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第十三話 安い方の道、その先


試験の前の最後の週末。僕は家に帰った。食卓の空気は少しだけ重かった。前期の認定のことを母も知っている。落ちれば留年。留年すれば、たぶん、退学。母はそれを口にしない。でも、味噌汁をよそう手がいつもよりゆっくりだった。この人は僕に何かを言いたいときいつも手の速さが変わる。子供の頃からそうだった。言いたいのに言えないことを、手のほうが先にこぼしてしまう。流しに向かった背中はいつも僕に何も見せない。でも皿を持つ手の速さと遅さだけは隠せない。この人はたぶん自分の手がそんなふうに喋っていることに気づいていない。僕だけが二年その手の速さを読んで生きてきた。叱るときは速くなる。言えないことを抱えているときは遅くなる。今日はずいぶん遅かった。父はまた夜勤でいない。



汐里は部屋で宿題をしている。食卓には僕と母だけだった。父の茶碗が伏せたまま食卓の端に置かれている。夜勤の父はいつも僕らが眠ったあとに帰り、僕らが起きる前にまた出ていく。顔を合わせるのは週末の昼過ぎだけだ。起きてきた父の手の甲の細かい傷。あれは工場の金属でついた傷だ。その傷が少しずつ増えていくのを、僕は帰るたびに数えている。僕が稼げば、あの傷は増えなくなるだろうか。夜勤が減れば。


「無理は、しないでね」


母はそう言った。無理をするなは、この家では、頑張るなとほとんど同じ意味だ。僕があっさり脱落して普通科に移れば。母は安心する。学費は下がる。父は夜勤を減らせる。全部が丸く収まる。分かっている。分かっていて、僕はうんとだけ答える。母の言う「無理」が何を指すのか、僕には痛いほど分かっていた。母は僕が迷宮で死ぬのを恐れている。それだけではない。迷宮で、僕が僕でなくなるのを恐れている。覚醒をこわいと言った人だ。その恐れはいつも正しい。僕は母の知らないところで少しずつ普通ではないものになりつつある。自分でもそう思う。でもそれをこの食卓では言えない。言えば母はもっと眠れなくなる。だから僕は、ただの少し疲れた息子の顔で味噌汁を飲む。温かい。温かいのに僕らのあいだには越えられない距離がある。


その距離を少しでも埋められるとしたら。それは言葉ではなく、たぶん、金だった。言葉では埋まらない。この二年でそれを思い知った。あの底が見たいんです、と言えば母は眠れなくなる。燃費のことを話せば、母は覚醒の恐れを思い出す。だから言葉はいつも途中で飲み込むしかない。でも金なら。黙って渡せる。バイトを始めたとだけ言って。母の背中を少しだけ緩められる。言葉で届かないものを金で迂回して届ける。情けない橋の架け方だと思う。それでも架けないよりはずっといい。



風呂上がりに汐里が僕の部屋に来た。


「お兄ちゃん。試験、大丈夫なの」


中学生の妹は心配そうに僕を見る。大丈夫だよと僕は言う。嘘ではなかった。今度は本当に嘘ではなかった。


「あのね」


汐里は少し言いにくそうにした。


「私もその学校行けるかな。……お兄ちゃんと同じとこ」


少し、驚いた。


「ダイバーの科は、学費が高いよ」


「知ってる。……でもちょっと、憧れるんだ」


汐里は笑った。母の恐れをこの子は何も知らない。迷宮がどれだけ人を薪にするかも。その無邪気さが胸に小さな錘を落とした。この子は迷宮をテレビの中のきらきらした場所だと思っている。特級の探索者が、不老の資源を手に、笑っているあの画面の中の世界だと。指の先から自分が薪みたいに減っていくあの感覚を、知らない。崩落の埃の匂いも、音のない獣の気配も、知らない。知らないから、憧れられる。僕はその無邪気さを壊したくなかった。


同時に、この子がいつかそれを知る日のことも考えてしまう。知ってなお憧れられるなら。そのときは笑って送り出そう。母を安心させながら。もし僕が稼げるようになったら。この子がこの学校に来たいと言ったとき、学費のことで母を泣かせずに済む。ダイバー科の学費は普通科の何倍もする。その差を僕が坑で埋められるなら。母は恐れを少しだけ飲み込んで、この子を送り出せる。そんな未来を僕は味噌汁の湯気の向こうにぼんやりと描いた。


それは僕のいちばんの望みではない。でも名前のない渇きのすぐ隣に置いておいてもいい望みだった。もし。もし、僕が稼げるようになったら。この子がこの学校に来たいと言ったとき笑って送り出せる。母を安心させながら。そんな未来がふと頭をよぎった。それは僕の第一の望みではなかった。僕がいちばん欲しいのは、あの、底の景色だ。得も意味もないあの熱だ。でもその熱の少しだけ隣に。この子の笑顔を置いておける場所があってもいい気がした。




寮に戻った夜、僕は掲示で見たある制度のことを調べていた。登用制度というものだった。試験の成績とは、別の枠。申請して別の実技審査を通れば、選ばれた生徒には学外の迷宮<ダンジョン>の利用が認められる。学外。学校の管理下ではない、本物の偏差領域。国が免許で管理する本物の迷宮<ダンジョン>だ。学生がそこに入るには、本来、級位が要る。級位は五級から一級まであって、その上に特級がある。国は迷宮<ダンジョン>のすべてを免許で管理している。運転の免許に、車の等級があるように。どの濃さの坑まで入れるかが級位で決まる。五級から一級。その上に特級。数字が小さいほど、上だ。自分の級位より濃い坑に入れば免許は停まる。級の審査は年に数えるほど。落ちれば半年待たされる。学生の登用者に許されるのはいちばん下の五級相当が上限だった。僕はそのいちばん下の、そのまた下の無級だ。だから学外の本物の坑には指一本触れられない。その檻の格子の隙間に、登用という、たった一つの抜け道があった。


僕らのような学生は校内の資格しか持っていない。だから学外の坑には入れない。入れないから稼げない。稼げないから学費が払えない。その循環の中に僕は閉じ込められていた。でも登用の枠を通れば、その循環を飛び越えられる。そこで採れる資源は校内の比ではない。


売れば金になる。学費の足しになる。汐里の未来の分にも。そして何より。学外に出られれば、僕は、本当に深いところへ一歩近づける。いつかあの底へ。金は二番目だ。でも二番目でも要る。僕はその制度の要項を静かに読み込んだ。読みながら、胸の奥で二つの想いが静かに並んでいた。一つは金だ。学費。父の夜勤。母のゆっくりした手つき。汐里の無邪気な憧れ。それらを少しでも軽くできるなら。もう一つはあの底だ。学外の坑は深い。その深さのそのまた奥へいつか届くための最初の一段。この二つは向いている方向が違う。金は家族のほうを向いている。底は、僕だけの名前のない熱のほうを向いている。普通ならどちらかを選ばなければならない。でも登用はその二つを同じ一つの扉の中に収めてくれる。


だから僕は迷わなかった。


金は家族のほうを向いた望みだ。顔があって名前がある。そのはっきりした望みのために僕は稼ぎたい。底は名前のない望みだ。顔もなければ意味もない。ただ見たい。その説明のできない渇きのために、僕は深くへ行きたい。この二つはいつも僕の中で少しだけ後ろめたく並んでいる。名前のある望みと名前のない望み。どちらかを選べと言われたら僕はたぶん名前のないほうを選んでしまう。そのどうしようもなさを僕は知っている。


だから登用が二つを一つの扉に収めてくれたことが少しだけ救いだった。これなら名前のない渇きに従いながら、名前のある望みもこぼさずに済む。まずは目の前の前期認定を通ること。それが全部の入口だった。布団に入って目を閉じる。掌の中でそっと陣を組む。線を、円を、その内側にもう一つ。消費は、静かに、少ない。明日でいいと思う。明日静かに覆してやる。誰にも本当のところは見せずに。



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