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天這いを呼びつける、十二の文字



 そのあともネラはかなり長い間俺のアパートに居座ったままだった。

 しかし、くだらないことをたくさん喋る途中、俺はずっと彼女からの意味深な視線を感じていた。


 鈍感だのなんだの、さんざん言われている俺にもその意味が分かる。

 彼女はきっと、俺がグレイギルの消息を聞いて走って行ったわけが聞きたかったのだろう。

 そもそも俺のところに来た理由もそれにあったと思う。


 そろそろネラも戻らないと駄目な頃かな、と思われた時、


「あのね、ロゴス──」


 そう、いつものネラとは違い、ひどく臆病な言い方で話を始めようとするのを見た。

 しかし、


「──もうお前も帰らなきゃだろ。夜遅いし、もうちょっとでルッセルさんから心配されそうだし」


 俺はそんな風に、素早く話を途切れさせた。


 少し寂しい表情になった彼女は、


「……うん」


 小さく頷くのである。



☆



「はあ……」


 ネラを見送り、俺は一人残された。

 薄暗いリビングのソファーに適当に横になる。


 ソファーの前の低いテーブルには『否応移し』が置かれている。

 視線をそっちへ向けると、やっぱり目立つ赤紫色の文字が輝く。

 ネラのサイン、つまり彼女の標識なのだ。


 聞かされた、ふざけた言葉を思い出す。


 ──うちの体のどっかに、ロゴスのアト、残してみる?


「……あのバカ」


 再び頭に熱のこもることを意識しながら、片腕で目元を隠す。


 本当にいい加減にして欲しい。

 ネラはただからかってるだけだと知っていても、彼女への思いを自覚しているこっちとしては拷問に他ならないのだ。


 その目線、手先、表情、全て。

 見るたび、思い出すたび、苦しくなるほど胸が引き締まってしまうのだ。


 こんな状況の真っ只中というのに、そのときめきは同じだ。

 だからこそ俺は、自分の彼女への感情が本物だと確信できる。

 それは奇妙にも、俺をすこし安心させるのである。



☆



 呆然と俺はネラの表現を顧みてみた。


「『アトを残す』、か」


 実は、彼女の方ではなく、俺の体の上に既に一つ、ア(・)ト(・)が残されている。


「──」


 俺は指で左手の掌のア(・)ト(・)をなぞってみた。


 やっぱり違和感がある。

 その感覚を描写するなら、過去に深く斬られたが今には他の肌と同化してしまい、微細な触り心地だけでしか探れない古傷みたいだと言えばいいだろうか。

 ネラのサインとは違い輝いたりはしないし、ただ見るだけでは認めることなどできない。

 それでもその上にはたしかに標識が存在すると分かる。


 標識の正体は──天這いの魔術だ。


 刃刺本部の前で、ファインオルド先生は俺に言った。


『君が同意してくれれば、今から私は君に魔術を施すわ。それは、分かりやすく説明すると、君の位置を追跡できて、君からの合図があれば私からそれを知ることができるものなの』


 しばらくの苦心の後──俺はその提案に同意したのである。


 その魔術は『賦(ふ)の分(わけ)』という名前で、機能は極めて簡単だ。

 つまり、術者は被術者の方に標識を残し、被術者からはそれから特定の文をはっきり唱えることにより術者へ信号を送ることができる。そして術者の方からは詠唱がされた当時の被術者の位置を特定できて、そこまで駆けつけてくることが可能という。


 俺が唱えるべき文は合わせて十二文字──『ついなきわなり めぐらしむ』。


 ……それは果たして何の意味を持つのだろうか。

 もしや深い含蓄のある文句なのだろうか。


 そんなの、知らない。

 こんな状況じゃなければ考察してみたかも知れないが、今はそんなことを思っている場合ではない。

 ただその響きを忘れまいと確実に心の中に刻銘しただけだ。



☆



 俺に『賦の分』を施したファインオルドの目論見はつまり、次の通りだった。

 ルィーゼ(だと思っていた者)が俺に近づいた時、俺は十二文字を詠唱してファインオルドへ信号を送る。

 すると先生からはその情報を受け取り、俺のところまで早急に接近し、それからは彼女がルィーゼを制するということである。


「……ほんとに、そんなにうまく行くのかな」


 真っ先に思い浮かべることは、そんな疑念である。

 あまりにも単純すぎる計画だったので、そんなものでは駄目じゃないか、という漠然とした心配を覚えてしまうのだ。


 そして、それの次に頭の底から出てくるものこそが──


「ルィーゼ」


 彼女のことだ。


「あいつらが言ってたこと、ほんとなのか? ほんとに、お前は泥鬼なにか? ほんとにお前が、──イザベラとエドガーを、食いちぎったのか」


 天井に向かって、聞くもののいない言葉を呟く。


 刃刺の本部にて、あのクズどもの話を聞いている間、心の中ではそれを否定したくて必死になっていた。

 でも、込み上げてくるものは俺の望みとは真逆の方を指していた。


 ……今日の音楽室でルィーゼが言っていたことを思い出す。

 

 ──アタシの本当の姿を見ても、友人でいてくれるの?


 それに俺は何かくだらない詭弁を言っていた。

 その詭弁を聞いて少しは安心したような顔になれた彼女のことを思い出す。


「……いっそ、黙ってりゃよかった」


 今まで何度も同じ後悔をやってきた。

 でもその重みが今のようにひどかったことは、なかったと思う。


 ──なんで、アタシは生きてるの? なんでこんなことにならなきゃダメなの?


 俺は顔を顰めて、眉間を両手で抑えながら、


「そんなの、俺の方が知りたいんだよ」


 言った。


 それが俺の本音だったのだ。



☆



「……ん?」


 ふと、俺は何かを感じ取り、ソファーから起き上がった。


 リビングには外の景色が眺められる大きな窓がある。

 一瞬だけど、そこからなにか気配らしいことを感じたような。


 窓に近付いて外部を見た。

 そこには楓に似た樹木が立てられている。

 ブラチアリスの説明によれば、これもただの偽物ということになるだろう。


 とにかく、その木葉たちに隠された、一際太い枝の上。

 先まで何かが立っていたような。


「……」


 しばらく睨んでいた。


 が、結局なにも見つけなかった。


「変な想像でもしたんだろ」


 そういえばさっき刃刺の奴らと出くわす直前、路地の方からも似たような気配を感じていた。


「疲れていたから、かな」


 呟くと、一気に眠気が寄せてくる。


 ……もう夜も遅い。

 早く寝ないとダメみたいだ。


 俺は『否応移し』をリビングに置いたまま、部屋の方におもむいた。





❖   ❖   ❖





「────」


 少年が部屋に入ったことを確認すると、隠れていた黒い鳥が出た。


 その真っ黒な瞳孔に確かに映るのは、向こうのテーブルの上に置かれた野暮な外観の装置。


 大きなノブと、上端の解読できない文字列が目立つ。

 そして──下の方に輝く、他の部分とは似つかわしくないキラキラな『瞬』という一文字と、小さなハート。


「────」


 鳥の視線が下へ向かう。

 そっちの方に、別の陰が潜んでいるのが見えた。

 あれからは鳥を認識していない。そしてその形からして人間に間違いなさそうだ。


 でも、どうやらあれもターゲットはこの黒い鳥と同じらしかった。

 つまり、あの黒髪の少年の住処である。


「────」


 鳥の姿勢が一瞬低くなり、跳躍の準備をしているようになる。

 まさか、少年の居住の方へ突進し窓を壊すつもりなのだろうか。


 しかし、


「────」


 違った。


 鳥が飛び上がった先は、夜空の方だった。


 まだまだ雨が降っている夜空の方へ。


 高く。さらに高く。



*



 黒い鳥はやがて雷のとどろく雲間まで達する。


 しばらく彼(・)女(・)の羽を激しい風と雨粒がしきりに叩く。

 しかし、それも長続きしない。


 ──彼女は何もかも夜の色で晴れた、雲の上まであがったのだ。


 雲の下の喧騒が嘘のように、ここはとても穏やかだ。

 絶え間なく蠢く雲の群れの上部を、空の大きな傷跡から漏れ出る紺色の明かりが照らしている。

 この場所は何もかも現実ばなれしていて、誰かの夢の一場面をそのまま具現化したようだった。


 大きな風の上にのると、鳥の羽ばたきもやっと緩やかになった。

 良い風に乗った。これからは別に力を入れて飛行する必要がない。

 彼女はただその流れに身を任せて、自分の行く先まで運ばれるのを待つだけである。


 ……風は、南の方へ向かっている。



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