第二十一話 数字
学外に出るようになって、季節が一つ過ぎて行った。二年の後期。夏の名残が朝晩の風にまだ少し残っている。僕の生活は表向き何も変わっていない。平日は寮で暮らし、授業に出て実地の訓練をそつなくこなす。相変わらず、規定の深さで引き返し、規定の量を採り、少しだけ辛そうな顔をして坑を出る。
そこそこやる奴。
落ちこぼれの評価は崩れた。でも化け物だとは思われていない。その狭い的の真ん中に僕は器用に居座り続けている。変わったのは休日だった。登用者として学外のダンジョンに潜れるようになってから。僕はそこでだけ本当の力で動いていた。
学外は深い。校内の坑とは桁が違う。偏差が濃く魔物も大きい。でも僕の燃費なら驚くほど奥まで行けた。誰の目もない。演技も要らない。
学外の坑にはいくつか種類があった。国が直接管理する大きな坑。自治体が委託して運営する中規模の坑。そして、企業クランが権利を買って管理している坑。学生の登用者に開かれているのはたいてい二番目のところだ。偏差の級で言えば下から数えたほうが早い。それでも校内の訓練坑とは比べものにならない。
入口の詰所で僕は毎回同じ手続きをする。登録証を出し、入坑時刻を記帳し、予定滞在時間を書く。職員は僕の顔をもう覚えていた。
「またあんたか。……律儀に毎週来るね」
そう言われるようになったのは三度目くらいからだ。登用者の多くはそこまで頻繁には来ないらしい。学生ならなおさらだ。試験や実習やそれ以外の生活がある。毎週始発で来る学生というのは珍しいのだろう。珍しがられるのは少しまずかった。
始発の電車はいつもがらんとしている。窓の外をまだ眠っている巨大都市が少しずつ流れていく。夜勤明けの人影。シャッターの下りた店。その目覚める前の街を抜けて僕は坑へ向かう。坑のハブに近づくにつれ車内の顔ぶれが変わっていく。武器を布で巻いて担いだ男。防具を鞄に押し込んだ女。みんな探索者の顔をしている。その中で制服姿の学生は僕一人だった。でも来なければ金にならない。だから僕は律儀に通い続けた。僕は静かに資源を採り、静かに帰ってくる。週末の朝始発で坑へ向かい、夕方までに戻る。そしてその足で家に帰る。母にはバイトだと言ってある。嘘ではないと自分に言い聞かせている。実際これは労働だ。
命を賭けた労働。父の労働は目に見える。工場の金属の匂い。手の甲の細かい傷。夜勤明けの落ち窪んだ目。削られていくものがはっきりと形になっている。僕の労働は目に見えない。坑の暗がりで誰にも見られず命を少しずつ賭け金にして。持ち帰るのは資源と金だけだ。削られているものはたぶんあるのに。その削られ方だけが父とは違って誰の目にも映らない。
バイトだと母に言った嘘は。この見えない労働を、見える形に言い換えた方便だった。坑の中では僕は誰にも会わない。登用者はそれぞれ別の区画に振り分けられるからだ。だから僕の潜り方を誰も見ていない。見ていないから、僕は本当の力で動ける。深いところまで行って、価値のある資源だけを選んで余裕を残して帰る。効率だけを考えて動く。その時間が僕には何より心地よかった。坑の中では誰も僕を見ていない。演技も値踏みもいらない。辛そうな顔を作る必要も消耗を演じる必要もない。ただ効率だけを考えて動く。いちばん短い道をいちばん少ない消耗で。価値のあるものだけを選んで採る。その無駄のない時間が。演技で塗り固めてきた僕の日々の中で唯一嘘のいらない時間だった。いちばん危険な坑の底が。僕にとってはいちばん素顔でいられる場所だった。そのあべこべを。僕はいつのまにか愛おしく思いはじめていた。
潜り方はほとんど決まっていた。入口からまず平衡の陣を組む。いつもより少しだけ丁寧に。そこから資源の分布を頭に入れた順路で回っていく。この坑には鉱脈が三本、薬草の群生地が二か所、そして魔物の巡回路が一つ。三度目の潜行でその全部を把握した。把握してしまえばあとはなぞるだけだ。三本の鉱脈のそれぞれの質。二か所の薬草の群れ方の癖。魔物の巡回の間隔。その全部を僕は頭の中の地図に書き込んでいた。紙には書かない。書いたものは落とせば誰かに読まれる。だから全部頭の中だ。どの鉱脈がいつ掘られていつ回復するか。どの時間なら魔物の巡回と鉢合わせないか。その生きた地図を潜るたびに更新していく。
他の登用者が行き当たりばったりに歩く同じ坑を。僕は頭の中の順路に沿って無駄なくなぞる。その差がそのまま採取量と余力の差になった。鉱脈で価値のあるものだけを選んで採る。紛い物には指も触れない。薬草は葉の裏の脈を確かめて薬効のあるものだけ。魔物はなるべく避ける。倒せば素材は採れる。でも戦えば魔力を食う。食った分は深く潜る余力から引かれる。だから素材が特別に高値のものでない限り、僕は戦わない。探知の陣で相手の位置を掴んで静かに迂回する。この判断ができる者はあまりいないらしい。探知の陣も色のない輪郭だ。掌の上に薄く広げる。その輪郭が坑の空気の中の魔力の濃淡を拾う。魔物の気配は、周りより少しだけ濃い澱みとしてそこに浮かぶ。僕はその澱みの位置を頭の中の地図に置いていく。置いて、それを避けるように道を選ぶ。戦わずに済む道を選ぶこと。それ自体が僕にとってはいちばんの戦いだった。
探索者は魔物を見つけると倒したくなるものなのだとあとで聞いた。狩人の性というやつだろうか。僕にはその気持ちがよく分からなかった。僕にとって魔物はただの消耗の原因だ。倒す意味がなければ倒さない。それだけのことだった。一日で僕は他の登用者の二倍から三倍の距離を歩く。同じ時間でより広く、より深く。だから採れる量も増える。増えるのを抑えるのが大変だった。初めのうちはそれでよかった。金が貯まっていく。学費を納め少しずつ蓄えができる。いつか汐里がこの学校に来たいと言ったときのために。そのささやかな計算が僕の休日を満たしていた。
家に金を入れるようになって少しずつ変わったことがあった。父の夜勤が月に一度減った。二度目の仕送りのあとでまた一度減った。父はそのことを僕に言わない。でも週末に帰ると起きている時間が明らかに増えていた。以前の父は週末も昼過ぎまで泥のように眠っていた。夜勤で削られた身体を休みの日に必死に繕っていたのだ。その父が朝から居間にいる。
テレビの音を小さくかけて茶をすすっている。ただそれだけのことが。僕には自分の稼ぎが初めて目に見える形になったように思えた。金は二番目だ。でもその二番目が父の睡眠を少しずつ取り戻している。その事実だけは、名前のない渇きとは別に、確かな重さで僕の胸にあった。以前は僕が帰っても昼過ぎまで寝ていた。今は朝から居間にいる。テレビを見ながら茶を飲んでいる。それだけのことが僕には妙に嬉しかった。母の買い物の中身も変わった。おかずが一品増えた。肉が出るようになった。母はそのことも言わない。ただ食卓に黙って置く。僕も何も言わずに食べる。言葉にしないほうがいいということがこの家にはいくつもあった。汐里だけがはしゃいでいた。
「最近、うちごはん豪華じゃない?」
その一言に母が少しだけ困った顔をした。僕はそうかなとだけ答えた。嘘をつくのにも慣れた。いや嘘というより、これは黙っているだけだ。黙っていることがこんなにも増えていく。その重さを僕は味噌汁と一緒に飲み下し続けていた。
でも世の中は、そう静かにはしていてくれなかった。問題は数字だった。登用者の採取には記録がつく。どの偏差級の坑に、何時間潜り、どれだけの資源を持ち帰ったか。消耗の度合いも帰還時に測られる。管理のためのただの事務的な数字だ。
測定は詰所の脇の小さな部屋で行われる。台の上に掌を置く。それだけで残りの魔力量がおおよそ割り出される。仕組みは僕にもよく分からない。偏差領域の資源を使った機器だと聞いたことがある。精度はそこまで高くない。でも多いか少ないかくらいは分かる。この記録は本来探索者を守るためのものだ。無理な潜行を繰り返している者を見つけるため。残量がいつも危険域まで落ちている者には指導が入る。
実際そうやって命を拾われた者もいるらしい。だからこの制度自体は正しい。正しい制度が僕にとってはいちばん都合が悪かった。でもその数字が僕の場合おかしかった。同じ坑に同じ時間潜って。僕の採取量は平均より少し多い程度。そこは抑えている。問題は消耗のほうだった。僕の帰還時の魔力残量はいつも他の登用者の倍以上残っている。いくら抑えてもそこだけは隠しきれない。採った量を減らせば目立たない。でも採らなければ金にならない。
だから僕は資源だけはそこそこ採って、消耗だけが異常に低い。そのちぐはぐな数字が記録の上に点々と残っていく。採る量を思いきり減らせば、消耗の低さも目立たなくなるかもしれない。でもそれでは金にならない。金にならなければ学外に出ている意味が半分消える。かといって、消耗をわざと増やすのは危ない。濃い偏差の中で余力を進んで捨てるのは命を削ることだからだ。採取を増やせば深度を疑われ、消耗を演じれば命が減る。どちらも立てられない。結局、僕にできるのはほどほどに採り、ほどほどに演技して、ちぐはぐな数字を少しでも目立たなくすることだけだった。でもそのほどほどがいちばん難しい。
誰かがその点を線で結んだら。おかしいと気づくだろう。いつか誰かが。その予感はあった。採取量は平均。消耗は異常に低い。その二つの点が記録の紙の上に毎週律儀に打たれていく。一つ二つなら誤差で済む。でも点が増えれば。いつか誰かの目がその点と点を繋いでしまう。
繋いだ線はまっすぐに僕の核を指すだろう。僕はその線を少しでも歪ませようとあがいていた。採る量をばらつかせ消耗を日によって変えてみせる。でも根っこの異常は消せない。消せないものを隠し続けることの疲れだけが静かに溜まっていった。
その「いつか」は思ったより早く来た。ある休日僕が学外の坑から戻ると受付の脇に見慣れない人が立っていた。登用者の管理をする役所の人間ではない。もっと洗練された身なりのいい大人だった。その人は僕が戻るのを待っていたように視線を向けた。目が合う。柔らかい笑みだった。でもその目の奥は笑っていなかった。その視線を僕は知っていた。常磐縁のあの乾いた値踏みの目。それをもっと大人にして、もっと慣れさせたような目だった。二年の間、いないものとして扱われてきた僕が。今は見知らぬ大人に帰りを待たれている。いてもいなくても同じものだった僕が。いつのまにか誰かにとって待つ価値のある何かになっている。
その変化を喜ぶより先に。背筋の産毛が静かに逆立った。その人は僕に軽く会釈をした。まるで、もう僕のことをよく知っているというように。僕は会釈を返さなかった。ただ胸の奥が静かにざわついた。あの人が誰なのかは分からない。でもあの身なりとあの落ち着きは役所の人間のものではなかった。もっと金の匂いのする世界の人だ。そしてそういう人がわざわざ一介の登用者の帰りを待っている。理由は一つしか思いつかなかった。
数字を見られている。
点と点を結ばれはじめている。隠していたはずの何かが少しずつ輪郭を持ちはじめていた。いつか来ると思っていた。その「いつか」のほんの入口が。今開いた気がした。




