告白
《あらすじ》
死後、晴野言は異世界へ行かされた。
異世界で彼は瞬きの乙女、ソルダネラ・フォリアモメンタネアと同棲することになった。
しかし、言はある日を境に異世界暮らしが決して平和なものでないと分かった。
彼はソルダネラを狙う脅威に気づき、彼女を守ると決めた。
絶望を味わいながらも、言はどうにか五月の騒ぎを乗り越えることができた。
六月に入り、言は一人下校する途中、潰されかけたゴキブリの卵塊を見つけ、中の一匹を助けてくれた。
救われたゴキブリの赤ちゃんは下水道の中に女神アフロディテの受肉を目撃する。
女神の思惑により、ゴキブリは彼女の泥を受け、上位存在である泥鬼と化す。
美しい少女の形を得たゴキブリはルィーゼと名乗り、言に接近した。
しかし泥鬼への進化は相応する代価を要した。
泥鬼という存在の本質を規定する渇きを満たすために、ルィーゼは人間を襲わないと駄目だったのだ。
頭では拒もうとしてもそれを受け容れる以外の選択肢がなかったルィーゼは、得られた新しい命にも喜べず、ただ煩悶するばかりだった。
一方、言はルィーゼが怪物であるかも知れないという報せに衝撃を受ける。
周りから泥鬼討伐への協力を強いられた彼は、嫌々ながらも承諾した。
それぞれの苦悩を秘めた言とルィーゼは今、学園の音楽室にて、再会した。
ピアノの向こうには純白のワンピースを着たピンク髪の少女、ルィーゼが立っている。
彼女は、
「ここに居ると思った」
俺は、
「ここへ来ると思った」
しばらく会話は続かず、俺たちは互いを見つめるだけだった。
薄笑みを湛えた表情とともに。
*
しかし、笑いを見せながらも俺の心臓は激しくなっていた。
俺は自分が左手で拳を握っていることに気づいた。
力を入れすぎた手先は微かに震えている。
「……」
その掌に残された標識をずっと意識しているのだ。
──魔術『賦の分』を使い、今すぐファインオルドへルィーゼの登場を知らせるべきなのか。
そうするのは極めて簡単だ。
たった十二音節──『ついなきわなり めぐらしむ』──それを発すれば終わる。
俺の役目はそれだけで、後は最強の雌天這いがどうにかしてくれるはずだ。
ルィーゼは──きっと、罰されるだろう。
……たぶん、刃刺の奴らが言っていたことははったりではなかった。
彼女は人間の行き場所を紊す害虫として殺処分されるはずだ。
「──」
俺は窓からの逆光がルィーゼとワンピースを裾を透き通って伝わることを見る。
その光は透明すぎて、清涼すぎる。
世界の残酷さとは全く無縁で、血なまぐさい事件とも隔たりすぎている色合いだ。
あんな彼女が──
「……なあ、ルィーゼ」
俺は彼女を呼ぶ。
「なに?」
「奴らの話を聞いた。──本当に、お前がそんなことをしたのか」
「……」
曖昧すぎる言葉選びだった。
でも、ちゃんと伝達されたことを疑わなかった。
ルィーゼの表情から笑みが消える。
エメラルドの瞳が少し色替えしたように見えたのは、心なしか。
「……うん」
穏やかな声でそう答えてくれる。
──しかし俺にもたらした効果は、どんな砲声よりも強かった。
「──はっ、っ」
苦しい顔になって、ピアノの側面に凭れ掛かる。
そうでもしなかったら、よろめいて思わずひざまずいたかも知れない。
「お前は──ほんとに、泥鬼なんだな」
その確認に何の意味があるというのか。
今更彼女が『違う』とでも言ってくれてほしいのか。
知らない。
問わずにはいられなかっただけだ。
「……」
今度は声を出して肯定しない。
ただ小さく頷いただけだ。
「……お前が、イザベラとエドガーたちを」
「うん、食ったよ」
以前よりも少しだけ興奮が垣間見える声で、言う。
「彼らだけではない。──何日の間、アタシは数え切れない人を殺して、噛みちぎって、血を吸って、貪った。
……ははっ、なにをそんなに死にそうな顔になっちゃってるの? ロゴスってば、へん」
そんなことを言うルィーゼの顔の上には奇妙な笑いが湛えられている。
「ねえ、昨日ロゴスがアタシに言ってくれたこと、覚えてるよね?」
ルィーゼはとても気軽そうな動作で何歩かを近付いた。
はたはたする裾と髪の毛は、まるで草叢の中の虫の羽ばたきみたいに優雅に動く。
それに目を注いだとき、俺の左手は確かに何度も繰り返してビクついた。
掌に描かれた標識の感触がやけに突出したように感じられる。
──その十二文字を、発するんだ。
早鐘を打つ心臓が俺をしきりに促す。
──天這いを呼んで、この狂った異常者を誅罰するんだ。
──二度とお前に近づけないように、抑止するんだ。
「……っ」
しかし、敢えてそれを抑えた。
拳に一層力を入れて、恐怖を噛み殺した。
俺の方からもピアノの前に出て、彼女のところへ何歩か近付いた。
ルィーゼは微笑みながら、
「キミは、アタシがキミと似ていると言ったよね。そしてアタシたちはもう、友人になっていると言ってくれた」
──そう言えば、右の方のポケットに装填された『放出機』を入れたままだ。
来る前に状態を見るほうがよかったのかな。
……それでもたぶん、機能には異常がないはずだ。
いつでも出して撃てると思う。
「そして、たとえアタシの本当の姿がどんなものであれ、少なくともキミはアタシと友だちになりたいと思うはずだ、と……キミはそう言ってくれた」
俺の可能力特性の『反転』がかなりの威力を出せることは既に知っている。
しかし、それは果たして泥鬼にも通用するのだろうか。
まだまだ俺は泥鬼という化け物のことを良く知らない。
もしかしたら、『特撹弾』の力でも抑制しきれない超越的な存在な可能性だってある。
だとしたら、今『放出機』を使うプランは下策ということになるだろう。
「……人を食するのがアタシの『本当』らしいよ。そして、たぶん、今のように普通の少女の形をしている方が、アタシの『偽り』なんだ」
風が窓から吹いて、ルィーゼの髪をさすり、こっちにまで来る。
だから彼女の香りが伝わってきた。
悲しそうな笑みを浮かべたルィーゼは、
「ねえ、今のロゴスは、アタシの『本当』を知ったでしょ? どう? 相変わらずロゴスはアタシの友だちになりたいと思う?」
「……」
俺はなにも答えなかった。
でも相手の怪物は話を続けず、俺の発言を待っているようである。
そのエメラルド色の目を光らせて、こっちへ視線を注いでいる。
瞳が湛える色彩に変化はないはずだが、なぜこうも不気味に見えるだろうか。
しばらく、沈黙だけが音楽室を支配していた。
……そろそろ、潮時か?
そもそも、俺は今までなにを待っていたのか?
ルィーゼを確認した瞬間に『賦の分』の十二文字を詠唱するべきではなかったのか?
俺はいったい、なにを考えているのか。
しかし、
「──なあ、ルィーゼ。お前、今すぐここから逃げるんだ」
そんなことを言い出してしまった。
*
口から出された俺の声はなぜかとてもきっぱりとしていた。
不安定に揺れ動きながら催促する内側の声とは程違い。
「──」
それを聞いたルィーゼの目がさらに大きくなるのが見える。
構わず、俺の声は喋り続ける。
「……奴ら、刃刺の奴らは、お前を探して殺そうとしているんだよ。イリスバラに居ても、人々を傷つけて、お前自身も殺されるハメになる」
そこに来て、語りには若干の躊躇が生じた。
「……だったら今からここを発って、どこか遠くまで行くほうがいい」
でも言うべきことをきっちり言えた。
それを聞かされた方はどこか呆けた顔になり、
「……どこへ? アタシはどこへ逃げればいい?」
宙を舞う視線とともに、俺に問うのである。
「アタシは強く縛り付けられている。手綱を握る存在から逃げて、自由になることなど、アタシにはできない。できっこないんだ」
「とにかく、せめてここはダメなんだ……!」
俺はやや焦る態度になりながら言う。
「お前は奴らの言ってることを聞いてなかったからそんなにノンビリできるんだよ。刃刺の奴らは単にお前を捕まえようとしているんじゃない。確実に殺しにかかろうとしてるんだ。ここだっていつ奴らからの目が届くか知らない」
「……」
ルィーゼは視線を伏せて、しんなりとうなだれる。
いつの間にか窓辺の方へ後ずさっている。
午後になったばかりの太陽から漏れた日が無闇に注がれて、窓越しに這い寄ってくる。
焦げ付く俺の心とは大違いで、平穏に六月の温かさを演じている。
まるで俺たちの切迫した気持ちなど、取るに足りないと言わんばかりに。
それが俺は気にいらなくてしょうがなかった。
「ルィーゼ……」
俺は沈黙に耐えず、促すように彼女の名前を呼んだ。
しかし、それでも状況は変わらない。
彼女はただ窓辺に手を凭れて、外の景色を眺めている。
そとからの空気の流れが彼女のワンピースの襞と裾のあたりをさらさらとなびかせる。
真っ白な頬を撫でつけるピンクの髪がやけに鮮明な色の対照を成して、それに目を奪われてしまう。
だが、いつまでも眺めているわけにはいかないのだ。
「……ルィーゼ!」
「──いやだ!」
はっきりと、そう答えた。
彼女の表情には子供じみた拒絶と苛立ちが歴々としている。
息が荒くなり、唇の先がすこし震える。
上気した頬は髪の毛の色にすこし近付いていた。
ルィーゼは、
「逃げることなど、できないよ。アタシは一人じゃ絶対生き延びれない。きっとよくない結末になるはずだよ」
「そんなの、分からねぇだろ」
「ううん、わかるよ。アタシにはわかる」
彼女の顔には脱力した笑顔が浮かんでいる。
悲しそうにも見え、また腹立たしさを隠そうとしているようにも見える。
「……はぁ」
ルィーゼの頑とした拒みが理解できなくて、俺は悔しさからの溜息を吐いた。
もう俺としてはなせるすべがないだろうか。
結局、最初からルィーゼを逝かせることが俺としては最善だったろうか。
しかし、会話はまだ途絶えなかった。
「ロゴス、アタシに逃げてほしいの?」
彼女の視線は再度俺の方へ戻っていた。
その対のエメラルドはまるで緑色の炎のように、燃えるような熱気を込めている。
「……ロゴスが一緒に来てくれれば、行くよ」
そんなことを口にする。
「ロゴスが一緒にいてくれると、アタシはどんな困難も乗り切れる。アタシはどんな過酷も耐えぬける。ロゴスがそばにいてくれると、アタシはたとえこの世の果てにでも、地獄の底にでも、行くよ。
……ねえ、アタシと居て」
──彼女は言う。
妙な確信に満ちた顔とともに。
「アタシを導いて。アタシを愛して。愛してるって言って、頬を撫でて。アタシのことを掴んで、キミの存在を感じさせて。アタシの中に、キミの存在を切り刻んで。忘れられないように抱きしめて。アタシを灯して。アタシを生かして。アタシを光らせて。……」
話の途中、彼女の顔は顰められている。
苦痛からか、あるいは興奮からか。
「ロゴス、アタシを──救って」
それがルィーゼの結論だった。
*
「……っ」
俺は苦しくなった。
そして、ひどく混乱してしまった。
「……分かんねぇ」
それが俺の正直な感想だった。
「分かんねぇ。分かんねぇんだよ! 俺には分からねぇって!!」
喚きに近い声を出した。
「お前はなんでそんなに俺に執着するんだよ? お前のことなど、俺は今週あったばっかりだぞ! 俺はお前に何もしてねぇ! 俺は──」
「──アタシに、世界をくれた」
言うルィーゼの顔は恍惚としている。
確かに、他でない俺のことだけを見つめている。
いつの間にか彼女はすぐ正面にまで近付いていた。
美しい顔と、ピンク色の髪と、純白のドレスが描く輪郭に視線が釘付けになってしまった。
「ロゴスはアタシを生かしてくれた。ロゴスはアタシに命をくれた。だからキミはアタシにとって父、兄妹、そして恋人、……そしてこの世界の全て。あるいは、この世界そのもの」
俺はまだまだ理解ができずにいた。
「……ロゴス。実はアタシ、人間じゃないの」
いきなりそんなことを告げる。
「……分かってるよ。泥鬼とかいう存在なんだろ」
「いや、そんな意味じゃない。泥鬼である以前に、アタシは人間じゃないの」
ルィーゼは今更少し不断な言い草になる。
視線を落として次の言葉を慎重に選ぶのが見えた。
「……ロゴス。こないだの下校中に、ある赤ちゃんを助けてくれたことを、覚えているの?」
「……そんな覚えは、ない」
「クスッ、人間の赤ちゃんじゃないよ」
「……だからそんな覚えなど──」
俺は言い淀んだ。
その時、脳裏をよぎる思い出があったからだ。
──半分潰されていた卵の袋。
そこから俺は一匹の虫けらを助けてくれた。
俺の行いによって、あの虫けらの赤ちゃんは生への新たなチャンスを得た。
だから、ある意味、俺は彼女に命をあげたのだ。
彼女に──世界をあげた。
「──お前」
ルィーゼは鼻先が触れる距離に近付いている。
彼女の目尻に涙が光っていることが見える。
「そう。ロゴス。アタシは、ね────」
❖ ❖ ❖
──その時だった。
萌葱色の蛍光の輪なりが、空中で何個もできた。
「──えっ?」
いきなりすぎて、俺たちは対応することを忘れ、ただ呆然とそれを見つめた。
するとそれは、
「──ッッ!!」
瞬時に縮まり、それはルィーゼの体を強く拘束した。
彼女は苦しそうな顔になり、どうにかのたくってそれから逃れようとした。
しかし、無駄だった。
「ルィーゼ、いったい、これは──」
俺は呆気にとられて彼女へ近づこうとする。
だが──
──ズガァン──
そんな轟音とともに、何もかもが塵色と化した。
俺の視野は完全に塞がれ、ただ起こる粉塵から目を守ることがやっとだった。
「こ、これは──!!」
混乱した精神を以てどうにか状況を理解しようと試みたが、力不足だった。
しかたなく、俺はただ目を閉じて、この騒ぎが静まるのを待つことにした。
*
「──」
すこしは周りが鎮静したと思われたころ、
俺は目を開けた。
真っ先に見えた景色は──
大きな甲冑を鎧うた陰鬱な顔つきの男が、ルィーゼの頭を抑えて、彼女の細やかな体を床に伏せている姿だった。
彼女の体には相変わらず輪なりが光っており、それが彼女の身の自由を奪っているらしかった。
「──泥鬼を確保した」
アンベラトは、そう宣言した。




