渇いたココを、潤して
黒い鳥が目的地に近付いた頃、雨は上がり、すでに東の方からはしののめが見えてきていた。
彼女は高度を下げて、地上の方へ接近する。
その先に見えるのは緑の覆われた平原の真ん中の小さな村である。
一見とても平和そうで、酷な騒ぎなどとは全く無縁の地に見える場所だ。
しかしおかしいのは人気が全然ないということである。
いくら早朝とは言え、農地で働く人ならすでに出歩いてもおかしくない時刻のはずだ。
でも村中はただ静まり返って、動くものは風になびく草の群れしかない。
「──」
鳥はしばらく空中で旋回しながら、下の方を見回していた。
しかしそれも長引かない。
彼女はやがて一点の目的を決めたらしく、降下してさらに地上に近付く。
その羽ばたきが向かう先は──ある大きな倉庫が建っている。
*
倉庫の屋根近くには、かなり大きい窓が設けられている。
鳥はその窓辺に着いた。
「──」
そして、まだ暗い内部を覗く。
中には赤い液体が溜まりを成していた。
血液に違いない。
周りに広がった血潮の根源は倉庫の中央にある。
それは、山積みになった肉の塊──そこから血が絶えずに流れ出ているのだ。
死体とも呼べない肉塊は汚く貪られた痕が見られる。
間違いなく、何かの生き物によって掻き集められ、餌食にされたのだ。
「──ふふっ、どうやら昨夜もずいぶん楽しめたようですね」
窓辺の下から艶めかしい女の声が聞こえた。
見ると、そこに黒い鳥の姿はもうない。
代りに、窓のすぐ下の地面に、華奢な体つきの女性が佇立している。
その目元は確かに慈しみ深い笑いを湛えているが、どうも描かれた全体の輪郭は慈母とは程遠い。
それは何か、恐ろしく超越した存在の本質を仄かに兆していた。
──美の女神、アフロディテである。
女神は話を継いだ。
「食事は気に入ったでしょうか? 私のかわいい娘よ」
声が向けられたのは倉庫の中、壁の側面へだ。
そこに座り、壁に凭れたまま脱力している陰がいる。
それは裸体の少女である。
体中に血を浴びていて、真っ白な肌と強烈なコントラストをなす。
しかし、少女は話しかけられたのに、何も返事をしない。
「あら、まだ眠っているのですか? 寝坊な子ですね」
アフロディテはひらりとした歩みで扉まで行く。
そして、一気にそれを押し開けた。
東向きになっていたので、登ったばかりの旭が正面から差し、壁の方まで届く。
「──ッ」
少女の瞳にまで伝わって、エメラルド色の目に明かりを点した。
するとやっと全貌が見えてくる。
──ルィーゼ・プロチェラである。
「……おはよう、かあさん」
元気なくそんな挨拶の言葉を吐く。
しかし、その響きには何も熱がこもっていない。
それは彼女の瞳も同じで、前には好奇心に満ちてエメラルド色を輝かせたそれは、もう生命というのを見つけることが出来なくなっていた。
腐った水槽の中の色を帯びるその瞳は旭を受け留めてはいるものの、命を動かす原動力が完全に欠けている。
つまり、ルィーゼは生の明かりから遠かった。
*
ルィーゼはやっと緩やかな動作で起き上がる。
「喉、渇いた……」
つぶやいて、彼女は肉塊からの血で溜まりができたところまで歩いて来る。
つくばっては、口元を地面につける。
そして、それを吸い始めた。
「──」
血液が彼女の口を経由し、喉に入るのが見える。
まるで甘酒を嘗める妖精のように、彼女はしばらくその行いを繰り返す。
愛おしそうな視線でそれを見下ろす美の女神は、
「ふふ、その渇仰は貴女がとても健気だという証です。どうやら、襲撃の備えはできているみたいですね」
終止符がつくのとともに、ルィーゼは血溜まりから頭を上げる。
「……ねえ、かあさん」
「はい?」
「ほんとに、やらないとダメなの? あの、人の街を襲うこと」
「もちろんですよ」
何の迷いもない即答である。
満面の笑みとともに、アフロディテは話を継ぐ。
「私の願いは極めて単純──この世界全てを私色、美の色で塗りつぶすこと。そのために一番の障害になり得るのが人間の勢力です。彼らは微弱でありながらも計り知れない潜在性を持つ。だから彼らの要である街をことごとく破壊する必要がある」
言いながら、女神は狂った愛情が込められた視線をピンク色の髪の裸体に注ぐ。
「そして私の泥と、泥を浴びた私の子供たちは皆渾て私の起し者──貴女には、私がこの戦争に勝つことを助ける義務があるのです」
既に起き上がったルィーゼは項垂れていた。
「……」
おかげで顔面が太陽から隠されて、深い陰が差す。
ルィーゼは無言を貫くので、またしても女神の方から話を続ける。
「受肉して、貴重なる泥鬼を得られた真っ先には、やはりあの菖蒲の都を襲いたかったのですが……彼を守りたいという貴女の頼みがあったから、海峡の向こう、大陸の大都市、キュリアルとその東の諸国の方を優先することにしたのではないですか」
途中、アフロディテはルィーゼの隣に接近している。
女神の小さな手がルィーゼの肩に置かれ、見つめる赤い視線はルィーゼの顔に注がれる。
美の女神はとても華奢で小柄な体をしているので、頭がルィーゼの胸元あたりに届くくらいだ。
だからその視線は自然と見上げる形になる。
「大丈夫です。私たち超越者の時計は人間のそれよりずっとゆっくりと進む……。大陸と東の地を全部泥で覆うにはたぶん、何世紀もかかるはずですよ。だからイリスバラの人間たちは、これからも長い間、平和を享受することができるでしょう。だから彼のことも、心配する必要はないのです。いつかこの地へ帰らざるを得なくなるのですが、その頃には彼は既に幸せな生涯を終えているはずです。
……もちろん、人間同士の争いで滅ぼされない前提の上のことですが」
そこまで言った女神はフフッと笑い、ルィーゼの口元に視線を向ける。
舐めきれていない血液が残され、汚く塗られていた。
「いけない子。口元をこんなに汚してしまって……」
アフロディテはつま先で立ち、その小さな頭をルィーゼの顔に近づける。
それを見た少女の方は避けようとした。
しかし、
「ジッとしていて。かあさんがきれいにしてあげます……」
女神の両手がルィーゼの顔を固定させた。
これでもう、少女の方は逃げることのできない。
そして──かわいらしい唇がルィーゼの口にとどいた。
「──」
しばらく、湿った音だけが倉庫を満たしていた。
*
やっとアフロディテが離れた。
その頃、すでに太陽は東の地平線からかなり遠のいていた。
女神は扉の方へ向かう。
そこの敷居近くに凭れた彼女は遠くを見た。
日が登るその方向に広い大陸がある。
コンヴァージュ国を始めとして、デクステラエ帝国、南の聖居、そして東方の国々がそこにある。
その全てが泥で覆われる日も、そう遠くはないのだ。
「ふふっ」
アフロディテはその光景が触れるように近くに感じられて、笑わずにはいられなかった。
「見えていますか? 私の兄弟、姉妹」
彼女は太陽に向かってそう言った。
「貴方たちが追放した美の女神、アフロディテが帰って来ました。今度こそ貴方たちが愛でていたこの世界を全部食らいつくすのです。その後、私の泥は貴方たちにまで届くでしょう。アポロン、ニケ、ヤヌス、……そして、ヘファイストス、貴方まで、全部です」
それを語る彼女の口ぶりには今まで見れなかった興奮が込められていた。
そこまで言ったあと、彼女はしばらく何も言わず、雨上がりの朝の気持ちよさを満喫しているように見えた。
しかし、
「……あ、そうだ」
アフロディテは振り向いて、呆然と立っているルィーゼの方を見た。
「どうやらうまくやっているようでしたよ、あの少年──ロゴスは」
ロゴス。
その響きが耳に伝わった瞬時、ルィーゼの瞳は再び麗しいエメラルドと化した。
その変化を母親が見逃せるわけがない。
アフロディテは話を継ぐ。
「彼はあの少女、『瞬きの乙女』ととても深い間柄になっているようです。このままイリスバラが侵略されず、火種が大陸の方へ移るのなら……彼らはたぶん、二人で幸せになるでしょう」
女神は自分の語りの効果を最初から知っていた。
でも、それがもたらされた途端に現れるルィーゼの変容を一部分でも見逃せまいとジックリ観察するのである。
「……」
ルィーゼはさっきよりもずっと暗い顔になり、ただ瞳だけが煌めいている。
「それが貴女が望んだ結果でしょう? ……私の自慢の娘、気高く美しい──泥の姫よ」
しかし、ピンク色の髪の少女は釈然としない顔のまま。
アフロディテは当然にもその懶さの原因をわかっている。
「もうすぐで、私たちは海峡を渡り、大陸の方へ向かいます」
その告げ自体はルィーゼにとっても新しいものではなかった。
しかし、女神は話を継ぐ。
「……しかし今日の内なら、まだ少しは時間があるかも知れません」
それを聞いた瞬間、少女は顔を上げて母親の方を嘱目した。
その視線には以前まではなかったものが盈満になっている。
──希望である。
アフロディテは娘の面影を明敏に目している。
女神は、
「イリスバラにおもむいて、別離の挨拶でもしてきたらどうでうか? これからは、もう永遠に会えないかも知れませんよ」
ルイーゼの表情は複雑だ。
永遠の別離ということは苦しい。
でも、それでもしないと、これからは完全に別々になってしまう。
もう一度の逢瀬の許諾が、今下されたのだ。
──それを掴めず遠くへ行ってしまうだなんて、ありえない。
「……ありがと、かあさん」
ルィーゼは小さく感謝を表する。
と、
「──」
裸体の少女は跳ね上がる。
その力は強すぎて、倉庫の屋根をそのまま貫いて壊し、朝の晴天の方へ湧き上がった。
「……ふふっ」
それを微笑ましそうに見つめる、一人の女神。
「その渇仰を好きなだけ満たしなさい。それが生き物の命の理由です。その真理を、強かに示すのですよ」
彼女は北の方へ向かった娘の跡を目で追っている。
そして最後に、一つだけ言い足した。
「──さて、ヘファイストスの起し人は、彼女と面して、これからどんな面白い景色を見せてくれるのでしょうか」
*
裸体の少女はバッタのように何度も跳ね上がる。
そのたびに地上には深い跡が付けられて、草木は倒されてしまう。
しかし、彼女は一向に構わない。
歓喜の色を顔に湛えながら、ルィーゼがしきりに呟く響きは、
「ロゴス、ロゴス、ロゴス、ロゴス、ロゴス……!!!」
ただそれだけ。
その渇望が求める、唯一の対象。
彼女の世界を成り立てる、唯一の元素。
彼女の全てが向かおうとする、唯一の目的。
泥鬼は叫ぶ。
自分の胸と、その下の心臓を引っ裂かむばかりに触りながら──
「────渇いたココを、潤して!!!!」




