第十九話 見極める目(二)
帰り道で、僕は一人の受験生に出会した。規定の資源を採り終えて、出口へ向かっている途中だった。道の分岐の少し脇。最初は岩の影かと思った。近づいて人だと分かった。上級生の男だった。三年生の一人だ。審査の前、僕を見て隣の生徒に何か囁いていたあの男だった。
壁にもたれて荒い息をしている。魔力が尽きかけていた。顔が青い。あの試験の日の生徒と同じ顔だ。足元には採ったばかりの資源が散らばっていた。立ち上がろうとして力が入らないのだ。たぶん、欲を出したのだろう。規定より多く採ろうとして、あるいは、より奥の鉱脈を狙って深く入りすぎた。入りすぎたことに気づいたときには、帰りの分が足りなくなっていた。よくある話だと、座学では習う。実際に目の前で見ると、よくある話では済まなかった。このままでは彼は消耗しきる。脱落だけでは済まないかもしれない。審査官は坑の外にいる。ここまでは届かない。
僕は少し迷った。助ければ目立つ。核がまた少し晒される。こんな深さで、僕にまだ余力があることが彼に知られる。でも。見捨てれば、彼は危ない。あの夜の僕のように。指の先から自分が無くなっていくのを味わうことになる。僕はあれを知っている。あれを誰かに味わわせたくはなかった。桐山先生が僕にそう思ってくれたように。
迷いは一瞬だった。
核を隠すことと人を見殺しにすること。その二つを天秤にかけるまでもなかった。隠すのはいつかあの底へ行くためだ。でもそのために目の前で人が薪になるのを見過ごすなら。僕は底に着く前にたぶん僕でなくなる。母が恐れたのはたぶんこれだった。迷宮で僕が僕でなくなること。
でも僕が僕でなくなるとしたら。それはあの狂った定数のせいでも、足を踏み入れた時の覚醒のせいでもないのかもしれない。目の前の人を秤にかけて見捨てる。そういう選択を一つ、また一つと、重ねていくうちに。いつのまにか、渇きだけの冷たい何かになっていく。そのほうがずっとこわい。底に着いたときに、もうそれを見たいと思う僕が残っていなければ。こんなに深くまで来た意味がまるでなくなる。母が恐れた通りに。それだけは嫌だった。だから僕はその男の隣にしゃがんだ。
「掴まってください」
僕は彼の腕を肩に回した。そして掌に陣を組む。自分と、彼と、二人ぶんの身体を薄く包むように。二人ぶんはさすがに少し重い。それでも、僕一人の余力で十分賄えた。男の顔に少しずつ血の気が戻っていく。
「お前……なんで、こんな、深さでそんなに、余ってるんだ」
掠れた声で彼は聞いた。僕は答えなかった。いつものように。
「臆病なだけです」
そう言って僕は彼を支えて坑の出口へ歩いた。二人ぶんの重さを陣で薄く包みながら僕はゆっくりと進んだ。男の足取りはおぼつかない。時々膝が折れそうになる。そのたびに僕は彼を支え直した。急がず、確実に。自分の余力と彼の残量を両方、頭の中で測りながら。男の残量はもう底に近い。僕の陣がその底に薄い膜を張っている。膜が破れればこの男はあの淵に落ちる。
だから僕は一歩ごとに二人ぶんの目盛りを測り直す。自分の残量。男の残量。外までの距離。三つの数字を頭の中で並べて走らせる。濃い偏差の中でそれをやりながら、二人ぶんの身体を支えて歩く。普通ならあり得ない。でも僕にはできてしまう。できてしまうことがいちばん恐ろしい。母が恐れたのは、たぶん、こういう自分だ。この深さで二人ぶんの命を賄えること自体が本当はあり得ないことだった。でも僕にはできてしまう。
二人ぶんの身体を薄く包む陣は掌の上で少しだけ大きく澄んでいる。いつもの色のない輪郭が二重に重なっている。それでも消費は笑ってしまうほど少ない。濃い偏差の中で陣はいよいよ、よく効く。この男はたぶん一生気づかない。自分の命を、いちばん下だと嗤われてきた、不適性の間に合わせの陣が繋いでいることに。それを当たり前のようにやってのけられること。それこそがいちばん恐ろしいことなのかもしれない。ふとそう思った。母が恐れたのはこういうことなのだろうか。
外に出ると審査官が驚いた顔をした。脱落しかけた上級生を二年生が支えて連れて帰ってきたのだ。しかも、その二年生は規定の資源を過不足なく正しく採り終えていた。審査官は僕の採取物を検める。鉱石も素材も薬草もすべて、本物。紛い物は一つもない。規定のちょうどその数。審査官は僕をしばらく見た。
「……見極めが、正確だ。それにこの深さで、ずいぶん余裕がある」
その言葉にあの訝しみが混じった。桐山先生と同じ目だ。でも僕はまた俯いて同じ言い訳を繰り返した。臆病なだけですと。審査官はそれ以上追及しなかった。結果はその場で告げられた。
合格。
僕は登用された。
学外の本物の偏差領域への扉が。今開いた。実感はあまりなかった。喜びよりも、また一つ隠しごとを抱えたまま次の場所へ進むのだという静かな緊張のほうが大きかった。この先、行けば行くほど僕を見る目は鋭くなっていく。桐山先生。常磐縁。審査官。みんな少しずつ僕の異常に気づきはじめている。実力を見せるほど、核への距離は縮まる。その綱の上を僕はこれからずっと渡っていく。実力を見せなければ扉は開かない。でも見せるほどなぜが生まれる。そのなぜがいつか核に届く。だから僕はちょうど見せて、ちょうど隠す。落ちこぼれではないが、化け物でもない。その細い綱の上を一歩ずつ渡っていく。桐山先生。常磐縁。審査官。みんな綱の下から僕を見上げている。落ちれば、核が晒される。落ちないままあの底まで渡りきれるか。その一点に僕の全部が懸かっていた。
支えていた上級生が去り際に僕を振り返った。
「……助かった。恩に着る」
彼はそう言って頭を下げた。僕はいえとだけ返した。恩に着るという言葉を、僕はこの二年、一度も向けられたことがなかった。いてもいなくても同じものに恩を感じる者はいない。初めてその言葉を向けられて、僕はうまく受け取れなかった。いえと俯いて返すのが精一杯だった。助けたことよりその言葉のほうがなぜか胸に長く残った。道具として値踏みされるのとも憐れまれるのとも違う。一人の人間として向けられた、初めての、まっすぐな言葉だった。
圧倒するだけではなかった。助けもした。でも核だけは渡さなかった。それでいい。実力を見せ人として線を守りけれどいちばん深いところは隠したまま。この綱渡りを僕はこれからずっと続けていく。その先にあの底があるのなら。
バスで学校へ戻る途中窓の外をぼんやりと眺めていた。合格通知は後日正式に届くという。でも僕の中ではもう次のことが動きはじめていた。学外の坑のどこへいつ入るか。資源をどこで換金するか。週末の帰宅と、どう両立させるか。考えることは山ほどある。考えるのが楽しかった。二年、僕には考えるべきことなど何もなかったのだ。ただうつむいて時間が過ぎるのを待っていた。今は違う。やるべきことが目の前にはっきりとある。学校の門をくぐったとき昇降口の脇に常磐縁が立っていた。こちらを見ている。僕が合格したことをもう知っているのだろう。どうやって知ったのかは聞かない。この子はたぶん僕が思うよりずっと多くのことを知っている。
縁は何も言わなかった。ただ小さく頷いた。その頷きの意味を僕はまだ正しくは掴めていなかった。値踏みの目ではなかった。どこか確信に近いものがその頷きには混じっていた。まるで自分の見立てが正しかったことを確かめたような。あるいは背後の誰かに報告すべきものを見つけたような。僕がまた一つ扉を開けたことをこの子は僕より先に知っていた。そしてその扉の先がどこへ続いているのかもたぶん僕よりずっとよく分かっていた。




