第十二話 値踏み
その子に僕が気づいたのは翌日のことだった。いや、正確には気づかされたというほうが近い。その子は隠れる気がまるでなかったからだ。一学年下の女子だった。
廊下の、少し離れたところから僕を見ている。目が合っても逸らさない。逸らさずに、じっと値踏みするように見てくる。憐れみではなかった。嘲りでもない。もっと乾いた目だ。道具の値打ちを確かめるような。
僕は初めて見る顔だと思った。でもその落ち着きは一年生のものではなかった。周りの生徒が少しだけその子に道を譲る。どこか育ちのいい静かな威圧があった。着ているものも、持ち物も、特別に派手なわけではない。なのに、纏っている空気だけが他の一年生と違う。人に見られることに慣れている。人を見ることにも慣れている。そういう種類の落ち着きだった。
この学校の生徒はたいてい育ちがどこか似ている。免許を取って探索者<ダイバー>になって身を立てる。そういう地に足のついた家の子が多い。でもこの子の落ち着きはその種類ではなかった。もっと上の、僕が名前も知らないような場所の匂いがした。人を駒として動かすことに慣れた家の。あの桁外れの都市の、いちばん高いところにいる人間の匂いを僕はまだ知らない。知らないのに、この子からその遠い匂いの端切れだけが届いた。僕を見る目には値踏みの色があった。けれどそれは僕を見下している目ではなかった。むしろ慎重にこちらの正体を測りかねている。道具として使えるのか。使えないのか。その一点だけを静かに量っている目だった。
昼購買の列でその子は僕の後ろに並んだ。偶然ではないような気がした。
「常磐です」
その子は名乗った。こちらが名前を尋ねてもいないのに。声は平坦だった。感情の起伏をわざと削ぎ落としたような声だ。列に並ぶ生徒たちのざわめきの中で、その声だけが妙にはっきりと届いた。僕は少しだけ面食らった。この学校で僕に名を名乗る生徒などこの二年一人もいなかったからだ。いてもいなくても同じものに、わざわざ名を名乗る者はいない。
「常磐縁。一年」
僕は深澤とだけ返す。
「知ってます」
縁と名乗った子は平坦な声で言う。
「前期の実地、脱落するってみんな言ってます。……本当に、そう思いますか」
妙な聞き方だった。僕が脱落すると思うかではない。僕自身がどう思っているか、を聞いている。まるで僕の内心の答えを確かめにきたように。さあと僕ははぐらかす。
「やってみないと分かりません」
縁は少しだけ目を細めた。それから何も言わずに、パンを一つ取って列を離れていった。最後まで笑わなかった。
その背中を見ながら僕はあの裏手の丁寧な足跡を思い出していた。あれはこの子だ。根拠はない。でもそう感じた。誰かが僕を調べている。しかも笑いにでも、いじめにでもなく。値打ちを量りにきている。なぜ、と僕は思う。僕はこの学校でいちばん値打ちのない生徒のはずだ。査定表にそう書かれている。その僕をわざわざ調べる理由がどこにある。思い当たることは一つしかなかった。あの裏手の戸だ。あそこを調べたならあの坑の存在に気づいたはずだ。僕が無許可であそこを使っていることにも。だとすればあの子は僕の弱みを握っている。握っていてまだ使っていない。使わずにこちらを量っている。
その手順の踏み方が。同学年の誰とも種類が違った。弱みを握ったら普通は使う。郷田のように振りかざして脅す。そのほうが手っ取り早いし、分かりやすい。でもこの子は握った弱みを机の抽斗にしまうように、静かに仕舞い込んだ。いつでも出せる場所に置いてけれど、今は出さない。まるで僕という札の本当の値打ちがまだ決まっていないから切るに切れないというふうに。安い札で切ってしまうのは惜しい。そう思われている気がした。値打ちのない生徒のはずの僕が、初めて惜しまれている。そのねじれた感触が妙に後を引いた。郷田のように、見つけた弱みをすぐに振りかざす者のほうがまだ分かりやすい。郷田は弱みを武器にする。振りかざして、脅して、相手を削る。その削り方は痛いが、底が見える。でも縁は弱みを資産にする。握って、寝かせて、値が上がるのを待つ。その待ち方には底が見えない。どこまで深く、こちらを読んでいるのか。どこまで遠くの誰かに繋がっているのか。分からなさの大きさが、郷田とは桁違いだった。僕は初めて、この学校の中で本当に警戒すべき相手に出会った気がした。
放課後、郷田が僕の机の前に立った。久しぶりだった。あの崩落の夜以来、彼は僕を避けていた。なのに、今日はわざわざ来た。
「なあ深澤」
郷田はいつもの調子を無理に作っていた。
「実地、脱落したらお前、留年だろ。……そしたらこの学校ともおさらばだ。せいせいするな」
挑発だ。半分は本音、だろう。でももう半分は、確かめ、だった。あの夜、深いところから生きて帰ってきた僕が、本当にただの脱落者なのか。それを確かめにきている。縁とはまるで違うやり方で。でも根っこは同じだ。みんな僕の値打ちを量りかねている。僕は郷田を見上げて静かに言った。
「さあ、どうかな」
それだけだった。言い返しもしない。脅しにも乗らない。ただ受け流す。郷田は拍子抜けした顔をして、舌打ちをして、去っていった。可笑しかった。少し前までの僕ならその挑発に心を削られていた。今は何とも思わない。この学校の物差しで測られる勝ち負けは、僕にはもうどうでもよかった。
僕が見ているのは、もっとずっと下だ。誰も帰ってこない、いちばん深いところ。そこに比べれば、進級も、留年も、いじめも、水たまりの中の小さな波紋にすぎない。郷田の挑発が昔ほど刺さらなくなったのは、僕が強くなったからではない。たぶん、見ている場所が変わったからだ。同じ水たまりの中で誰が上か誰が下か。それを競っている限り、郷田の言葉は僕の急所に届いた。でも僕はもうその競争から降りている。降りてずっと下の暗いところを見ている。だから届かない。郷田の火も、縁の値踏みも、届くところに僕はもういない。それは強さというより、ただの遠さだった。遠さは強さとよく似ている。でも少し違う。強い者は水たまりの中でいちばん高いところに立っている。遠い者はそもそも別の水面を見ている。僕は強くなったのではない。ただ見ている場所がここからあまりに遠くなった。だからこの水たまりのどんな波も僕を揺らせなくなった。揺れないことをみんなは強さだと勘違いする。その勘違いが少しずつ僕を得体の知れないものにしていく。それでいいと思う。得体が知れないほうが核は隠しやすい。波紋の中で僕は静かに陣を組む練習を続けた。掌の中で小さく。誰にも見えないように。試験まであと数日だった。




