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第十七話 登用


前期の認定を僕は通った。成績表の実地欄に、初めて、まともな評価が並んだ。二年ずっと、空欄か最低ラインの数字しか並ばなかった欄に。上位という言葉が印字されている。


配られたとき、隣の席の生徒が僕の紙をちらりと覗き見た。覗き見てそれから慌てて目を逸らした。その反応がこの学校で起きたことの全部を表していた。でも僕はその紙を抽斗にしまった。嬉しさはあまりなかった。まったくないと言えば、嘘になる。二年、僕を否定し続けてきた紙が初めて僕を肯定した。その事実には確かに小さな熱がある。でもその熱は胸の裏のあの熱とはまるで別のものだった。これは、通過点だ。入口の、そのまた手前の入口にすぎない。この紙が肯定しているのは、僕のほんの上っ面だけだ。僕が本当に何を握っているのかをこの紙は何も知らない。


僕が次に見ていたのは登用制度だった。




要項をもう一度読み込む。図書室の隅で、誰にも見られないように。登用は成績とは別の枠だ。申請して実技審査を通れば、選ばれた生徒に学外のダンジョンの利用が認められる。例年通るのは各学年でほんの数名だという。三年生が大半で、二年生は稀。一年生は記録上ほとんどいない。


審査の内容ははっきりしていた。学園の試験に準じつつ危険度を少しだけ上げた坑。そこで規定より多く設定された資源を持ち帰る。魔物の排除は、当然の前提。その上で、魔物から、鉱物から、植物から、価値ある資源を正しく見極める。採って規定量を集めて生きて帰る。


出力を誇る試験ではない。探索者<ダイバー>としてちゃんと成立しているか。それを実践で問う試験だった。要項の最後にはこう書かれていた。


——本審査は学外での活動に耐えうる実務的な能力の有無を問うものである。


実務的という言葉が妙に印象に残った。この学校の試験はたいてい能力を測る。でもこの審査は能力ではなく、仕事ができるかを問うている。


都合がよかった。この審査なら核を隠したまま通れる。深度を晒す必要はない。燃費の異常を数字で見せる必要もない。資源を見極める目と、そつのない立ち回りと、確実な生還。器用さだけで十分に通せる。これは大きかった。実力を示す舞台は要る。示さなければ扉は開かない。でもその舞台で核まで晒すのは避けたい。実力を示すことと核を隠すことは本来両立しない。示せば示すほど、なぜが生まれるからだ。登用の審査はそのちょうどいい隙間にはまっていた。実力を示せば扉は開く。でも示しすぎればなぜが生まれる。なぜ燃費最悪のはずの収束がこんなに保つのかと。その問いだけは誰にも抱かせたくなかった。本来は両立しない。水と油だ。でも登用の審査はその水と油の境目のほんの細い隙間にはまっていた。


見極めと立ち回りと生還。それだけを問う試験。深さも燃費も見せずに済む。この隙間を最初に見つけたとき、僕は少しだけ笑ってしまった。世界が燃費を正しく測れていないからこそ生まれた隙間だった。深く潜れることも燃費が異常なことも見せなくていい。ただ正しく資源を選び、そつなく立ち回り生きて帰る。僕がいちばん得意なことだ。座学で覚えた資源の知識は山ほどある。覚えることだけはこの二年誰にも負けなかった。どうせ実地で使えないのだからと笑われながら、それでも覚え続けた。その無駄だと思われていた知識が。ここへ来て僕の武器になる。しかもそれが次の扉の鍵になる。


そして通れば。


学外の本物の偏差領域に、本物の迷宮<ダンジョン>に出られる。そこで採れる資源は校内の比ではない。売れば金になる。学費の足しに。いつか汐里がこの学校に来たいと言ったときの備えに。そして何より。学外は深い。管理された校内の坑とは比べものにならないほど。あの底へ続く道はそこから始まっている。金は二番目だ。でも二番目でも要る。僕は申請書に名前を書いた。深澤灯真と。名前を書きながら少しだけ手が震えた。二年間この名前はいつも書かれる側だった。脱落者の名簿に。補習の名簿に。いちばん下の査定表に。誰かに書き込まれるための名前だった。


でも今僕は、自分の意思で自分の名を次の扉の申請書に書いている。書かれるのではなく、書いている。そのたった一字ぶんの違いが指先を静かに震わせた。これはただの一枚の申請書だ。薄い事務用紙が一枚。でも僕にとってはあの底へ続く道の最初の一枚だった。不適性と呼ばれ続けた僕が。自分の意思で次の扉に手をかけている。誰かに拾ってもらうのでもなんとかしがみつくのでもなく。自分から前へ出ている。その事実が静かに胸を熱くした。提出窓口の職員は僕の名前を見て一瞬手を止めた。何か言いたそうにして結局何も言わずに受理の判を押した。その一瞬の間がこの学校での僕の立ち位置を正確に表していた。




申請したことはすぐに教官たちの間で知られたらしい。放課後、桐山先生が僕を呼んだ。実技棟の廊下の端。人通りの少ない場所をわざわざ選んだのが分かった。


「登用に出したそうだな」


はいと答える。先生は腕を組んでしばらく僕を見ていた。叱るつもりでも止めるつもりでもない。ただどう言えばいいかを考えている顔だった。


「実力は認めると言った。あれは、本当だ。今のお前なら審査も通るだろう」


でも、と先生は続けた。


「学外は校内とは違う。引率も安全装置もない。魔力が切れれば、本当に死ぬ。……そして俺にはまだ分からんのだ。お前が、なぜ、あんなに保つのか」


先生の目にあの訝しみが戻っていた。この人は僕の異常を忘れていない。あの日、記録板の上で止まった手を僕は覚えている。あれ以来この人はずっとその疑問を抱えたままなのだ。


「保つ理由が自分でも分かってないなら。いつかそれが当てにならない日が来るかもしれん。そのときお前は深いところで一人だ」


僕は俯いた。理由なら、分かっている。誰よりも、分かっている。この人がいまいちばん知りたがっていることを。僕は正確に説明できる。でもそれを言えない。言えばあの夜の忍び込みまで遡ることになる。


それに——直感がまだ言うのだ。この力の意味は隠しておけと。


「気をつけます」

僕はそれだけ答えた。先生はため息をついた。諦めたというよりこちらの頑固さを認めたようなため息だった。


「……お前は、時々、俺の知らない場所を見てる目をする」


図星だった。僕は答えなかった。僕が見ているのはこの人が現役の頃に死にかけたというその深さのさらにずっと下だ。桐山先生は深いところで魔力が切れる恐怖を知っている。だから僕に止まれと言う。その恐怖は正しい。僕も一度味わった。指の先から自分が無くなっていくあの感覚。あれを知ってなお進もうとする者を、この人はたぶん初めて見ている。でも僕は、その恐怖の向こう側を見たいのだ。恐怖のいちばん濃いところにたぶんあの底の景色がある。誰も帰ってこられないほど深いところ。そこが恐ろしいのは当たり前だ。恐ろしくなければとっくに誰かが辿り着いている。先生の言う「保つ理由」を僕は知っている。そしてその理由こそが僕をあの底へ連れて行ってくれる。危ういことは分かっている。あの夜一度死にかけたのだから。でもあの夜と今は違う。あの夜僕は何も分からないまま淵に立った。今の僕は分かっている。どうすれば生きて深くまで行けるのかを。だから行く。





その週末僕は家に帰って成績表を見せた。母は実地の欄を何度も見直していた。


「……これ、灯真の?」

「僕の」


母はしばらく黙っていた。喜ぶべきなのか、心配すべきなのか。この人の中でその二つが静かに綱引きをしているのが分かった。喜べば僕はもっと深く潜る。心配すれば僕を傷つける。結局母はこう言った。


「……身体だけは、気をつけてね」


うんと僕は答えた。汐里は成績表を覗き込んで素直にはしゃいだ。


「すごいじゃん!お兄ちゃん!上位って書いてある!」


その混じり気のない喜び方が。この家でいちばん僕を救った。母の喜びにはいつも恐れが裏打ちされている。喜べば僕がもっと深く潜ってしまうという恐れが。父の喜びは口数の少なさの奥に隠れている。でも汐里の喜びだけは何の裏もない。ただ兄の紙に「上位」と書いてあることが嬉しい。それだけだ。そのまっすぐな嬉しさが恐れと打算で少しずつ重くなっていた食卓の空気を一瞬だけ軽くした。僕はこの子のその軽さを守りたいと思った。僕は登用のことは話さなかった。まだ通ったわけではないからだ。それに学外の坑に潜ると聞けば母はたぶん眠れなくなる。黙っていることがまた一つ増えた。その重さを僕は味噌汁と一緒に静かに飲み下した。



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