コラールになれなかったプレリュード
──新しい朝、学園テムプス・ノヴムにて。
学園の雰囲気はあまり良くない。
泥鬼の噂はもう広まっていて、生徒たちの間にも不安が植え込まれている。
どうやら学園側には諸事情を考慮して、今日は午前の授業だけで早めに生徒たちを帰らせるらしい。
「それは、いい報せだったのかな」
一人つぶやいて、教壇の方を眺める。
そこには誰もいない。
いつも通りなら、ファインオルド先生の授業がある時間なのだが、今彼女は不在中なのだ。
他の教員からの説明によると彼女は重大な呼びかけによって、南のある地域におもむくことになったという。
その詳細は言ってくれなかったが、たぶん泥鬼の件と関連があると思う。
しかし俺としては正直、いくら彼女が強いとはいえ、学園の教師の人をなぜ遠くの任務などに行かせるのかが理解できなかった。
そしたら、俺の疑問に気づいたようにクリスの奴が説明してくれた。
『先生はイリスバラだけでなく、全エイギヴェル国から名声の高い英雄だからね。南の地域の人たちは彼女が来てくれるだけで何もかも解決された気分になれるんだ。たぶん、あっちのお偉いさんからの頼みがイリスバラに届いて、守護卿あたりが彼女をちょっとだけ貸したんだと思う』
それを聞いた俺はただ漠然と、先生も大変だなあ、と思っただけだ。
しかし、最も俺を不安にさせる考えは彼女が施した魔術──『賦の分』に関してだ。
ファインオルド先生が遠くへ行ってしまったら、この魔術のことはどうなるのだろうか。
何も確実なことなどなかった。
そもそも『賦の分』の件は俺と彼女だけが知っているはずで、気軽に他の人にそれについて問うことさえ億劫だった。
完全に一人になった俺は、心もとなさをどうにか落ち着かせようとした。
だから、あることを心の中だけで繰り返して言った。
「あの人は、ファインオルド・シューランペだ」
ファインオルド・シューランペ。最強の雌天這い。
いくら遠くへ居ても、困った時にはすぐにその大きな翼で風を切って、俺にまで駆けつけてくるはずだ。
無謀だとわかっていても、俺は彼女に無限の信頼を託すことにしたのである。
❖ ❖ ❖
さて、午前の授業が終わった。
すると、ネラとルッセルさんの方から俺の机に近付く。
それは初めての出来ことのような気がする。
ネラは俺を見下ろしながら、
「ほら、なにぼーっとしてんの。はやく帰らないとダメだし、立ち上がって?」
その顔は珍しくも真摯に何かを案じている様子だ。
ネラの言葉を聞いたルッセルさんの方からも尖ったエルフ耳をちょっとチョンチョンとさせている。
……もしかして、あれは同意のジェスチャーなのだろうか。
しかし、
「……いや、俺はちょっと用事があって、な」
そんなことを言いながらゆっくりと起き上がった。
「悪いけど、二人は先に帰ってくれ」
「ハア?」
予想通りだ。
ネラは驚いた顔になり、こっちを瞠目する。
「ロゴス、何いってんの! 今は一人でうろちょろしていいときじゃないんだよ! そもそも誰もいない学園で一人なにしようとすんの──」
「──ソルダネラ」
俺はいつもより重たい口調で彼女の名前を口にする。
「頼む。これだけは本当に引けないことなんだ。……用が済んだら必ず戻っていくから」
「……」
俺の断りにネラは寂しい顔になる。
昨日の夜、グレイギルに関する質問を俺が躱したときにも同じ顔になっていた。
ネラは、
「約束、してくれる?」
「──」
正直、それにすぐ頷けなかった。
俺はすでにネラと約束を交わして、それを破ったのだ。
俺はひどい臆病者だ。
同じ結果、同じ過ちに至ることを恐れている。
だから俺は、破る可能性が1%でもある約束なら、できるだけ交わしたくないと思う。
しかし──そんな約束がこの世のどこにあるというのか。
世界は決して白黒にはなれない。
完璧もなければ、完全なゼロも存在しない。
常に曖昧なのが、この世の常なのだ。
「……ああ、約束する」
俺は頷いた。
弱々しい声音で、視線を避けながら。
「……ん、わかった」
そういうネラの声音はとてもおだやかだ。
「……うち、ロゴスのこと、信じてるからね?」
その言葉に、心に針が刺された気分になる。
俺なんか信じない方が絶対いい──そう言いたかった。
でもその考えは口にまで至らず、俺は緘黙するだけだ。
視線を下ろしているので確認できないが、どうやらネラは笑っているらしかった。
彼女の声に優しい笑みの色が湛えられていたから、それがわかる。
「いくら不安でも、ロゴスの行くとこに、うちのサインも一緒にいくから……」
ネラが何を言っているのかが分かる。
俺の常備品『否応移し』の上に刻まれた彼女の赤紫色の稟のことだ。
俺はやっと顔を上げて彼女を見る。
「やっとこっち見るんだぁ」
にんまりと笑いながら俺を見返す。
それと面して、どうもこっちも笑わずにはいられない。
「……ネラ、ほんとに、ありがとうな」
「ん? どした? いきなり感謝したりして」
その眩しい顔に向かって、なにも答えなど言えなかった。
詭弁なら呟けたかも知れない。
でも、その眩しさに向かってまやかしみたいな戯言や偽りなど絶対言えない。
だからこそ、しばらくは微小のまま彼女を見つめるだけだった。
せめて微笑みは偽物じゃないと、胸を張って言えるんだから。
ルッセルさんの方は、そんな俺たちにずっと不思議そうに目をやっていた。
❖ ❖ ❖
その後、俺がおもむいたのは──音楽室だった。
ドアを開いては入る。
誰もなかった。
空間を占めているのは古い木質から伝わる匂いだけだ。
「……」
でも、彼女はここに来ると思う。
そう思う理由を名状することなどできない。
敢えて成文するとしたら、直感だとしか言えない。
俺は多少乱暴な態度で、ピアノ椅子を引いた。
そこに腰かけて、カバーを開ける。
なんとなく演奏を始める。
まるで最初から弾く曲が決まっていたように。
──フランクの『プレリュード、コラールとフーガ』。
……俺が曲の全貌を覚えていないのは、今更言うまでもないだろう。
いつもそうであったように、即興でごまかすロゴスヴァージョンだ。
俺の気分が荒れているせいだったろうか。
疑う余地もなく、本来の曲よりもずっと荒々しい感じになっていた。
*
演奏は、いよいよ『プレリュード』から『コラール』へ移ろうとした。
フェルマータに引く音とともに、曲はロ短調からハ短調へ転調して、コラールが始めようとする。
しかし──
決定的なノートを押す直前、
「──」
指が止まり、心臓も止まった。
俺は急いで起き上がる。
おかげでペダルからも足が離れて、続いていた振動も静まり、音は続かなくなる。
しかしどうでもよかった。
窓辺に立っている者がいるのを確認したからだ。
*
──ルィーゼ・プロチェラだった。
彼女は純白のワンピースを着ている。
手を背中に隠して、ちょっと恥ずかしそうに、やましそうに、視線を漂わせていた。
やがて口を開く。
「……ロゴス、今日も、会えたね」
そう、小さな声音でいうのである。




