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第二十三話 斥候


常磐縁が僕の前にはっきりと現れたのはその週の放課後だった。学外の受付ではない。学校のいつもの昇降口だ。彼女は当たり前のように僕の隣に並んだ。前と同じように。


「橘さんに会いましたね」


縁は前を向いたまま言う。


「あなたの数字を上げたのは私です。隠しません」


やはりそうだった。僕は驚かなかった。


「あなたを観察してきました。ずっと。前期の、あのごぼう抜きのときから」


縁は続ける。声は相変わらず平坦だった。


「そして、有用だと判断しました。だから上に上げた。宵星に。……あなたを引き込むために」


正直な子だとまた思う。こういう子は嘘でこちらを油断させたりはしない。搦め手は使う。でも根っこは正直だ。嘘をつかれるより正直に値踏みされるほうが扱いやすい。嘘はどこで裏返るか読めない。でもこの子の正直さはいつも同じ方向を向いている。自分の役目を果たすこと。それだけだ。だからこの子が次に何をするかはその役目から逆算できる。僕を上に上げる。それがこの子の値打ちなら。この子は僕の価値が下がることだけは決して望まない。その一点でだけはこの子は僕の味方だった。奇妙な味方だった。


「常磐さんは」


僕は聞いた。


「宵星の人、なんですか」


縁は少しだけ間を置いた。


「宵星とは繋がっています。でも宵星の人ではありません」


妙な言い方だった。繋がっているが宵星の人ではない。ではこの子はどこの人なのか。その宵星のさらに上。橘さんが頭を下げるようなどこか。問いかけようとして僕はやめた。聞いてもこの子はまだ答えないだろう。答えるべき時が来るまでこの子は決して口を割らない。そういう訓練を受けた子だ。一年生にしてすでに。その事実だけで背後の大きさが知れた。


「一つ、聞いていいですか」


僕はそう切り出した。


「常磐さんはなぜこの学校にいるんですか」


背後にそれだけの何かがあるなら。わざわざこんな学校に通う理由が分からなかった。縁は少しだけ目を細めた。


「探すためです」

「探す?」

「使えるものを。……この学校だけじゃありません。ほかの学校にも私みたいなのがいるはずです」


淡々とそう言った。この子は選ばれて送り込まれている。原石を見つけ出すために。そしてその原石が僕だったということだ。背筋が少しだけ寒くなった。


「もう一つ、いいですか」


僕は続けた。この子は、今日は答える気があるらしい。なら聞けるだけ聞いておきたかった。


「僕を上げて。それで、常磐さんには何の得があるんですか」


縁は初めて少しだけ面食らったような顔をした。


「……変なことを聞きますね」

「変、ですか」

「ええ。普通はそこ聞きません。自分がどう扱われるかを聞くものです」


たしかにそうかもしれない。でも僕にはそちらのほうが気になった。この子が何のために動いているのか。それが分からないとこの子をどう扱えばいいのか分からない。


「得はあります」


縁は正直に答えた。やはり、正直だった。


「私はまだ何者でもありません。家の中ではいちばん下です。……使えるものを見つけて上げる。それだけが私の役目で私の値打ちです」


その言い方に感情はなかった。事実を事実として述べているだけだった。でもその事実の中身が。僕には少しだけ痛かった。役目が値打ち。役目を果たせなければ値打ちがない。そういう場所でこの子は育っている。役目を果たせなければ値打ちがない。値打ちがなければ要らない。そういう物差しの中でこの子はまだ十五かそこらの歳で原石を探させられている。


僕が貧しい食卓で届かない星を諦めきれずにいた頃。この子は値踏みと駆け引きの中で自分の値打ちを証明し続けてきたのだろう。貧しさの種類が違うだけだ。僕には名前のない渇きがあった。この子にはたぶんそれすら許されていない。役目だけがこの子の渇きの代わりだった。僕には名前のない熱があった。得も意味もない、ただ見たいだけのあの渇き。それは貧しさの中でも誰にも奪えなかった。でもこの子にはそれがない。あるのは役目だけだ。


使えるものを見つけて上げる。それを果たせなければ値打ちがない。果たし続けなければ居場所がない。そういう場所で、この子は自分の渇きを持つことすら許されてこなかったのかもしれない。役目を渇きの代わりに。値打ちを自分の証の代わりに。その育ち方が僕には僕の貧しさとはまた別の種類の飢えに見えた。


「だからあなたには価値があってもらわないと困るんです」


縁は平坦にそう締めた。


「私のために」


僕は思わず笑いそうになった。この子はどこまでも正直だ。正直すぎて逆に信用できる気がした。この子はたぶん僕とはまるで違う場所で育っている。常磐という姓を僕は口の中で転がしてみた。変わらぬものという響きがどこかにある名だ。この子のあの感情を削ぎ落とした落ち着きも。役目だけで自分を保つあの育ち方も。どこか変わらないことを良しとする場所から来ているように思えた。その変わらなさが、どこに根を持つのかは分からない。分からないままその響きだけがなぜか耳の底に静かに残った。僕が貧しい家で届かない星を見上げていた頃。この子はこういう値踏みと駆け引きの中で育てられてきたのだろう。そう変わらない歳で。その育ちの差が少しだけ痛ましくもあった。でもそれを口にはしなかった。この子は憐れみをいちばん嫌うだろうから。




「一つ、忠告します」


縁は去り際に言った。


「宵星はフロントです。あなたをいちばん最初に掴みにきた手。……でもその手の後ろにはもっと大きな手があります。あなたが本当に有用だと分かれば、その大きな手がいずれ動く。宵星の勧誘なんて、そのほんの入口です」


その言い方には脅しの響きはなかった。ただ事実を告げているだけだった。あなたはもう小さな手が扱える器ではない。いずれもっと大きな手が動く。それは警告であると同時に値踏みの答え合わせでもあった。この子は僕の値打ちを宵星の器では収まらないと見ている。その見立てが正しいのかどうかは僕には分からない。でもこの子がそう見ているという事実だけで。僕の周りの盤はもう僕の知らないところで動きはじめているのだと知れた。僕は彼女を見た。


「その大きな手は、何を望んでるんですか」


縁は初めてほんの少しだけ表情を動かした。困ったような。あるいは羨むような。


「さあ。……私にも全部は分かりません。ただ」


彼女はそこで言葉を切った。


「あの人たちは、老いない、という噂があります」


それだけ言って。縁は去っていった。老いない。その一言だけが妙に耳に残った。迷宮の資源には、傷を癒し、身体を強くするものがある。それは知っていた。実際、僕が採ってくる資源の中にも薬になるものはあった。でも老いないとは。それは癒しや強化とは次元が違う話だった。時間そのものを押し返す。そんなことがあるのだろうか。あるとしたらそれはどれほど深いところの資源なのだろう。浅い層の薬草は傷を少し早く治すだけだ。中層の鉱石は身体を少し丈夫にする。その延長をどこまでも伸ばしていったら。傷を治すのではなく傷をなかったことにする。身体を丈夫にするのではなく、身体が古くなることそのものを押し返す。癒しのいちばん奥。それが老いないということなのかもしれない。だとすればその資源は僕がまだ見たこともない深いところにある。そしてそれを手にした者があの遠い人だとしたら。あの古い空気の意味も。若く見えるのに、渇いたあの目の意味も。少しずつ繋がってくる気がした。繋がってくるのにその中心だけはまだ遠い闇の中だった。



そこまで考えて僕は一つのことに思い当たった。深いところの資源ほど価値がある。それは探索者<ダイバー>なら誰でも知っていることだ。浅い層の薬草は傷を少し早く治す。中層の鉱石は身体を少し強くする。ではその延長線上をどこまでも伸ばしていったら。いちばん深いところの資源は何をするのか。老いを押し返す。それは意外なほど自然な帰結だった。


癒しの究極。身体を元の状態へ戻し続ける力。だとすれば。そのさらに奥には何があるのか。老いを押し返すよりもっと先。時間そのものよりもっと根本的な何か。あの底にそれがあるのだろうか。考えて僕は少しだけ胸が熱くなった。でもそれも想像にすぎない。僕はその言葉の意味を深くは考えなかった。考えるにはまだ遠すぎた。僕が見ているのは囲い込みの手でも、老いない誰かでもなかった。その全部のずっと下。誰も帰ってこないいちばん深いところ。どんな手もそこまでは届かない。クランも老いない誰かもその大きな手も。彼らが争い囲い、奪い合っているものは、たぶんあの底から見ればずっと浅いところの分け前にすぎない。彼らは水たまりの中でいちばん大きな波紋を立て合っている。立派な波紋だ。でも波紋は波紋だ。僕はその下を見ている。届かないからこそ僕はそこへ行きたかった。クランも老いない誰かもその大きな手も。みんな水たまりの中でいちばん大きな波紋を立て合っている。立派な波紋だ。でも波紋は波紋だ。彼らが奪い合っているものはあの底から見ればずっと浅いところの分け前にすぎない。僕はそのずっと下を見ている。



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