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第二十二話 宵星


その人は次の休日もいた。その次の休日も。僕が坑から戻る時刻を正確に知っているようだった。


二度目に見かけたとき、僕は少し迷った。声をかけるべきか。あるいは、気づかないふりをするべきか。結局、僕は後者を選んだ。こういうときにこちらから動くのはたいてい損だ。二年の間の学校生活でそれだけは身に染みている。だから僕はその人の前をまっすぐ通り過ぎた。その人は何も言わなかった。ただ僕の背中を見送っていた。見送られているという感覚が背中にはっきりと残った。


三度目の週。僕はその日いつもより少しだけ早く戻った。時間をずらせば会わずに済むかもしれない。そう思ったのだ。でも、その人はいた。僕が戻るその時刻に合わせて。こちらの動きを読まれている。その事実に僕は少しだけ寒気を覚えた。三度目にようやくその人は僕に声をかけてきた。


歳は三十代の半ばくらいだろうか。仕立てのいい上着を無造作に着ている。探索者の身体つきではなかった。潜る側ではなく、送り出す側の人間だ。肩に坑の緊張を負った感じがない。手も武器を握り続けた者の硬さを持っていない。この人は坑の暗がりを知らないのだ。知らないままに、坑に潜る者たちを駒のように動かしている。その安全な場所から差し出される笑顔が。坑の底の孤独を知る僕には、どこか遠い国の言葉のように響いた。


悪い人ではないのだろう。ただこの人と僕とでは見ている景色が根っこから違う。


「深澤灯真くん、だね」


名前を知られていた。僕は警戒しながらはいと答える。


「橘といいます。宵星の登用担当をしています」


橘と名乗った人は名刺を差し出した。宵星<よいぼし>。聞いたことはあった。中堅の企業クランだ。堅実な資源運用で名の知れた、クラン。クランというのはこの世界の探索者の集まりの形だ。昔のような分かりやすいギルドはもうない。国がダンジョンを免許制で管理するようになってから。探索者たちの集まり方も変わった。個人で潜る者もいれば、互助のパーティを組む者もいる。


そして、それを企業として束ねるのがクランだった。資金を出し、装備を揃え、資源を市場に流す。探索者を社員のように抱える大きなクランもあれば、腕のいい個人とその都度契約するところもある。緩やかな階層だ。個人から互助のパーティ、そして企業へ。宵星はその中堅どころ。いちばん下に個人がいる。自分の腕だけを頼りに浅い坑を細々と潜る者たち。


その上に互助のパーティ。気心の知れた数人で分け前を分け合い、深いところを目指す者たち。灰縄のような。そして、いちばん上に企業クラン。資金を出し、装備を揃え、推薦を握り、探索者<ダイバー>を社員のように抱える。その階層を上へ行くほど、深い坑へ早く届く。


でも上へ行くほど自由は削られていく。どこを潜り、何を採り、いくらで売るか。その全部が少しずつ自分の手を離れていく。深さと自由。この世界の探索者はその二つをいつも天秤にかけている。


クランに属することの利点ははっきりしている。まず装備が支給される。深い坑に潜るための装備は個人で揃えるには高すぎる。次に推薦が得られる。偏差級の審査は実力だけでは通らない。所属や推薦人の格がものを言う場面がある。そして情報。どの坑にどんな資源が出てどこが危ないか。その情報を個人で集めるのは限界がある。だから腕のいい探索者ほど、どこかのクランに属する。



もっともクランに属さない探索者も少なくない。束縛を嫌う者。分け前を取られたくない者。あるいは、灰縄のように気心の知れた仲間だけで組む者。国が免許で管理している以上、個人でも潜ることはできる。ただ上の偏差級の坑には、推薦が要る。推薦を出せるのは実績のある個人か、クランだ。だから深く潜りたい者ほど、いずれ、クランと関わることになる。


その入口でみんな一度は悩むのだという。自由を取るか、深さを取るか。僕も今その入口に立たされている。クランに入れば深いところへ早く届く。推薦があり、装備があり、情報がある。でもそのぶん、僕の潜り方は記録され、報告され、管理される。僕がどこまで潜れるか。どれだけ余らせるか。その全部をいつか差し出すことになる。


差し出せば、核は晒される。晒されれば、僕は囲われる。囲われれば、勝手にあの底へは行けなくなる。深さを取るためにクランに入る。でもそのクランが僕をあの底から遠ざける。


そのねじれた天秤の前で。僕はどちらの皿にも指を置けずにいた。その登用担当がなぜ一介の学生の僕を。答えは分かっていた。数字だ。



「面白い数字を見せてもらってね」


橘さんは柔らかく笑った。


「登用者の記録は僕らも見られるんだ。……きみの消耗、おかしいよ。同じ坑で同じだけ潜って、なぜ、きみだけあんなに余る。採取量は平凡なのに。まるでわざと、採る量を抑えてるみたいに」


見抜かれていた。桐山先生。常磐縁。そしてこの人。僕の周りで僕の異常に気づく者が少しずつ増えていく。でもこの人の目は、前の二人とは少し違った。桐山先生の目には心配があった。縁の目には値踏みがあった。


橘さんの目にはその両方に加えて——欲があった。


商品を見つけた者の欲だ。その欲は隠されていなかった。むしろ丁寧に笑顔で差し出されていた。悪い人ではないのかもしれない。ただこの人にとって、僕は人ではなく、値打ちのある数字だった。それがはっきりしているぶん、桐山先生の心配より扱いやすくもあった。心配は断りにくい。でも商談は断れる。桐山先生の心配は善意でできていた。善意はこちらの罪悪感を突いてくる。だから断るのがつらい。でも橘さんの勧誘は商談だった。商談には損得しかない。損得ならこちらもそろばんを弾ける。割に合わなければ断る。ただそれだけだ。


だから僕はこの人の前では心配の前よりずっと楽に息ができた。値打ちで見られることは、いてもいなくても同じものとして無視されるよりは、ずっとましだった。その気持ちに絡め取られないようにと自分に釘を刺しながら。


「うちに来ないか」


橘さんはまっすぐに言った。


「学生のうちから宵星の登用枠で動ける。学外のもっと上の偏差級の坑にもうちの推薦があれば早く入れる。金も桁が変わる。……きみのそのおかしな才能をうちで活かさないか」


悪い話ではなかった。金は要る。上の偏差級に早く入れるのも魅力だった。深いところへ近づける。でも僕は頷かなかった。この人は僕を商品として見ている。商品は囲われる。囲われれば、僕は僕の行きたいところへ行けなくなるかもしれない。あの底は誰かの事業の都合で辿り着ける場所ではない。


「……少し、考えさせてください」


僕はそう答えた。橘さんは笑顔のまま頷いた。


「もちろん。急がないよ。……ただ覚えておいて。きみの数字はもう、うち以外も見てる。気づいてるのは、僕だけじゃない」


その一言は勧誘であると同時に警告だった。早く決めないと他に掠われるぞと。あるいは囲い込まれるぞと。僕は曖昧に頷いた。帰り道常磐縁の姿を遠くに見かけた。彼女はこちらを見て何も言わずただ小さく頷いた。その頷きの意味を僕は少しあとになって理解する。橘さんに僕の数字を上げたのは。たぶん彼女だった。





その夜、僕は寮の布団の中で名刺を眺めていた。宵星。登用担当橘怜。紙の質が良かった。こんな紙を僕はこれまで触ったことがない。指の腹に吸いつくような滑らかさがあった。厚みがあってけれど重くはない。角がきっちりと立っている。僕が握ってきたのはいつも擦り切れた学費の通知や薄い実習の資料だった。


この一枚の名刺はそれらとはまるで違う世界から来ていた。こういう紙を当たり前に配る場所がどこかにある。その遠さだけが、名刺から静かに伝わってきた。この一枚にたぶん僕の学食の何食分かの価値がある。そんなことを考えている自分が少し可笑しかった。この人の言うことは悪い話ではなかった。いやむしろ、良い話だ。金。上の偏差級。推薦。僕が今喉から手が出るほど欲しいものが全部並んでいる。


あの底へ近づくために必要なもの。その全部をこの人は差し出そうとしている。なのに、なぜ僕は頷かなかったのか。考えて、答えは単純だった。僕がこの力を誰にも渡したくないからだ。クランに入れば僕の潜り方は記録される。どこまで潜り、どれだけ余らせたか。全部報告することになる。そうなれば、僕の核は遅かれ早かれ、晒される。晒されたとき僕はたぶん宵星のいちばん大事な資産になる。


資産は守られる。守られるということは囲われるということだ。勝手に深いところへ行くことは許されなくなる。なぜなら僕が死ねば、宵星は資産を失うから。そのとき僕はあの底へ行けるだろうか。行けない。たぶん行けない。


だから僕は頷けない。


金も推薦も要る。でもそれを手に入れる代わりにあの底を諦めるなら。意味がまるでない。僕は名刺を抽斗の奥にしまった。捨てはしなかった。いつか使うかもしれない。その曖昧な保留のまま。僕は目を閉じた。頷けば囲われる。断れば後ろ盾を失う。どちらも選ばない。


その宙ぶらりんがいちばん身軽だった。二年の学校生活でそれだけは身に染みている。こちらから動けばたいてい損をする。だから動かない。待つ。相手が痺れを切らしてこちらの条件を良くしてくるまで。あるいは状況のほうが動くまで。名刺は抽斗の奥にしまった。捨てはしない。いつか使うかもしれないからだ。保留とは断りではない。いちばん高く売れる時を待つということだった。



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