6 初めての登録──そして、
『否応移し』。
それは、この世界に転生する際に、自称神さまから俺に渡された道具である。
人生の選択を登録し、その選択の否応を後から切り替えることができるという、かなりとんでもない機械仕掛けだ。
それが本当なのかの確認は、まだだが。
俺はその『否応移し』、略して『イヤウツ』を掌の上に乗せた。
今、俺が迷う人生の選択とは、こうだ。
一つの選択肢は──今からフォリアの後を追って、劇場に入って彼女を探し、さっきの言動を謝る。そして、一緒に異世界の演劇とやらを観覧すること。
もう一つの選択肢は──色々めんどくさいから、悪いとは思うけど、何も言わずに家に先に帰ること。ごめんなさいって言うだけなら、後回しでも別に良いんだし。
……改めて考えると、実につまらない悩みである。
俺が豪快な性格だったら、とっくに前者を選んでいただろう。
だが、陰キャの考えすぎ癖を舐めないで欲しい。
俺の頭の中では、彼女に謝りに行ってから起こりうるあらゆる可能性を計算して、その一つ一つに恐るるに足りる理由を見出していたのだ。
「……でも、こんなことで使ってもいいのか、これ」
やっぱり『イヤウツ』を今使うべきなのか、確信がない。
説明通りなら、いくらやぼったい外見とはいえ、神々の戦争のために作られた武器ではないか。
でも、あのメガネオタクの神、ストスの奴は別にどんな状況で使えって指示はしていなかった。
しかも、自分だってラーメンを食うに行くか否かのふざけた使用例を見せてくれたじゃないか。
「……まあ、なら、別にいいか」
そんな適当な考えから、俺は初めての登録を始めた。
たしか、最初には、『登録モード』の発動が必要だった。
そのために、側面のリセットボタンを押せと言っていたな。
俺は側面についている蓋を見た。
そこには小さなくぼみが設けられていて、そこから開けられやすいようになっている。
それを開けてみた。
すると、言われた通り、赤い背景で白い字でRESETって書かれたボタンがある。
色合いからして、かなり重大なものだと分かる。
俺はそれを左手の親指で押した。
トトト・ツーツーツー・トトト、だったな。
SOS、つまり救助要請だ。
確かに、それはぴったりのアイデアだなって思う。
それが終わると、変化が見られた。
今まで何も表示されてなかったディスプレイの上に文が現れている。
『状況を説明してください……』
それは瞬きながら、こちらの行動を促している。
入力を待っているのだと分かる。
「えーと、これから音声入力だったよな……」
呟いた。
まさかこれまで入力として扱われるんじゃないだろうな。
「……あの、今、フォリアとなんか……喧嘩して感じなんだけど」
なんか口ごもる。
そういえば、正確になんって言えば良いのかなど、聞いてなかった。
この状況をどうやって伝えれば良いのか。
「あ、まさか、『フォリア』が誰なのかから始めなきゃダメなのか?」
それって、かなり話が長くなるのだが……。
まあ、一応適当にやって見よう。
それで登録された選択肢を見て、もしそれがダメだったら登録し直せばいいだろ。
「とにかく、フォリアと喧嘩して、迷ってるんだよ。今あいつを追っかけてあの劇場に入って、謝って一緒に演劇を見るのか、あるいは一人で先に家へ帰るのかで。まあ、そういう感じなんだから、否応移しを使おうと思ったんだ」
……さすがに説明が適当すぎるんじゃないか。
それに、言葉にするとくだらなすぎて、こんなことで悩んでいる自分が馬鹿馬鹿しくなる。
ともかく、説明はこれぐらいで十分だろう。
後は登録が完了されるのを待つだけだ。
「……」
一瞬は、何も起こらないように見えた。
しかし、変化はすぐ訪れる。
「お、出来たのか」
ディスプレイ上に、やがてはっきりと文字が示されたのだーー『登録完了』と。
そして、次の瞬間に現れたのは。
『陸暦1554年5月5日午後4時15分ごろ:
瞬きの乙女の機嫌をとりに、彼女を追っかけますか?』
「……」
なんだ、これ。
これが選択っていうのか?
上のやつは、選択が登録された時間のようだ。
すると、下のやつこそが、ストスが『選択質問』といっていたものだろう。
『瞬きの乙女の機嫌をとりに、彼女を追っかけますか?』
まず、『瞬きの乙女』って、フォリアのことで間違いないだろう。
預言の内容でも、彼女はずっとそう呼ばれていたんだし。
しかし、『機嫌をとりに』ってなんだよ。
大まかに言ったら違いないかも知れないけど。
「……とにかく、これでもう良いんだろ」
選択肢と言っても、『イヤウツ』が選べるものは二つしかいない。
質問に『否』って答えるか、或いは『応』って答えるかだ。
俺は、カバーを開けて、ノブを回した。
それが向かう方向は、『いいえ』となる。
まずはこっちのルートで行こうと思うのだ。
そして、もしこれで何かマズくなったと思ったら、ノブを回すのだ。
鍛冶の神さま、ストスの説明を思い出す。
彼が言っていた通りなら、『イヤウツ』は現実自体を完全に変革することが出来る潜在性を持っているのだ。
あのメガネオタクの大口が果たしてどれほど本当だったのか、これではっきりとなるだろう。
でもまあ、流石にこんなくだらない選択一つで現実が変わるとか、そんな大仰なことなどないと思うが。
イヤウツの登録が終わると、俺はテーブルから起き上がった。
時刻は、午後の4時20分だ。
飲み物のカップをカウンターに返納して、俺はカフェから出た。
☆
「……あれ、ここって」
気がつくと、路地裏に一人立っている。
どうやら、道に迷ったみたいだ。
「変だよなぁ」
ただ、カフェまで辿り着いた道を逆行しただけなのに。
いつの間にか、こんな見たことのない空間まで流れ込んでしまった。
もう夕焼けの頃に近いので、曇り空にも橙色が滲んでいることが分かる。
建物の壁に囲まれているせいか、ここは道路のあたりよりもっと暗い。
だから、もう事物の輪郭がぼかされて、見えづらくなっている。
「──おにぃちゃん?」
そんな声が聞こえた。
驚いて、後ろを向いた。
そこに立っているのは、小さな女の子だ。
青色の髪を、ツインテールにしている。
片方だけデカいリボンが付いていて、何だかアンバランスさを感じる。
着ているフッド付きのジャケットはその身体には大きすぎて、手はもちろん、下半身もほぼ覆っている。スカートのようだ。
「おにぃちゃん、こんなところで、何するの?」
言いながら、にっこりと笑う。
するとギザ歯が光ったので、そこに視線を注がれてしまう。
「……いや、ちょっと道に迷ったんだけど」
「ダメだよ? こんなところでひとりで、無防備で歩いていると」
クスクス、彼女は笑う。
「わるぅいひとたちにさらわれてしまうかも、だよ?」
「それは、こっちの方からお前に言いたいのだが……」
こんなちっちゃい子にそんなことを言われると、どうも妙な気分になる。
でも、確かにちょっと無防備すぎるのかも知れない。
ここの世界は、ニホンとは違うんだから。
「魔術も使えないのに、路地裏でうろちょろしたらちょっと危ないよな……」
独り言だった。
しかし、向こうの子にも聞かれたようだ。
「あ、やっぱりおにぃちゃん、魔術もつかえないんだぁ」
手が隠された袖を上げて、手を打つような動作をする。
もちろん、軽快な音などは響かない。
「今週ずっと見てたんだけど、おにぃちゃんみたいな人がほんとに預言の少年なのぉ? 信じられない」
「……は?」
今、この子はなんて言った?
今週、ずっと見てたって。
「あの王さまは、結局、無能無策のバカモノだったのね」
ギザ歯を光らせながら、彼女は言い続ける。
「こんな何も出来ないひとに、空から落ちたからってことだけで、瞬きの乙女の全てを任せるだなんて、ほんと、笑えるわ。それとも、預言なんか、最初から頼りにならないってことかしら」
「な、にを、言っているんだ?」
俺は、何歩も後ずさってしまった。
脅威になるはずもない小さな女の子に、俺は、確かな恐れを覚えていた。
「どうやら、頭も悪そうだね」
何がそんなにおかしいのか、彼女は下を向いてクスクスと笑う。
「おまけに、責任感もないだなんてね。今でもあの子から離れ離れになって、自分の役目から逃げてるし。もぅ、最悪じゃない?」
ふと、背中に硬いものを感じた。
もう、後退る空間がなくなっている。
俺は壁に背をもたれて、目の前の女の子を見た。
しかし、彼女の方からは、むしろこっちへ近づいている。
「まぁ、良いわ。こっちとしては、手数が減ったから、好都合だもんね」
彼女は、ずっと袖で隠されていた右手を出した。
それは、まるで母が子どものだめに影絵を作らせる時の手の形に似ている。
「おにぃちゃん、どんな幻想がお好み?」
「──は?」
「パッ、パッ、パッ、パッ」
その音とともに、彼女の右手は何度も口を開けては、閉じる。
それはまるで、キツネの口の開閉を真似ている、ような。
「────」
☆
俺は、どこに立っているのだろう。
「……知らない」
多分、その空間は異様の気体で満たされている。
見渡すもの全てに、変なかげろうがかかっている。
「────」
ふと、彼方から何かが見えてきた。
乗り物だ。それだけは分かる。
だが、名前が思い出せない。
忘れてしまった。
なぜだろう。
「知らない」
あれは前方から、恐ろしいほどの強烈な光を発している。
まるで、怪物の目玉を見ているみたいだ。
「な、なんで……」
状況を飲み込むヒマもなく、車は動き出した。
それが向かう先は、俺が立っているここだ。
──ヤバい、避けないと。
そうは思ったのだが、身体が良く動かない。
足元が、地面に据え付けになっている。
「────」
だから、悲鳴を上げる暇もなく。
俺は、疾走する車に、轢かれてしまった。
それで、たぶん、死んだ。
◇ ◇ ◇
「──はっ」
俺は一人、シートの上で目を開けた。
すると、見慣れない天井が目に入った。
「──あれ、俺って」
上半身だけ起き上がって、呟く。
良く、思い出せないのだ。
俺は、何でこんな所にいるのだ?
俺の部屋のピアノとパソコンはどこにいった?
何で俺は、ベッドじゃなくて、シートの上に寝ていたのか?
「……これは」
その時、手に握っていたものに気がついた。
それは、ある種の切符に見える。
表面には書かれている。
『キュリアルもどき』だと。
「……そう、だったな」
それで、やっと全て思い出した。
俺は、異世界に来ているのだ。
一瞬ではあるが、それを忘れていただなんて、おかしい。
「フォリア」
その名前を呟いた。
外はもう暗くなっているっぽい。
壁の時計を見ると、時刻は21時を回っていた。
☆
倉庫から出ると、真っ暗だ。
アパートの中には誰もないとわかる。
壁の上のスイッチを押す。
すると、電気ではなく魔力で作動する灯りがともされる。
「……フォリアは、まだ戻ってないのか」
彼女とはぐれたことは覚えている。
演劇が終わるまで、ある程度は時間がかかるとは予想していた。
でも、さすがにこんなに遅くまで帰ってこないとは……。
一応確認はしようと思って、彼は彼女の部屋にノックをした。
「フォリア、いるか?」
返事はない。
ちょっと悪いと思うけど、確かめるために部屋を開けようとした。
が、鍵がかかっている。
「……まぁ、さすがに部屋の中にいるのに返事しないとか、ないだろ」
それほどまで彼女を怒らせては、ないと思う。
☆
結局、まだ彼女は帰ってきてないことが分かった。
でも、まさか演劇がまだ終わってないというのか?
別のジャンルの話だが、オペラがかなり長引くっていうことは、俺は音楽の知識から知っている。
でも、あの『キュリアルもどき』ってそんな4時間を超える大作には見えなかったのだが……。
異世界の舞台文化に無知なので、なんとも断言できないのが悔しいな。
「……いや、さすがにそれは、おかしいだろ」
今は日曜日の夜だ。
明日は授業が再開する。
フォリアは基本的に学業をおろそかにするタイプではなかった。
そんなに長時間に渡る演劇だったなら、そもそも日曜の午後時間のチケットを買わなかったと思う。
……だったら。
彼女は、いったいどこで何をやっているのだ?
もう深夜と言っても良いような時間だ。
ここの街がニホンと比べてどれほど安全なのかは知らない。
でも、たとえ安全だと言っても、女の子一人で出歩くにはちょっと良くない時刻になりつつある。
しかも、どうも以前彼女が言っていたことが気にかかる。
『ただ、ちょっと学園には厄介なのがいっぱいあるから』
『んーっ。なんていうか、半分ストーカーみたいな?』
……ぼんやりとした不安が渦を巻いてきた。
もう、このままではいられなくなってしまう。
「そうだ」
思い出した。この世界にも、遠くへいる相手と連絡をとる手段があったじゃないか。
──トンボだ。
あんまり遠く離れない人とメッセージを交わすことができる、こっちの世界のラ◯ンみたいなものだ。
思いついた俺は、倉庫の部屋の隅に適当に追いていたトンボを取る。
停止状態の俺のトンボは、まるで銀色のライターみたいな外見だ。
それを片手で掴んで、もう一つの手をその下に出すと、あの装置は小さな紙切れ吐いた。
それを広げて、俺はメッセージを書く。
『今、どこだ? まさかまだ演劇終わってないのかよ?
早く帰って来いよ。ずいぶん遅くなってるから。
──ロゴス。』
それを元通りに折りたたみ、トンボの方へ渡した。
「ソルダネラ・フォリアモメンタネアへ、だよ。頼むぞ」
既登録の名前をそうはっきりと言うと、あとはその人物のトンボへ自動的に飛んで行くらしい。
プライバシーの側面からは悪用される余地もありそうだが、その対策として別の装置も開発されているとか。
とにかく、これであいつにちゃんと届くはずだ。
すると、フォリアから貰った旧式のトンボは、身を分けた。
半分は俺に残って、送信者の位置を知らせる。
もう半分は飛行して、メッセージを伝達するのだ。
飛んで行く方の半分が羽を伸ばした。
そして、飛び上がる。
「ーーーー」
しばらく俺の目の前をハチドリのようにちょっと浮遊していた。
すると、開けっ放しの窓の方へ行く。
「……しかし、返事にはちょっと時間がかかるよな」
トンボはああ見えてかなりの速度を出せる。
地上近くでは速度に制限がかかっているが、一応障害物がない高度まで上がると、思いっきり飛行するらしい。
ちなみに、トンボ以外にも魔術による飛行体の種類はけっこうあるらしく、トンボのための航空領域は決められていると聞く。
とにかく、あの街の中心部の劇場までは往復で15分がかからないはずだ。
でも、スマホのせいで即時の連絡に慣れている俺みたいな異世界人は、なんかそれでもむしゃくしゃすると言うか。
「……」
まあ、今は、待ってみるしかないだろう。
俺はキッチンのテーブルの椅子に腰を掛けた。
……そう言えば、まだ晩御飯も食べていなかった。
実は、フォリアが帰って来たらちょうどご飯の時間かな、って思って、食事する前に謝るつもりだった。
一緒に面を向かって飯を食うのだ。気まずいままで食べたくはない。
短い時間だが、同棲する間に気づいたことがある。
フォリアと家で二人食事するとき、俺たちは意外と良く喋ったり、笑ったりするってことだ。
もちろん、他のペアだったらそんなのは当たり前だったかも知れない。
でも、正真正銘の陰キャとギャルの組み合わせなんだぜ?
最初は正直、沈黙が続いたらどうしよ、ってちょっと心配したんだよな。
でも、フォリアが先にいろいろ話しかけて来た。
こっちだって黙っているわけにはいかなかったから、返事をする。
そのうちに、いつの間にか、自然と会話していた。
俺たちは、何気ないことを言ったりしてた。
主に学園のことだった。
それが今までの俺たちに共通する数少ないものだったからだろう。
でも、もうフォリアが演劇が好きだって知ったから、それについて聞いてみるつもりだ。
実は、自分からでも演劇のことは興味があったりするので、単に退屈しのぎのつもりではない。
それに、これからある程度は二人で暮らすのだから、もっとフォリアのことは知っておこうと思うのだ。
そう、帰ってきたら、きっと。
そうしよう。
☆
俺は壁の上の時計を確認した。
21時半。
15分で帰ってくるはずだったトンボは、三十分近く経ったのに、来ない。
これは。
その意味は。
「────」
俺は、椅子から立ち上がった。
もはや家で一人のんびりしている場合ではない。
俺は倉庫で学ランを再び身にまとい、家から出た。
胸騒ぎが、した。
どうしようもなく、不安に駆られている。
◇ ◇ ◇
この世界もバスは存在する。
外見は、ロンドンのあの特徴的な赤いバスと酷似している。
しかし、それはもちろん、エンジンで動かすものではない。
ある特殊な生き物によって、馬車のように引っ張られて動くのだ。
あの生き物の外見は、人型のロボットの上半身だけが四つん這いのまま、手で地を這って動く感じだ。
下半身の方は、不思議な緑青色のオーラに包まれている。
一頭が馬よりちょっと大きいから、かなり大きさだ。
奇妙なようで、神秘なような、そういう外見だ。
とにかく、あのバスに乗って、俺は再び街の中心部へ向かっている。
「……」
無言のまま、俺は窓の外の明かりをぼんやりと眺めた。
フォリアの家の周辺のアパートやマンションの密集した地域からちょっと行くと、今のようなキラキラとした繁華街が出るのだ。
ネオンサインや電光板ではないのだが、こっちの世界の夜の照明は魔術で飾られていて、むしろ電気ものよりもっと華麗に見える。
それがここのヨーロッパの洗練された街並みの感じの外観と相まって、とても美しい。
しかし、今俺の目にはあんまり入らなかった。
「……フォリア」
心の中は、ずっと彼女のことで一杯になっていた。
☆
「はぁ、はぁ、……たしか、このあたり、だったよな」
走って、何時間前のカフェまで帰ってきた。
もう今日は営業を終えたようで、今はテーブルも全部建物の壁際に畳まれている。
俺はその反対側の、建物を見上げた。
そこには、ちゃんと『キュリアルもどき』のポスターが掲げられている。
あの劇場に入っていくフォリアが、最後にみた彼女の姿だった。
「──いや、縁起でもねぇよ」
最後とか、そんな。
まるで、これから二度と彼女と会えないとでもいうような、ことは。
「……っっ」
俺は、力強く首を横に振った。
無駄なことは考えるんじゃねぇ。
フォリアを探して、それで連れ出すのだ。
「……?」
その時、空中から俺に近づく、小さい何かを見つけた。
それは、今まで帰ってこなかった俺のトンボ、伝達役の半分だった。
「まさか、フォリアの返事が?」
今さら帰ってきたというのか。
俺はそっちへ手を伸ばして、取った。
すると、あいつは俺の掌に乗って、紙切れを吐く。
それを急いで広げてみた。
しかし、期待は落胆に変わる。
『今、どこだ? まさかまだ演劇終わってないのかよ?
早く帰って来いよ。ずいぶん遅くなってるから。
──ロゴス。』
「……俺が送ったものじゃねぇか」
これは、一つを意味する。
つまり、俺のメッセージがあっちへ届かなかったのだ。
「……」
しばらく掌の銀色のトンボを見つめていた。
そして、何か、思いつく。
「新たに、メッセージを送りたい」
そう言うと、トンボは新しい紙切れを吐いた。
俺は掌で、急いで書いた。
『フォリア、どこだよ ――ロゴス』
そして、それをトンボへ渡す。
「ソルダネラ・フォリアモメンタネアへ」
今、彼女の居場所がまだ定かではない。
街のどっかへは居るとは思うが、それでも確かめる必要がある。
トンボは近距離の相手の場合、高度の高い領域までは飛び上がらず、地上近くですぐその相手へ飛行するのである。
これでフォリアの居場所がある程度は掴められはずだ。
俺の掌から飛び上がったトンボは、しばらくこっちを見つめるように浮游していた。
そして、動き出す。
その方向は、
「──結局、そうか」
あのデカいポスターが掲げられた建物だ。
フォリアは、まだ劇場の中にある。
☆
ゆっくり飛行するトンボの後を追って、俺は劇場の中に入った。
さっきは入口で入場券を確かめる給仕が立っていたのだが、今は誰もいない。
俺としては運が良かったと言えるが。
中に入ると、広いホールが俺を迎えてくれた。
やや古風な感じの内装で、吊り下げられたシャンデリアや、天井と接する柱頭のアカンサスの象りや、とにかく華麗な作りになっている。
ホールの向こう、入口の正面の方へ、大きな門が見える。
多分、その先が舞台と観客席のある場所なんだろう。
しかし、ホールの中は人が誰もいないのだ。
明かりは付けられているし、働く人の一人や二人は見えるはずなのだが。
おかしいとは思うが、今はそんなことにぐずぐすしている場合ではない。
トンボは、まるで俺を案内するとでもいうように、ゆるやかな速度で前へ進んだ。
それが向かう所は、どうやら舞台の空間ではないらしい。
「……あっちは?」
それが向かう方向には、トイレを意味するサインがあった。
トンボは、女子トイレの方へ行こうとしている。
「……」
ちょっと後ろめたいとは思ったが、どうしようもない。
ここまで来て、そんな理由で棒立ちしてろってのか。
ふざけるなよ。そんなの出来るわけがねぇじゃん。
俺は深呼吸をして、トイレの扉を押し開いた。
☆
「────」
ここは、何かが間違っている。
入った瞬間、そのことが分かった。
空間は異様な臭気に充ちている。
トイレの不潔さからの臭いではない。それとは違う。
何か、ひどく熱っぽい、鋭い、なのに朧げな、そんな臭いだ。
トイレの構造自体は、元の世界のものとあまり違わない。
女子用のトイレに入ったことなど、これで初めてだったが。
中はかなり広々として、個室の数もざっと見た感じ20を超えている。
だが、そっちの明かりは故障を起こしたのか、かなり暗くて、明確には見えない。
「……あ、れは」
周りを見渡した途中。
洗面台のところへ視線が釘付けになった。
その上に、ボックス状の何かを発見したのである。
かわいらしいデザインで、カバーは浅紫色。
カバーの上には、いろいろな飾り物が付けられている。
どれも、所有者の爽やかな性格を垣間見させるものだ。
トンボだ。フォリアのものだ。
でも、なんか染みがつけられたような。
その汚れは──紅色だ。
「────」
飛んでいた俺の銀色のトンボが、彼女のトンボに近づく。
洗面台の上に着地したあれは、しかし、混乱ているらしい。
宛先は確かにここであってるのに、それを受けるべき人がないのだ。
だから、トンボは何も出来ず、ただそこで居据わっているだけだ。
「────」
その時だった。
個室の空間の灯りの故障が直されたのか、いきなり明るくなった。
明るくなりすぎて、眩しいぐらいだ。
それで、やっと気がついた。
そっちの床に染み込んでいる、色を。
あの真っ赤の染料の、溜まりを。
「──え、えっ」
状況が理解できない。
え?
何で?
あれは、血?
何でだよ?
何で、ここに、血?
「……あの一室から」
よく見ると、その赤い液体は、トイレのある一室から流れ来ているらしい。
そして、他室の扉や、床や、壁あたりに、血の痕がはっきり残っている。
どうやら、それを流した張本人は、壁に手をつきながら、あの一室まで行ったみたいだ。
「……」
俺は、そっちへ、ゆったりと、歩いた。
実は、行きたくなかった。
そこに何があるのか、見たくなかった。
逃げ出したいと思った。
でも、引かれるように、惑わされるように、そっちへ向かうしかなかった。
心臓がうるさくなりすぎている。
こんなに跳ね上がったら、爆発して死んでしまうんじゃないか、って思うくらい。
一歩を出すたびに、筋肉はびくっとなり、どんどん強く俺の心臓を圧迫してくる。
それでも止まらない。
止まることなど、できない。
永遠のように感じられる時間がすぎ、やがて扉の前に立つ。
そして、扉を開けた。
☆
個室の中には、フォリアの死体が置かれていた。
血まみれになっている。
腹部に、何か刃物のようなものが刺されている。
一度刺されただけではないらしく、彼女の腹はまるでいたずらに叩かれたひき肉のようになっている。
口元には、下から上がってきた血液が溢れ出して、真っ赤な流れをなす。
あのきれいだった顔は、想像を絶する苦痛を経験したようで、無惨に歪んでいる。
宝石のように輝いていた青い瞳が、虚ろな無機質の腐れ肉と化した。
存在するのは、かつて美しかったものの名残だけだ。
「────あ、あぅ、あっ、ああ」
俺は、尻もちをついた。
自分の口から、何かが流れている。
それは、よだれだったか? それとも、呻吟だったか?
分からない。
何かが溢れ出るところは、口だけではない。
目元から、どうしようもなく、涙を流している。
その場面を見かけた途端、そうなっていた。
瞬間、脳裏に優しい声が鳴り響く。
──ロゴス。
その笑顔を、思い出した。
この世界にきて初めて目にしたもの。
あの美しい顔が、笑いを浮かべる姿を。
──謝んないでよ。別にロゴスは悪くないじゃん。
──これからよろしくね、ロゴス♡
──ほら、帰ろ? ロゴス。
──世界は、正面だけじゃない。
──ロゴス、喜んでくれるのかなって、ずっと思ってたのに。
俺は全身から力を失った。
「あ、ああ、ああ──」
いつの間にか、床に転がっていた。
まるで、地上にむりやり連れ出された魚のように。
死んでゆく脈動のように。
俺は、フォリアの血の溜まりの上で、必死に泳いでいた。
自分の服と、腕と、顔が、彼女の血液だらけになってしまった。
「う、うっ」
俺は、嘔吐した。
食べたものも禄になかったのに、腹の中のものを全て吐いてしまった。
精神が遠くなって、目先がぼかされてしまう。
天井から差す灯りが強すぎて、何もかも鮮明になりすぎてしまった。
眩しさのなかで、真っ赤な色のめまいを起こした。
☆
「お、俺は……」
──お前のせいだ。
そんな冷酷な声が聞こえた。
それを言ったのは、きっと俺自身だ。
「ち、ちが、う。俺は、そんなつもりじゃ……」
──お前のせいだよ。
──お前が、彼女を殺した。
──お前には、役目があったはずだ。
その時。
王さまから、俺に命じられたことは何だったのか。
それを、思い出した。
預言に従うこと。
その預言は、何ていっていた?
──瞬きの乙女に、別世界からの少年が付き従うべき。
俺は、それをないがしろにしたんだ。
この世界で俺に任されていたたった一つの役目を、投げ捨てたのだ。
何で?
たったの、くだらない、一つの理由で。
彼女に追いかけて、彼女に謝るのがめんどくさいという、
どうでもいい、そんな理由で。
その時、俺の頭のなかから、再生された声があった。
無駄に透き通った、メガネの神の声。
『『選択』というのは、とても重大なものだ。くれぐれも、その重みを忘れないように、ね』
「……そうだ、なにもかも、おれのせいだ」
四つん這いになり、血まみれになっている床を見つめながら、呟いた。
「おれが、おまえが、しなせた。おれが、おれのせいで──」
俺は、彼女を守るべきだった。
王さまに言われた通りに、俺は彼女につきっきりになっているべきだった。
なのに、自分の責務をないがしろにした。
守れたはずのものを、守らなかった。
どこで間違ってしまったのか。
どこで何もかも狂ってしまったのか。
どこで、俺は『選択肢』を間違えたのか。
「────」
「どうか、神さま」
俺は、祈りだした。
「頼む」
「お願い。お願い」
「頼む、頼む、頼む、頼む、頼む」
「頼む、頼む、頼む。俺に、もう一回だけ」
「──これをやり直せる、機会を、俺に」
泣きながら、懇願した。
こんな必死になったことって、今まで一度もなかった。
そのためなら、なんだってするつもりになっている。
その祈りの対象が誰なのかは、知らなかった。
日曜に、この街の人々が礼拝堂の中で求める、あの絶対者に向かったものなのか。
あるいは、自分の故郷の、馴染みの神々に縋っていたのか。
あるいは、自分が直接対面した、あの『神』のことを思い出していたのか。
正解は、分からないのだ。
血の海の上でひざまずき、『否応移し』を出した。
何を持つことさえも厳しいほど、手が震えていた。
「頼む、お願いだから、頼むから。頼む──」
ディスプレイの上には、相変わらず、同じ問いが表示されていた。
『陸暦1554年5月5日午後4時15分ごろ:
瞬きの乙女の機嫌をとりに、彼女を追っかけますか?』
俺は、ノブのカバーを跳ね上げた。
そして、震える手で、ノブを掴んだ。
「フォリアを、ソルダネラを、死なせないで、くれよ──!!」
──俺は、「はい」の方へ、ノブを回した。
☆
すると──
目の前の景色が、空間が、崩れて、変化されるのが見えた。
名状しがたい感覚が、とんでもない早いスピードで自分を過ぎてゆく。
俺は、どこに立っているのか?
俺を置き去りにして、どっかへいっちまう、あの現象たちは何なんだ?
その時、気づいた。
奴らが過ぎ去るのではない。
移動するのは、こっちの方だ。
渡っていくのは、こっちの方なんだ。
奴らの隣を過ぎて、想像しがたい速度で、明確の目的地へ向かっているのは、俺の方だ。
見える全て、聞こえる全てが、俺には圧倒的だった。
まるで、ブラックホールの隣で立っている気分になった。
その歪んだ映像は、直視するにはあまりにも恐ろしかった。
だから、俺は目を瞑った。
◇ ◇ ◇
「ロゴス? どした?」
そんな、軽々しい声が聞こえた。
「────えっ」
俺は目を開けた。
俺は、アパートの中にいる。
キッチンのテーブルの前の椅子に、腰掛けている。
時計の針は、午後10時半を指している。
テーブル越しには、彼女がいた。
ソルダネラ・フォリアモメンタネア。
瞬きの乙女。
俺が守るべき、一つの存在。
彼女は、息をしている。
その瞳は、深い生命の色を帯びている。
フォリアは、生きている。
目の前、フォリアは俺を凝視している。
目がいつもより大きくなっており、俺が何かおかしいって思っているらしい。
かわいらしい桃色系のパジャマを着て。
長い金髪を、丸く結い上げて。
「マジでどした? ちょーし悪いかんじ? 今日はおしまいして、もう寝よっか?」
ちょっと心配そうに、彼女は首を傾げる。
テーブルの上には、2人分のお茶が、マグカップの中で湯を上げている。
彼女好みのもので、カフェインがなくて深夜でも飲んでもいいという。
その隣には、大きいポスターが二枚置かれている。
カフェから見上げた、あの赤毛少女の描かれた、『キュリアルもどき』のポスターだ。
「もしかしてロゴス……」
フォリアは少し申し訳そうに言う。
「まさか、うちの演劇ヲタぶりにドン引きした!? いやーでもこの脚本家さんマジで好きなんだし。そんな顔することはないじゃん」
ちょっと拗ねた顔になる。
「でも、ロゴスもかなり面白かったっしょ? 帰り道ではずっと演出とかマジヤバかったって言ってたじゃん。そそ、あの主人公ちゃんがいきなり精霊たちと飛び上がるシーンとか──」
俺は、彼女が何を言っているのか、分からなかった。
ただ、立ち上がった。
「え? ロゴス?」
彼女の隣に行く。
そして、抱きしめる。
「ちょ、ちょっと、ロゴス?!」
彼女が何を言おうが、関係ないと思った。
独りよがりだが、それでも良かったんだ。
「……っ、よ、よかった、よかった、よかった」
俺は、泣いていた。
「えっ、ロゴス……?」
「ありがとう、ありがとう、あり、がと、神さま、神さま。もう二度と、もうこれ以上は、絶対」
フォリアは、ただじっとしているだけだった。
「……もう、二度と、絶対。俺が悪かった。俺が、全部。二度と、もう、にどと。ごめん、フォリア、ごめん、ごめん、ありがと、フォリア、ごめん」
「……ロゴス、何か、あったの?」
しかし、答えなかった。
答えられなかった。
ただ、彼女の存在がありがたくて、たまらなかった。
何も、言葉にする余裕なんか、なかったのだ。
「……」
俺の背中を、彼女が優しく手で撫でてくれるのを感じた。
その温もりが、嬉しかった。
☆
──ああ、俺は、この瞬間、知ったのだ。
この物語は、俺が無双するものでも、俺が青春の主役たちを観察するものでもない。
ただ、俺が守るべきものを守らないといけない、
そういう物語なのだ。
俺は、俺の役目を知った。
◇ ◇ ◇
これからが本番ですね。
よろしくお願いします!




