第十五話 ごぼう抜き(二)
奥のチェックポイントへ近づくほど、坑は静かになっていった。人が減っていくからだ。脱落した者は、教官に引き上げられ坑を出ていく。残ったのはほんの数人。その中に郷田がいた。
火属性の郷田は出力が高い。魔物を焼き払いながら、力任せに奥へ進んでいた。ただ彼も汗だくだった。派手に焼くたびに魔力が削れていく。僕が追いつくと郷田は信じられないという顔をした。
「なんで……お前が、ここに」
僕は答えない。答える義理もない。最後のチェックポイントはその少し先だった。二又に分かれた道の奥。郷田は焦っていた。残りの魔力であそこまで行って帰れるか。その計算を必死にしていた。僕は彼の横を静かに通り抜けた。余分に使うふりをしていた魔力さえまだたっぷり残っている。
最後のチェックポイントを踏み、規定の資源を採り、僕は来た道を引き返した。帰り道で、郷田がまだ二又の手前で立ち尽くしているのが見えた。行けば、帰れない。引き返せば、最後の一つが踏めない。その崖の上で、彼は動けずにいた。郷田の掌の上の火が小さく揺れている。残りの魔力でその火を保つのが精一杯なのだ。顔から血の気が引いている。あのいつも僕を見下していた目に、初めて、迷いがあった。
僕はその横を静かに通り抜けた。余分に使うふりをしていた魔力さえ、まだたっぷり残っている。通り抜けざま郷田が、何か言いかけて、やめたのが分かった。助けを求める言葉をこの男は僕には言えないのだ。その意地の張り方が少しだけ、前の僕に似ていた。
いつも僕を崖の上に立たせていた男が。今自分がそこに立っていた。二年、この男は僕をいつも選べない場所に立たせてきた。黙ればいないものにされ、言い返せば火を見せられる。どちらを選んでも削られる。その逃げ場のない場所にいつも僕を置いた。今その同じ場所に郷田が立っている。進めば、帰れない。退けば、最後の一つが踏めない。どちらを選んでも削られるあの場所に。僕はそれを静かに見ていた。勝ち誇る気は起きなかった。ただこれでこれまでの貸し借りが音もなく清算された気がした。
僕は何も言わなかった。言う必要もなかった。勝ち誇る気も起きなかった。不思議と胸に湧いてきたのは。憐れみに近い、静かな、何かだった。この男もこの水たまりの中で必死に上を目指している。その必死さは少し前の僕が査定表に一喜一憂していたのと同じだ。同じ狭い競争の中にいる。僕はもうそこから降りてしまった。だから彼を憎む気も見下す気も起きない。ただ圧倒して先に行く。それで十分だった。仕返しをしたいわけではなかった。これまでの時間の分を返してやりたい気持ちがまったくないと言えば、嘘になる。でもそれをやったところで、僕が得るものは何もない。水たまりの中で誰かの頭を押さえつけるだけだ。押さえつけている間、僕はその水たまりから一歩も出られない。だから僕は押さえつけない。ただ圧倒して置いていく。振り返らずに先へ行く。それがいちばん静かでいちばん確かな決着だった。郷田を崖の上に残して僕は来た道を引き返した。
坑を出ると光が眩しかった。久しぶりに浴びる外の光のように感じた。ほんの数十分の潜行だったはずだ。なのに、坑の暗さと狂った定数に身体はすっかり慣れていた。外の当たり前の光が、他人の世界のもののように白く滲む。深いところに長くいるほど、この戻ってきたときの光の眩しさは増すのだろうとふと思った。いつかいちばん深いところから戻ってきたとき。外の光はどれほど遠く感じるのだろう。
外では脱落した生徒たちがうなだれて座っていた。毛布を肩にかけられている者もいた。魔力を使いきる寸前まで追い込まれた顔。あの指の先から自分が無くなっていく感覚を味わった顔だ。僕にはそれが分かる。その顔を僕は知っている。あの夜の僕の顔だ。名前もない古い坑の底で、膝をついて指の先から自分が薄れていくのをただ待っていたあの顔。
だから僕は彼らを嗤えない。嗤う代わりに少しだけ目を伏せた。勝ち誇る顔を、見せないために。辛そうな顔のその下で、僕は彼らと同じ淵を覗いた者だった。その視線が一斉に僕に集まる。
深澤が。
あの不適性が。
最後まで残った。
しかも疲れた顔はしているが足取りはしっかりしている。ざわめきが静かに広がっていく。嘘だろ、という声がどこかで上がった。まぐれじゃないか、という声も。でもこの試験にまぐれはない。全チェックポイントを自力で踏んで、規定量を採って、消耗しきらずに帰る。運で通せるものではないのだ。みんなそれを知っている。知っているから、ざわめきが収まらない。僕はその真ん中で辛そうな顔をまだ作り続けていた。いちばん難しかったのはこの最後の演技だったかもしれない。桐山先生が記録板を持って僕の前に立った。完遂とそこに書き込む。その手が途中で止まった。
「深澤」
先生は僕の顔をじっと見た。現役の頃深いところで死にかけた人の、あの、目だ。
「お前、魔力……ほとんど減ってないな」
演技をしていた。辛そうな顔も作っていた。余分な魔力も使ってみせた。それでも桐山先生の目はごまかせなかった。この人は残量が分かる。現役の頃深いところで自分の残量が尽きかけるのを味わった人だ。半分ない耳がその証だ。だからこの人は探索者の残量を匂いのように嗅ぎ当てる。目の前の生徒があとどれくらい保つのか。どこで引き上げなければ危ないのか。それを間違えれば生徒が死ぬ。だからこの人の目はいつも残量を追っている。その目に、僕の桁外れの余りは隠しきれなかった。
「収束ってのは、量を垂れ流す、燃費の悪い権能<スキル>のはずだ」
先生は独り言のように言った。
「なのに、お前は……いちばん燃費がいい。何だ、これは」
僕は俯いた。心臓が少しだけ速くなる。この人は近い。僕の秘密のいちばん近くに立っている。あと少し踏み込まれれば届いてしまう。でも届かせるわけにはいかなかった。
「臆病な、だけです」
いつもの言い訳を繰り返す。
「こわくて、こわいからなるべく魔力を使わないように進んだので」
嘘だ。半分は本当だが、肝心なところは嘘だ。この半分の本当を盾にする。完全な嘘より、半分の本当のほうがずっと剥がれにくい。桐山先生はしばらく僕を見ていた。それからふうと息を吐いた。
「……お前の実力は認める。今日のは、間違いなく、上位だ。それは、正直に、そう思う」
先生はそこで言葉を切った。
「だが腑に落ちん。お前の力は、俺の知ってる収束と違いすぎる」
その通りだった。でも僕は何も明かさなかった。実力は見せた。落ちこぼれの評価はこれで崩れる。でもなぜこんなに燃費がいいのか。その本当の理由は。まだ誰にも渡さない。先生の訝しむ目から、僕はそっと目を逸らした。可笑しくて、少しだけ、寂しかった。
いちばん近くで僕の異常に気づいた人にすら、僕は本当のことを言えない。桐山先生はそれ以上聞かなかった。聞けば僕が困ることをたぶん分かっていた。この人はいつもあと一歩のところで踏み込むのをやめる。半分ない耳を持つ人だ。踏み込みすぎた先に何があるかを身体で知っている。だから線の手前で止まる。その止まり方の優しさが今日は少しだけ応えた。嘘をつき通せたのに。嘘をつき通せてしまったことのほうがなぜか胸に小さな傷を残した。




