9 歌は、指先でも歌える
俺の名前は晴野言。
元の世界では、一般高校生だった。
異世界でも、多分それは変わってない。
俺の個性は、ピアノをちょっと弾けること。
そして、現実改変の装置、『否応移し』の持ち主であるということ。
おまけに、キラキラした金髪ギャルと同棲することも、かな。
☆
温かい火曜日の正午ごろ。
「ロゴスくん!」
廊下を歩いていた俺に、そんな声がかけられた。
振り向くと、丸っこい緑色の瞳の少女がいる。
二つに束ねた三つ編みが愛らしい、グロリア・ダービシャーである。
「ああ、グロリア、どうしたの?」
「ええっとね? ちょっと、話がしたいな、って思って、ね?」
彼女は、背中の方から何かをだした。
それは、手提げ紙袋に入れている2人分のパンと飲み物だ。
いつの間に買ってきたのやら。
「昼食、まだかな? もし良ければ、音楽室で、これ食べながら話しない?」
頬をちょっと赤らめながら、グロリアは言う。
「ええっと、ね? 実は私、音楽の先生から、音楽室の管理を頼まれてるの。だから、本当はダメだけど、お昼休みの間とか、音楽室が使えるんだ」
それを言う彼女の顔は、少し後ろめたそうだ。
小さな罪悪感からのためらいが、またかわいらしい。
……でも、何なんだろ、この状況。
健全な男の子なら、誰しも勘違いしそうな場面だ。
わざと2人分買ってきたパン。
二人だけの空間で話がしたいと言う。
恥ずかしそうに、顔を赤らめて、もじもじしている。
もちろん、俺としては、とても嬉しい誘いだ。
でも、俺には優先すべきことがある。
だから、容易くイエスとは言えない。
「うーん、誘ってくれたのは、ほんと嬉しいけど……」
俺は言い淀む。
「実は、今ちょっと行きたいとこがあってね」
今しがた、教室を急いで出ていくフォリアの姿を見かけた。
いくら守れられている学園の中だとは言え、彼女を一人だけで人気のないところへ行かせるのは、良くない。
だから、こっちから追っかける方が良いと思ったのだ。
……これじゃ、まるでこっちがストーカーになった気分だよな。
でも、仕方がないのだ。
別に、いやらしい気があるわけでもないんだし。
「えっ、そうなの……?」
グロリアは、寂しそうな声色を帯びて、言った。
「でも、あの最初の日以来、ロゴスくんと全然話してないのに……私、ロゴスくんと話したくて、ずっと」
グロリアは落ち込んだ表情をして、下を向いた。
「ね、ダメ、かな?」
そして、緑の視線がこっちへ注がれる。
少しうるうるしていることが分かる。
「……っ」
困ってしまった。
これから、どうするべきか。
考えてみれば、日曜以来、危険な場面には一度も出くわしていない。
特に、学園内では、ごく僅かな危険の兆しさえ見かけなかった。
……だったら、昼飯の間くらい、いいじゃないか?
俺は、グロリアに『応』と言おうと、口を開けた。
「────」
しかし、その瞬間、偶然にも視線が右折した。
窓越しから見えた場面が、俺を黙らせた。
そこには、二人の少女の姿がある。
フォリアと、彼女の親友の『青リンゴちゃん』。
フォリアの方は、少々ためらっているらしい。
でも、『青リンゴちゃん』の方はやけに積極的に見える。
先に何歩も前に出て、後ろの方のフォリアを促している。
『青リンゴちゃん』は、何だか特徴的な手癖があるらしい。
右手の人差指を立てて、メトロノームのように揺らしている。
それを、俺は、見た。
「……!」
俺は、知った。
そこにいるのは、彼女らだけではなかった。
もう一人の少年が、木陰から現れたのだ。
──それは、シリルス・ラムポートだ。
奴は、『青リンゴちゃん』の隣に立つ。
二人揃って、遅れているフォリアの方へ手招きをしている。
二人が誘う方向は……知っている。
あそこには、体育倉庫が建てられていたはずだ。
☆
「ごめん、グロリア」
「えっ」
「今、ちょっと行かなきゃダメみたいだよ」
そう言い、廊下から立とうとした。
「……」
しかし、出来ない。
俺の学ランの袖が、掴まれている。
俺は振り向いた。
「ひどいよ、ロゴスくん」
グロリアが、俺の袖を掴んでいる。
悲しそうな顔をして、彼女は言う。
「私とは、たったの5分も一緒に居てくれないの?」
「……うっ、で、でも、今ちょっと急いでるから」
「また、フォリアさんのことなんでしょ?」
「……」
なぜ分かっているんだろう。
……いや、そんなの、誰から見ても歴然か。
どうやら、フォリアの評価は正しかったようだ。
俺は本当に、心が隠せないみたい。
「でも、フォリアさんとは、いつも一緒にいるでしょ? フォリアさんはいつもロゴスくんを独り占めしてるのに、それでも足りないの?」
「あーと、独り占めとか、そんな……」
そんな、まるでフォリアから俺を縛り付けているような言い方は、間違っている。
だって、むしろ、縋っているのは、俺の方なんだから。
「フォリアさん、羨ましいなぁ」
グロリアはちょっと暗い顔になって、言う。
その口調はまるで、独り言をしているみたいだ。
「明るくて、可愛くて、誰からでも愛されて。あんなにキラキラしてるもんね。私なんか、比較にもならない、よね?」
それを言う彼女の顔は、どこか悔しそうだ。
「でも、何もかも持っていくことはないでしょ?
……たったの昼休みの間くらい、私にくれても、いいのに」
元気なく、呟く。
袖を掴む力は、やがて弱まっていく。
グロリアは、顔を赤くして、横を向いた。
「……ご、ごめん。私って、つい変なこと言っちゃった」
済まなそうに、彼女は言う。
「ごめん、ロゴスくん。引き止めてしまって。また、今度にしようね。
……フォリアさんのとこ、行くんでしょ? 早く、行ってあげて!」
明るい表情をしている。
しかし、どう見ても作り上げだと分かる。
昨日の俺の振る舞いも、フォリアにこう見えてしまったのだろうか。
ふと、そんなことを思った。
「……」
俺は、フォリアのところへ行かなきゃいけない。
それは知っている。
でも、どうも足がここから離れない。
選択に迷っているのだ。
早くフォリアの後を追って、彼女をラムポートから遠ざけるべきか。
或いは、せめてこの昼だけは、グロリアとの時間にするべきか。
グロリアとの時間は、楽しく、笑えるものになるに違いない。
しかしそれは、もっと重要な責務の放棄になるのではないだろうか。
くだらない理由でフォリアのそばから離れたせいで訪れた惨劇を、覚えている。
この時、俺はどうしたら良いのだろうか。
「──そうだ、……」
「えっ?」
グロリアは、俺が呟いた響きを良く聞き取れなかった。
だから、首をかしげる。
でも、俺の方は、穏やかな表情を浮かべた。
そして、言う。
「グロリア、ちょっと後ろを向いてくれるか?」
「え?」
「用事があるんだ。30秒あれば、終わる」
「え、……う、うん」
困惑しながらも、彼女は俺の言う通りにしてくれた。
グロリアの背中を見つめながら、俺は何歩かを彼女から離れた。
そして、呟いたらあまり聞かれないほどの距離まで達する。
俺は、そこで『否応移し』を出した。
リセットボタンにトトト・ツーツーツー・トトトを打つ。
最初はちょっとぎこちなかったが、もうこの動作にも慣れてきた。
ディスプレイに、『状況を説明してください……』という文が表示されたのを確認する。
俺は、声を押し殺して、言った。
「今、学園のお昼休みだ。グロリアから音楽室へ誘われた。でも体育倉庫の方へフォリアが行くのが見えて、どっちに行くかで迷ってるんだ。だから否応移しを使おうと思う。……以上だ」
ディスプレイを見下ろすと、新しい『選択質問』が更新された。
『陸暦1554年5月7日午後0時15分ごろ:
瞬きの乙女の後を追い、体育倉庫の方へ行きますか?』
「……」
それを読んで、微妙な表情になるしかなかった。
何か情報量がひどく足りない気がする。
確か、最初に俺にこの機械を渡したストスの奴は、『選択質問』は論理上『否』あるいは『応』でしか答えないものになると言った。
だから、選択と言ってもかなり大まかな感じになるとは、予想していた。
でも、今の選択質問は、ちょっと心細い。
だって、グロリアの言及が完全に漏れているじゃないか。
今度の選択はグロリアだって重要な要素だと思う。
だが、重点がまるごとフォリアの方へ置かれている。
「──でも、今はこうするしか、ないんだよな」
俺は、ノブを『いいえ』の方へ回した。
いくらあやしい奴と一緒だとは言え、ここは学園の中だ。
さすがに、日曜日のようにはならないと思う。
それに、たとえ何かがあったとしても、すぐ彼女の方へ行ける。
一応はグロリアと一緒に過ごして、状況を見よう。
それが、俺の選択だった。
俺は『否応移し』をポケットにしまって、グロリアのところへ戻った。
「おまたせ、もう良いよ」
グロリアはわけのわからない表情で、こちらを見つめる。
「……ええっと、用事は済ませたの?」
「ああ」
「うん。よかったね……?」
すると、呆然として、俺を見つめる。
おかしなものを見てるように、緑の瞳を見開いて。
「ええっと、ロゴスくん、行かないの?」
「え、でも音楽室行こうって言ったじゃん」
わざと知らないふりをした。
「──!!」
すると、彼女の顔が電灯のように明るくなった。
緑眼が、まるで星を写す湖のように輝く。
「──うん! じゃ、行こうね!」
グロリアは、一度力強く頷いて、先に歩いていった。
俺も笑って、速歩で彼女の後を追った。
☆
「あーと、こんな風に、な」
俺はピアノ椅子に腰掛けて、何個かのコードを弾く。
そして、主に右手で、メロディーを弾く。
「で、全体的な曲の展開は知っているんだから」
俺はピアノ椅子の右側に腰掛けているグロリアを見て、言う。
「これからは、この展開を緩やかな感じで繰り返しながら、適当に思いついたフレーズなどを演奏するのさ」
「でも、そんなこと出来るの?」
丸っこい緑眼を輝かせて、グロリアは俺を見つめる。
「私もピアノ・フォルテの練習はするけど、楽譜にないものを即時で弾くことなど、やったことがないよ」
「多分、グロリアもちょっと感じ始めたら、その後は出来ると思う。一度それを超えると、わりと自然とやれるんだぜ? 例えるなら、うーん……」
俺はどうやったら伝えられるのか、ちょっと説明に迷った。
「……あっ、そうだ、自転車みたいなことだと思う。あれって、最初は出来ないけど、なれると均衡を取れるのは全然なんともねぇだろ? そんな感じ」
しかし、グロリアの方は首をかしげるだけだ。
「じ、てんしゃ……?」
「えっ、まさか」
俺は、驚愕した。
「ここの世界、自転車、ねぇのかよ……」
☆
俺たちは、軽く喋りながらパンと飲み物を終えた。
そしたら、決まったようにピアノの前に腰掛けた。
彼女は、ずっと俺が聞かせた即興演奏が気になっていたらしい。
かなり熱烈な態度で、それについて質問して来たのである。
だから、それについて、講義というか、拙い説明をしたのだ。
基本的に、グロリアの音楽的知識が豊富というのはすぐ分かった。
ちなみに、ここの音楽用語は元の世界と被っていることが多い。
たまに違うのもあるが、そんなに大きな齟齬をもたらすものではなさそうだ。
でもやっぱり、彼女に元の世界の20世紀以降の音楽の感じは異質的に感じられるようだ。
それに、彼女は楽器演奏の方はそんなに長じていないみたいである。
だから、たまに意思疎通に難がある時もある。
でも、俺は楽しかった。
こんなに楽しかったことなど、この世界に渡ってきた以来、初めてかも知れないくらい。
だって、俺が好きなものに興味を持っていて、話が合う人がいるのだ。
こんな状況で楽しくならない方がおかしい。
「なんなら、ちょっとやってみるか?」
俺の指先を珍かな視線で観察するグロリアに、提案した。
すると、彼女は顔を上げて、驚いた表情をする。
「えっ! なにを?」
その反応がおかしくて、ちょっと笑ってしまった。
「即興に決まってんだろ」
「えーっ、でも、そんないきなり、出来ないよ……」
「大丈夫だよ、俺も一緒だから」
その意味が、彼女には分からなかったらしい。
目を瞬きながら、こちらを見上げる。
俺は、ピアノ椅子の左の端っこにちょっと移動した。
「俺がこっちで、ベースとコードを弾いてあげるから」
そして、右側の方を見た。
「グロリアはあそこで、ソロをしてみてよ。適当で、気楽で良いんだから」
少しの間、彼女は俺の笑顔を見つめていた。
そして、小さく、頷いた。
「じゃあ、行くぞ? さっきと同じく、ヘ長調で。まずは主題、弾くから」
そして、俺は始めた。
あの日と同じく、再び、ミッドナイト・ムード。
全然ミッドナイトじゃないけど。
今度は、わざとテンポを更に緩慢にした。
そして、転調して繰り返すこともなく、主題をすぐ終わらせる。
「これから、グロリア、お前の番だぞ」
呟いた。
彼女は、きっと頷いたと思う。
──そして、グロリアの指が、歌い始めた。
でも、最初はちょっと躓く。
「っっ」
しかし、俺は止まらない。
低音域の進行は、まるで怯まず、ずっと進む。
だから、グロリアもすぐ戻ることができた。
「……」
とてもこまかな作りの手だからか?
彼女が紡ぐメロディーは、極めてかわいらしい。
でも、ちゃんと聞こえてくる。
ちゃんと、届く。
彼女は、歌っている。
歌は喉元を鳴らしてだけ出来ることではない。
グロリアも、それに気付いたらしい。
俺は、右へ視線を向けて、彼女の横顔を見た。
その表情は、とても明るく、無邪気に、笑っている。
彼女もこの瞬間を楽しんでいるのだ。
それが、俺はとても嬉しかった。
でも、あんまり調子に乗ってはいけない。
テンポを崩さないように、注意しないと。
彼女の歌は、あくまでこっちを土台にして鳴っているんだから。
「……ふふっ」
しかし、笑わずにはいられなかった。
ああ、音楽とは、こんなにも楽しいことなのだ。
既に、初めてピアノに触れた時から、知っていたはずなのに。
その実感が、とても久しぶりな気がした。
☆
「────」
一度、ソロはちょっと激しくなる。
そして、それから、静まる。
俺たちは、何一つ喋らずも、ここで終りだと知った。
グロリアの歌は、止んだ。
すると、俺は主題に戻る。
ルバートにして、少し長引いて弾いてみた。
でも、すぐ終わる。
俺は鍵盤から手を上げた。
「ふふっ」
すると、隣でそんな笑い声が聞こえた。
「分かった、かも。こんな感じなのね」
グロリアは、とても満足気に言う。
「言ったろ? わりとなんともなく出来るって」
伝わったことが嬉しくて、俺も笑った。
「ううん、なんともなくはない」
彼女は穏やかな微笑みとともに、首を横に振った。
「きっと、ロゴスくんが教えてくれたから。そして、一緒に演奏してくれたから、だよ」
彼女は、左の俺の顔を見る。
「ありがと、ロゴスくん。私に、新しい景色を見せてくれて」
一瞬、息が詰まった。
その顔は、いつものグロリアの小動物的感じとは違う。
こっちがもっと、彼女の真心に近づいている、そんな気がした。
「……んっ」
グロリアの瞼が、少しだけ下へ垂れた。
彼女の頬は、上気している。
丸っこさを失った瞳が、潤んでいることが良く分かった。
「……え、えっ……」
間抜けな声を出してしまった。
グロリアと俺の間に置かれた、俺の右手。
その上に、彼女の左手が重なったのだ。
「ちょっ、まっ──」
久しぶりに、俺の童貞ソウルが唸り声を上げる。
ついさっきまで平穏だった心臓が、爆発しそうになってしまう。
顔に熱が上がって、真っ赤になっていることが分かった。
「ぐ、グロリア……?」
「……」
彼女は何も言わず、顔をこっちへ近づいている。
これから何が起ころうとするのか、
そんなのは、歴然だった。
☆
……えっ? マジ?
ここで俺、人生初めてのキス、してしまうの?
こんなとんでもなく可愛い、異世界人の子と?
でも、そんなことは、もっとお互いのことを知った後で、
そして、正式に付き合ってから……。
などと、また心の中ではふざけたことを力説していた。
でも、本能的期待が、全てを圧倒していた。
俺の怯みがちな、臆病な気質も。
16年の間、骨髄の中に刻んで来た、つまらない童貞論も。
──そうだ。別に、良いじゃないか。
こんなチャンス、もう二度とないかも知れない。
きっと、俺にも、青春の神さまの祝福が届いたのだ。
それを受け取らず、無碍にしてしまうだなんて。
流石の俺も、それほどバカではないのだ。
だから、目を閉じた。
そして、グロリアへ、近づいた。
想像するのは、ただ一つ。
二人の距離がゼロになった頃、
伝えられるはずの、柔らかい感触。
◇ ◇ ◇
「キャアア──ッ!!」
淡い夢は、無惨に砕かれ落ちた。
それをなしたのは、鋭い悲鳴。
そして、爆発音に似た、低い轟。
俺は立ち上がって、それが聞こえた方向を見た。
「これは……」
体育倉庫の方だと、分かった。




