第二十話 扉の外
学外の坑に初めて一人で入った日のことを、僕はたぶんずっと忘れない。登用者用の登録証を提示して詰所で記帳する。入坑時刻。予定滞在時間。緊急連絡先。書きながら手が少しだけ汗ばんだ。緊急連絡先の欄に実家の番号を書く。もし、僕が帰らなければこの番号に連絡が行く。母が電話を取る。その光景を一瞬だけ想像して僕はすぐに打ち消した。職員は僕の登録証を確かめて少しだけ眉を上げた。学生の登用者は珍しいのだろう。
「気をつけて。……無理はしないように」
その言葉は事務的だった。誰にでも言っている言葉だとすぐに分かる。それでも僕ははいと答えた。管理の緩い坑だ。引率はない。安全装置もない。入口をくぐった瞬間空気が変わった。偏差が校内とは桁が違う。立っているだけで魔力が音を立てて抜けていく。ここで陣を絶やせば僕でも危ない。でも絶やさなければ。僕の燃費なら驚くほど深くまで行ける。
誰の目もない。演技も要らない。ここでだけ、僕は本当の力で進めた。演技をしなくていい。辛そうな顔も余分な消費も要らない。誰にも見られない暗闇の中で僕は初めて本当の燃費で歩いた。演技をしなくていい。辛そうな顔も荒い息も余分な消費もいらない。うまく組めばいいだけの陣をうまく組む。わざと下手に組む必要がない。それがこんなにも楽なことだったのかと思う。
僕は隠すために力を削って生きてきた。ここでは削らなくていい。色のない熱の揺らぎが掌の上でいつもよりずっと素直に澄んでいく。その澄み方を見て僕は少しだけ泣きそうになった。嘘をつかなくていい場所が、いちばん深いいちばん危険な暗闇だけだというのは。やっぱり僕らしいと思った。驚くほど深くまで行けた。抜けていく魔力を陣が静かに抑え込む。濃い偏差の中で僕は鼻歌でも歌えそうなほど余裕があった。これが本当の僕の力だ。誰にも見せられない力。その誰にも見せられなさが少しだけ寂しくて。それでいてこの暗闇の中でだけは僕はようやく息ができた。嘘をつかなくていい場所が皮肉にもいちばん深いいちばん危険な暗闇だけというのは。僕らしいと思った。
資源は豊かだった。校内の坑とは比べものにならない。僕は、規定も、査定も、気にせず価値あるものを選んで採った。初めての稼ぎは思っていたよりずっと大きかった。換金は坑の近くの資源買取所でできた。カウンターの向こうの職員が僕の持ち込んだものを一つずつ検める。鉱石。魔物の素材。薬草。どれも質がいいと言われた。特に薬草の選り分けが丁寧だと。
「学生さん?……珍しいね、こんなに正確に選ってくるのは」
職員はそう言って金額を提示した。その数字を見て僕は一瞬、聞き返しそうになった。週末に一度、数時間、潜るだけでこの額。父が夜勤を何日も重ねて得る額とそう変わらなかった。カウンターに置かれた札束は、僕がこれまで握ったことのない厚みだった。嬉しさより先に後ろめたさが来たのはそのせいだ。このあべこべをどう飲み込めばいいのかしばらく分からなかった。
これは危険の対価なのだと自分に言い聞かせてようやく少しだけ収まった。僕は命を賭けている。父もたぶん別の形で命を削っている。ただ削り方の目に見えやすさが違うだけだ。嬉しさより先に少しだけ後ろめたさが来た。僕が数時間で稼ぐものを父は身体を削って稼いでいる。この差はいったい何なのだろう。たぶん危険の対価なのだ。僕は命を賭けてこれを得ている。そう考えて初めて少しだけ納得がいった。その金で僕はまず学費の一部を納めた。
抽斗の中でずっと僕を待っていたあの通知に決着をつける。残りは少しずつ貯めることにした。いつか汐里がこの学校に来たいと言ったときのために。母を安心させながら送り出せるように。週末に帰ったとき僕は母に少しだけ金を渡した。バイトを始めたとだけ言って。
嘘だ。
でも母の少しほっとした顔を見て僕はこの嘘はついてよかったと思った。バイトを始めたという嘘は、母から恐れを遠ざける。迷宮という言葉を食卓に持ち込まずに済む。覚醒の恐れも、命の危うさも、その嘘の裏に隠せる。嘘を一つつくたびに、母との距離はたぶんほんの少し遠くなる。でもその距離のぶんだけ母は静かに眠れる。届いているのに届いていない。その距離を僕は金と嘘で迂回しながら辛うじて橋を架けている。不器用な橋だ。それでも今はこれしかなかった。届いているのに届いていない。その距離はまだ埋まらない。それでも少しだけ橋を架けられた気がした。
けれど金は二番目だった。僕が本当に手に入れたもの。それは深いところへ続く道だった。学外の坑は深い。そのいちばん奥にはまだ僕の知らない場所が続いている。その先のそのまた先に。誰も帰ってこない、いちばん深いところがある。あの夜の海のあの届かない星。学外の坑のいちばん奥はまだ僕の級では届かない。でも届かないだけで、そこに続いている。水たまりが池に。池が湖に。湖が海に。そして海のいちばん深いところ。あの夜砂浜から見上げた黒い水平線のずっと下に。その道が今この足の下から始まっている。まだ遠い。途方もなく、遠い。でも初めて僕はその道の最初の一歩の上に立っていた。胸の裏の熱が静かに頷いた。少しずつ。一歩ずつ。削れ方を身体で測りながら。陣を磨きながら。僕はそこへ近づいていく。
学外に出るようになって僕は一つ思い知った。常磐縁の言った通りだった。この世界は広い。学外の坑で時々見かける本物の探索者たち。彼らの立ち居振る舞いは、学校の生徒とはまるで違った。もっと上の階層。僕がまだ想像もできない場所で生きている人たち。彼らの魔力の気配は学校の生徒とは密度が違った。まとっているものの桁が違う。学外の坑の帰り都市の雑踏に紛れると時々そういう気配とすれ違う。
あの桁外れの都市には桁外れの人間が当たり前のように混じっている。すれ違いざま、肌がぴりつく。その人の身体から滲む魔力の密度が違うのだ。僕の収束の感覚はその濃淡を否応なく拾ってしまう。拾って、思い知る。この世界は水たまりの上に池があり、湖があり、海がある。その海のほうの住人があの雑踏には涼しい顔で紛れている。誰も気づかないまま肩をすれ違わせている。
中には、律の記録で読んだような桁違いの量を感じさせる者もいた。量で押し切れる者たち。僕が持っていない量を持つ者たち。彼らの前では僕の器用さなどたぶん児戯に等しい。でもと僕は思う。彼らもあの底には届いていない。量では届かないからだ。どれだけ上の階層にいても、あのいちばん深いところだけは量では踏めない。そこにだけは僕のほうが近い。その奇妙なねじれが僕を静かに支えていた。
そして縁はその上の階層に繋がっている。彼女はあれから僕を遠くから観察し続けている。値踏みを続けている。時々学校の廊下で視線を感じて振り返るとそこに縁がいる。目が合っても逸らさない。何も言わない。ただ僕がまた一つ深いところへ近づいたことを確かめるように見ている。その視線は不快ではなかった。むしろ、二年誰にも勘定に入れてもらえなかった僕を、たった一人ずっと勘定に入れ続けている目だった。道具としてではあったけれど。それでも見られているというのは、いないものとして扱われるよりずっとましだった。
いつか、その背後にいる何かが僕の前に現れるのだろう。越えても、越えても、上に壁がある。そしてたぶん、下にも。その果てのなさがこわいとは思わなかった。むしろ胸の裏の熱はその果てのなさに静かに喜んでいた。見たことのないものがまだこんなにもある。届かないものがまだこんなにも見えている。僕は掌に陣を組む。線を、円を、その内側にもう一つ。消費は静かに少ない。僕の綱渡りはまだ始まったばかりだ。実力を見せ、核を隠し、一歩ずつ深くへ。その先でいつか僕はあの底に立つ。
その日まで止まらない。




