第十六話 水たまりの底
次の日から学校の空気が変わった。あからさまにではない。誰かが僕に頭を下げたわけでも、掌を返して媚びてきたわけでもない。ただ僕をいてもいなくても同じものとして扱う空気が、ほんの少しだけ、ほどけた。廊下で肩がぶつからなくなった。二年、廊下を歩くたびに誰かの肩が必ず当たった。わざと当てて当てたことに気づかないふりをする。それがこの学校のいじめの作法だった。殴りも罵りもしない。ただいないものとして扱う。その作法がある朝ぱたりと止んだ。肩の高さの、あの絶えず身構えていた緊張が、ふっと抜けた。抜けてはじめて、僕は自分が二年の間ずっと身構えて歩いていたことに気づいた。下駄箱の上履きがなくならなくなった。朝、下駄箱を開けてそこに自分の上履きがあるというだけのことが。二年ぶりに当たり前になった。
誰も僕に話しかけてはこない。そこは何も変わっていない。でもその沈黙の質が変わった。嘲りの沈黙から、当惑の沈黙へ。あの不適性はいったい何者なのか。みんながそう思いはじめている。教室に入ると話し声が一瞬だけ途切れる。その途切れ方が以前とは違う。以前は汚れたものが入ってきたときの途切れ方だった。今は得体の知れないものが入ってきたときの途切れ方だ。
可笑しかった。
僕は何も変わっていない。昨日と同じ制服を着て、昨日と同じ席に座っている。権能<スキル>も、量も、何一つ増えていない。ただ少しだけ実力を見せただけだ。それだけで世界の僕を見る目はこんなにも変わる。人は結局、こちらの中身ではなく査定表のほうを見ている。二年の間に僕を嗤ってきた連中もたぶん悪人ではなかったのだ。ただ査定表をそのまま信じていただけだ。信じるものが変われば態度も変わる。それだけの単純な話。だから僕は腹を立てる気にもならなかった。もっとも赦したということでもない。どちらでもなかった。僕の見ているところはもう、この教室からあまりに遠い。
教官たちの反応は生徒よりもう少し複雑だった。実技の教官の一人は僕の記録を見て「採点の記入ミスではないか」と言ったらしい。別の教官は坑の難度設定が緩すぎたのではないかと疑った。誰も僕が実力で通ったとはすぐには考えない。二年間、彼らが積み上げてきた「深澤灯真は不適性である」という前提はそう簡単には崩れないのだ。崩すにはもう一度、二度、と同じことを繰り返して見せるしかない。二年という時間は思っているより重い。その時間をかけて彼らは僕という札に不適性と書いた。一度書いた札を書き直すのは彼らにとって自分たちの二年間を否定することでもある。だから簡単には書き直さない。
記入ミス。難度の誤り。まぐれ。そうやっていくらでも書き直さない理由を探す。人は事実より自分が二年かけて信じたもののほうを大事にする。それでいいと僕は思った。疑われているうちはまだ詮索は浅い。深く納得されてしまうほうがむしろ危ない。なぜと問われはじめるからだ。
郷田は静かになった。あの試験で彼は最後のチェックポイントを踏めなかった。二又の手前で引き返したのだ。単位は辛うじて取れたらしい。規定の資源も確保していた。だから彼の成績自体は決して悪くない。でも、僕に、圧倒された。その事実が彼を黙らせていた。彼はもう僕に絡んでこない。目も合わせない。悪意より厄介なものを見る目で僕を避けている。教室の隅で取り巻きと話している声が時々聞こえてくる。深澤の話題になるとその声が急に小さくなる。あの夜深いところに置き去りにしたはずの男が。生きて帰ってきてその半年後には自分を追い越していった。その事実をどう飲み込めばいいのか。彼にはたぶん分からないのだ。それでいい。
僕は彼を潰したいわけではなかった。仕返しをしたいとも思わなかった。二年の間の分を返してやりたいという気持ちがまったくないと言えば嘘になる。でもそれをやったところで僕が得るものは何もない。水たまりの中で誰かの頭を押さえつけるだけだ。ただ先に行きたいだけだ。置いていく。それがいちばん静かでいちばん確かな決着だった。
その日の放課後、常磐縁が僕を待っていた。昇降口の隅で。鞄を提げて壁にもたれてまっすぐ僕のほうを見ていた。待ち伏せだと一目で分かった。隠す気がまるでない。僕が通ると当たり前のように隣に並ぶ。
「見ました。試験」
縁は前を向いたまま言う。
「一年は本来入れない区域でしたけど。……まあ、方法はあります」
さらりとそう言った。その方法を僕は聞かなかった。聞いても答えないだろうし、答えられてもたぶん僕には使えない方法だ。
「消耗がおかしい。あなた、ほとんど魔力を減らしてない。演技も下手でした。減らしてないのを減らしてるふりをする演技」
見抜かれていた。
僕は内心で舌を巻いた。あの演技は我ながらうまくやったつもりだった。肩で息をして、汗を拭って、辛そうな顔を作って。教官の何人かは確かに騙せていた。桐山先生だけではなかった。この一年の子にも。
「収束で陣を組んでますね」
縁は続けた。声を少しだけ落として。
「じかに。床に敷かず魔力そのもので。……それがどういう意味か、あなた分かってますか」
僕は答えない。答えないことが答えになる。分かっていて僕は黙った。ここで否定してもこの子には通じない。この子は桐山先生のように経験から僕の異常を嗅ぎ当てたわけではない。もっと知識から、たどり着いている。収束でじかに陣を組むことが何を意味するのか。それを正しく理解している。一年生が、だ。入学して半年ほどの一年生が。普通の一年生にそんな知識はない。僕自身それに気づくのに二年かかった。しかも死にかけてようやく気づいた。この子は僕の見せた断片だけからそこへたどり着いている。
あるいは——最初から知っていたのかもしれない。
収束という権能<スキル>の本当の使い方を。その可能性に思い当たって僕は少しだけぞっとした。この子の背後にはそういう知識を持つ誰かがいる。そう考えると辻褄が合った。収束の本当の使い方を知っている誰か。世界が「収束は量で焼く力だ」と信じている中でそのたった一つの例外を知っている誰か。そんな人間がもしいるとしたら。それはたぶんこの水たまりのずっと上の湖のあたりにいる。
縁はその湖から遣わされた細い触手だ。触手が水たまりの底に沈んだ僕に触れてきた。その細さの向こうにあるものの大きさを僕はまだ想像できなかった。縁は初めてこちらを見た。乾いた値踏みの目だった。
「私、あなたに興味があります」
まっすぐにそう言う。
「もしあなたが本当に有用なら。……いろんな手を使ってでもこっちに引き込みたい。正直に言っておきます」
こっち、というのがどこなのか。彼女は言わなかった。でもその言い方には背後に何か大きなものが透けて見えた。この学校の外。もっと上の。引き込みたいと彼女は言った。誘うでも勧めるでもなく。引き込む。まるで僕が道具か駒であるかのように。不思議と腹は立たなかった。むしろ正直だと思った。憐れみや、上辺の親切より、ずっと。この子は僕を値打ちで見ている。値打ちで見られるのは、いてもいなくても同じものとして無視されるよりたぶんずっとましだった。
二年、僕は勘定に入れてもらえなかった。班分けで余り査定表に何も書かれずいてもいなくても同じものとして扱われた。だから道具として値踏みされることが情けない話だが少しだけ心地よくすらあった。少なくともそこには僕を一人の何かとして勘定に入れる目がある。その心地よさを僕は警戒した。こういう気持ちに、人はたぶん絡め取られていく。いつかこの心地よさを餌にして誰かが僕を囲い込みにくる。その予感だけは乾いた頭の隅に置いておこうと思った。
「一つ、聞いていいですか」
僕は初めてこちらから口を開いた。
「どうして、僕なんですか。この学校には、僕より査定の高い生徒がいくらでもいる」
縁は少しだけ、間を置いた。それからこう答えた。
「査定の高い生徒はいくらでも代わりがいます。……でもあなたみたいなのは、いません」
あなたみたいなの、というのが何を指すのか。燃費のことか。陣のことか。それとももっと別の何かか。聞き返そうとしてやめた。答えないだろうと分かったからだ。
「あなたは、たぶん、勘違いしてます」
縁は去り際に言った。
「この学校でいちばんになったくらいで何かになった気でいるなら。……ここは水たまりですよ。ほんの浅い。上にはあなたが想像もできない人たちがいる。もっと深いところにもたぶん」
その言葉は不思議と僕を傷つけなかった。むしろ胸の裏の熱が静かに疼いた。知っていると思った。ここが水たまりだということは。誰よりも僕がよく知っている。僕はこの学校の勝ち負けなんて最初から見ていない。ごぼう抜きも、評価の反転も、僕にとっては通過点ですらない。ただ留年しないための事務手続きのようなものだ。僕が見ているのはその水たまりのずっとずっと下。誰も帰ってこないいちばん深いところだ。縁の言う「上」よりもたぶんもっと。
越えても、越えても、上にも下にも壁がある。その気配だけは確かに感じた。水たまりを出れば池がある。池を出れば湖がある。その先にはたぶん海がある。池には池の主がいる。湖には湖の主がいる。縁の背後にいる誰かは、たぶん、その湖のあたりにいる。でも僕が見ているのは主のいる水面ではない。どの水面のいちばん底にも共通して続いているあの暗い深みだ。水たまりの底も、海の底も、いちばん深いところではたぶん同じ一点に繋がっている。誰も帰ってこないあの一点に。だから僕は水面の高さを競わない。ただまっすぐ下を見ている。そして海のいちばん深いところ。あの夜、砂浜から見上げたあの黒い水平線の。そのずっと下に。だからまだ止まれない。
僕は彼女の背中に何も返さずただ頷いた。自分自身に頷くように。夕陽が昇降口の床を長く染めていた。その光の帯を踏んで僕は寮への道を歩いた。次にやることはもう決まっている。
登用の申請だ。




