥にはより濃い偏差とより高い資源が待っている。普通の探索者はこの梯子を一段ずつ確かめながら上がる。落ちれば半年待たされるからだ。でも僕は確かめなかった。落ちてもいいと思っていた。落ちてもまた受ければいい。惜しいのは時間だけだ。その時間を惜しむ気持ちの根っこにあるのは。いつもあの底だった。


一段でも早く。一日でも早く。あのいちばん深いところへ近づきたい。


上の偏差級の坑は別世界だった。偏差が濃い。立っているだけで魔力が滝のように抜けていく。空気の重さも、光の届き方も、これまでの坑とは違った。狂った定数がより深く世界を歪めている。まっすぐ歩いているつもりでいつのまにか道が傾いている。距離の感覚もあてにならない。普通の登用者なら入口の近くで早々に引き返す深さ。そこを僕は平然と歩けた。陣を絶やさない限り。濃い偏差の中では、色のない熱の揺らぎがいつもよりずっと密に澄んだ。浅い坑では薄く広がるだけだった陣が、ここでは掌の上ではっきりと輪郭を結ぶ。偏差が濃いほど陣はよく効く。あのあべこべの法則がここではいよいよはっきりと僕を生かした。他の登用者が入口であえぐように引き返すその奥を。僕は笑みを浮かべ鼻歌でも歌えそうな余裕で歩いていく。その光景を誰も見ていない。見られないからこそ僕はここでだけ本当の自分でいられた。いや絶やさないためにはこれまでよりずっと集中が要った。濃い偏差ほど陣の効きは増すが気を抜けばその効きごと押し流される。綱渡りの綱が少しずつ細くなっていく感覚。でもその細い綱の上でこそ僕の力は生きた。資源も桁違いに価値があった。


一度の潜航で以前の何倍もの金になる。


その一方で危険も桁違いだった。この偏差級では魔物は避けきれない。浅い坑のように迂回で済ませることが難しくなる。通路が狭い。そして魔物の探知範囲が広い。だから戦うしかない場面が増えた。戦えば魔力を食う。食えば深く行けなくなる。その当たり前の引き算がこの深さでは重くのしかかった。僕は戦い方を少しずつ変えていった。これまでは確実に倒すことを優先していた。でもそれでは消耗が大きすぎる。だから退かせることを覚えた。急所を狙わず痛みだけを与えて引かせる。倒すには魔力が要る。急所を確実に断つにはそれなりの一撃が要る。でも退かせるだけなら、少しでいい。痛みを与える。割に合わないと思わせる。それだけで魔物は引く。殺さずに遠ざける。その匙加減を僕は何度も坑の中で試した。どこをどれくらい突けば相手が引くのか。そのいちばん安い一手を探る。量のある探索者には要らない工夫だった。彼らは倒すほうが速い。でも量のない僕には、このけちな引き算だけが、深くへ行く唯一の道だった。効率を突き詰めるというのはこういう細かい積み重ねのことだった。その積み重ねが僕を深くへ運んできた。


でも、と後になって思う。このけちな工夫がうまくいきすぎたことが。僕に小さな過信を植えつけていた。どんな相手でも退かせられる。どんな状況でもいなせる。その根拠のない自信が。いつか想定の外の何かと出会ったとき。いちばん危ういのだと。このときの僕はまだ気づいていなかった。



僕は学費を完全に納め終えた。抽斗の中のあの通知はもうない。二年の間、あの白い封筒はいつも食卓の醤油差しの隣に置かれていた。置いてあることが言葉より重かった。その封筒に今日決着をつけた。窓口で金を納める。それだけの事務手続きだ。でもその手続きを終えたとき。僕は抽斗の奥でずっと僕を待っていたあの通知が。ようやく消えたことを知った。


母はたぶんまだ知らない。次の通知が来ないことにいつか気づくだろう。そのとき何も言わずに少しだけほっとした顔をするだろう。その顔を思い浮かべて。僕は窓口を離れた。残りは貯めていく。週末に帰ると僕は母に少しだけまとまった金を渡した。バイトがうまくいっているとだけ言って。母は驚いた顔をしてそれから少しだけ泣きそうな顔をした。


「無理はしてないの」

「してないよ」


嘘だ。


でもこの嘘はついてよかった。父の夜勤が一つ減った。それだけで僕は報われた気がした。

その日、汐里が進路の話をしてきた。


「私、来年受験なんだ」


中学の最後の学年。


「あのね、やっぱりお兄ちゃんと同じ学校……ダイバーの科受けてみたいなって」


母が台所で手を止めたのが分かった。その背中がこわばっている。迷宮への一歩を、覚醒をこわいと言った人だ。娘まであの世界へ行くことをこの人は恐れている。息子があの狂った世界へ行くだけでも、母は眠れない夜を重ねてきた。その上、娘まで。台所の母の背中は僕があの熱を打ち明けられなかったあの夜と同じくらい小さく見えた。僕が稼ぐようになってこの家の暮らしは楽になった。でもその楽さが汐里をあの世界へ憧れさせている。僕が良かれと思って架けた橋が。妹を母のいちばん恐れる場所へ渡らせようとしている。その皮肉な繋がりに僕は味噌汁の椀をしばらく置けなかった。


汐里がなぜそう言い出したのか。僕には少し心当たりがあった。僕が稼ぐようになったからだ。この家の暮らしが少しずつ楽になっている。その原因が僕の「バイト」にあることを汐里もうすうす感じている。そしてこの子は僕が探索者の道にいることを知っている。だから探索者になれば家を支えられる。そう思ったのかもしれない。いやそれは僕の考えすぎだろうか。この子はもっと単純に憧れているだけかもしれない。テレビで見た特級の探索者に。


あるいは兄の背中に。どちらにしても。僕がこの子をその気にさせた。それだけは確かだった。でも汐里の目はまっすぐだった。憧れがそこにあった。僕がかつて海辺で星を見上げたときのあの熱に少しだけ似た。


「学費は高いよ」


僕は静かに言った。


「でも……なんとかなるかもしれない」


母が振り返った。その目にいろいろな感情が混じっていた。安堵と心配とそして僕への問い。あなたはそこまで無理をして大丈夫なのかという。僕は笑って味噌汁を飲んだ。大丈夫だ。僕には力がある。誰にも言えないいちばん深いところへ行ける力が。その力でこの子の未来くらい支えられる。金は二番目だ。でも二番目でも僕はそれをちゃんと稼げる。




寮に戻って、僕は要項をまた一つ調べた。飛び級卒業に近い制度があるらしい。一定以上の登用実績と偏差級を満たせば通常の卒業を待たず正規の探索者資格を得られる。学校という隠れ蓑を出ることになる。その先は本物の探索者の世界だ。クランの政争のただ中だ。学校にいる限り、僕はただの少し変わった学生でいられた。校則が、教官が、緩衝材になって外の手から僕を曖昧に守っていた。でもその外に出れば。僕は剥き出しの一人の探索者になる。囲い込もうとする手も値踏みする目も腕ずくの手も。直に僕に届くようになる。守ってくれる校則も教官もいない。それでもと僕は思う。いつまでも隠れ蓑の中にはいられない。


あの底へ行くにはいつかはこの蓑を脱ぐしかない。脱いだ先の剥き出しの寒さは。たぶんあの底の暗さに少しだけ似ている。


でもその先にこそ上の偏差級の——そしていつかあの底へ続く道がある。


僕はその要項を静かに心に留めた。まだ早い。でも遠くない。一歩ずつ確実に、僕は深いほうへ近づいていた。



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