第十話 隠して深く
僕は一人で始めた。やることははっきりしている。収束を放つためではなく、陣を描くために磨く。掌の上に、指の先に、空を切るその軌跡に。魔力を収束させて、じかに陣を組む。
もっと精密に。
もっと速く。
もっと無駄なく。
磨くほどに分かってきたことがある。魔法陣というのは要するに技術の集まりだ。火を起こす陣。水を生む陣。風を起こす陣。光を灯す陣。身体を強くする陣。傷を塞ぐ陣。どれも座学で形だけは習う。普通の探索者は、そのうちの一つか二つを道具に刻んで持ち歩く。起こすのに時間がかかるからだ。でも僕は床に敷かない。魔力そのものでじかに組む。だから時間が要らない。その場でいちばん効く形を一瞬で置ける。それに、収束でならどんな陣でもその場で一瞬で組める。形さえ知っていれば火でも光でも盾でも。しかも誰が使うより無駄なく速く。
魔法陣にできることなら、僕には何でもできる。
その当たり前のはずのことに、誰も気づいていない。収束は量で焼く力だと、みんなが信じているからだ。だから僕は秘すと決めた。この使い方を誰にも見せない。見せれば、世界の収束への見方が変わる。変われば、僕のたった一つの優位が消える。いちばん下だと嗤われている今のうちに。誰も僕を警戒しない今のうちに。僕は、静かに深くへ、進んでおきたい。
律は、量で押しながら効率を道として理解しなかった。僕はその逆を行く。量を持たないぶん効率だけをまっすぐに道にする。誰にも気づかれないまま。でも僕は違う。
試しに僕は座学で習ったいくつかの陣を掌の上で組んでみた。初級の火の陣。中級の探知の陣。形は教本で覚えている。覚えてさえいれば組めた。どれも一瞬で。普通なら床に敷いて時間をかけて起こすものを。僕は歩きながら片手で組める。しかも教本に書かれた消費量の半分以下で。試すたびに、自分の指先が他人のもののように思えた。こんなことができていたのか。二年ずっと。気づかないまま。それに気づいたとき少しだけ指が震えた。不適性と呼ばれた力は。本当はいちばん潰しの利く万能の力だったのだ。しかもいちばん燃費がいい。そんな力を僕は握っている。
もっともそれを人前で披露するわけにはいかない。収束で陣を組むところを見られれば、いずれ真似される。真似されなくても、なぜ不適性がと詮索が始まる。だから練習は隠れてやる。掌の中で組むぶんには小さく目立たない。寮の布団の中でも、机の下でも、指先だけで形をなぞれる。深さを試すのはそうはいかない。あの隠し戸は郷田に知られている。もう迂闊には使えない。それでもいつかはまたあそこを開ける。僕の鍛錬は誰の目にも触れないまま、少しずつ進んでいく。
実地の訓練で、僕はわざと目立たないようにした。本当はもう班の誰よりも深く長く在れる。でもそうと分かるように振る舞えば、質問が来る。なぜ燃費最悪の不適性がと。だから僕は規定の深さで引き返し規定の量だけ採り、いつものように何も書かれずに次へ回される。
一度だけ危ういことがあった。実地のあと桐山先生が僕の魔力の残りをじっと見たのだ。
「深澤。お前今日ずいぶん余らせてるな」
教官の目はごまかせない。現役の頃深いところで死にかけた人の目だ。魔力の残量には人一倍敏感なのだろう。
「臆病なだけです」
僕はそう答えた。
「深く行くのがこわくて。浅いところですぐ、引き返してしまうので」
半分は本当だった。
あの夜一度死にかけたのだから。先生はしばらく僕を見てそれから小さく頷いた。
「……臆病は悪いことじゃない。深いところじゃ、それが命を拾う」
先生はそう言って行ってしまった。嘘はついていない。ただ本当のことも言っていない。こわいのは事実だ。でも僕が余らせているのは臆病だからではない。どうしても余ってしまうからだ。余ってしまう力を僕は隠している。いつか隠しきれなくなる日が来るのだろうか。
来るのだろうと思う。でもまだその日ではない。
残った魔力の多さは、相変わらず査定表のどこにも載らない。教官は僕を変わらず不適性として扱う。桐山先生はすれ違うたび少しだけ困った顔をする。普通科の話をまだ諦めていないのだろう。みんな僕を憐れんでいる。量の足りない宝の持ち腐れだと。その憐れみの目の奥で。僕だけが知っている。この世界でいちばん深いところへ行ける力を、今、僕が握りつつあることを。可笑しかった。可笑しくて、少しだけ、寂しかった。誰かに言いたいと思う瞬間がないわけではない。汐里になら、話せるだろうか。あの子は面白がってくれるかもしれない。でも話せば、あの夜の忍び込みまで話すことになる。母の耳に入れば、母は眠れなくなる。桐山先生になら。あの人はたぶんいちばん正確に理解してくれる。でもあの人は教官だ。忍び込みを聞けば立場上見過ごせない。結局、誰にも言えない。言えないものを抱えていると、人はこんなにも一人になるのかと思う。届いているのに届いていない。あの食卓の距離が学校でも僕を包んでいる。
抽斗の中の学費の通知はまだ消えない。問題は何も片付いていない。普通科に移れば全部丸く収まる。でも僕はもう移れない。あの底が見えてしまったから。量では届かないけれど、僕になら届くあの底が。もう一度、あの戸を開けることになる。今度は逃げるためではなく。金のためだけでもない。いちばん深いところへ少しずつ近づくために。それがどれだけ危ういことか、僕はもう知っている。あの夜、一度、死にかけたのだから。でもあの夜と今とは違う。あの夜、僕は何も分からずに死にかけた。今の僕は分かっている。
なぜ生きられたのか。
どうすれば、生きられるのか。
同じ暗闇でも意味がまるで違う。もっとも、今のやり方にもいつか限界は来るだろう。一枚の陣でできることにはかぎりがある。もっと深く、もっと苛烈なところでは一枚では足りなくなるかもしれない。そのときは収束をもっと細くすればいい。もっと細く、もっと速く。どこまで細くできるのか、その先に何があるのかはまだ分からない。ただ細くしていくその方向にだけ道がある気がする。その漠とした手応えだけが頭の隅にあった。でも今はまだその段階じゃない。
欲張ればあの夜の二の舞だ。一歩ずつだ。欲張らず一歩ずつ深くしていく。削れ方を身体で測りながら。陣を磨きながら。いつかあの底に届くその日まで。それでも行く。胸の裏の熱が静かにけれどはっきりと頷いていた。いちばん深いところが見たい。今度こそ、その言葉に嘘はなかった。




