赤目の説得
俺たちは刃刺の本部の一階にまで降りてきた。
するとファインオルド先生は、
「ロゴスくん、ごめんなさい」
いきなり謝りの言葉を口にする。
「こんな不愉快な思いをさせてしまって。気持ちのいいことにならないとは予想していたけど、こんな感じまでなるとは思っていなかったわ」
彼女は頭を下げた。
「……やめてください。別に先生はなにも悪くない」
俺はちょっと考え込んだあと、次の言葉を選んだ。
「先生、あいつとは知り合いなんですか?」
「ええ、むかし、ちょっと……」
ファインオルドは顔を上げては、ためらうような態度でしばらく沈黙を貫く。
そして口を開いて、
「……あのね、ロゴス? 彼もなにも最初からあんな感じではなかったのよ?」
『彼』とはたぶんあの陰鬱な顔つきの男、アンベラトのことだろう。
「昔は本当に優しくて、人のために怒ることのできる……そう、今の君のような、純粋な少年だったの」
言ってることが理解できない。
なぜそんなことを俺にいうのか。
そしてたとえそれが事実だとしても、俺には信じることができない。
だって、
「……先生が仰る『昔』のことが、俺にはわかりません。ただ俺はヤツの今を見てるだけだ。そして俺が見るヤツは、ただの人間の屑の他になんでもないです」
決めつけるように、はっきり言った。
「……」
彼女は視線を床の方へ落として、自分の腕を軽く掴んで、ひねった。
その顔はどこかくやしげにも見える。
未だに雨は降り続いている。
*
「ロゴスくん」
ふと呼びかけてきた。
「彼女──プロチェラさんのことは、これからどうするつもり?」
「……」
俺はどう答えたらいいのかを少し考えた。
しかし、なにも聡い返事など思い浮かばない。
だから率直に答えるしかなかった。
「……そんなの、知らないですよ」
俺は眉間に皺を寄せながら言う。
その答えには言い切れない色んなものが湛えられていた。
なによりも大きかったのは、この噎せ返った状態に対して何もできない自分自身への挫折感だったろう。
「……」
こっちを思いやり深い視線で見つめるファインオルドも、俺の複雑な心を少しは感じ取ったと思う。
「あのね、ロゴスくん」
彼女の視線から柔らかい感じが消えて、少し頑固なものが宿った。
「先輩──アンベラトさんの言っていたことの一部は、あながち間違いではないの」
「……『一部』って、どのあたりのことですか」
「私たちがルィーぜだと思っていた彼女を、今から排除するつもりで取り掛からないといけないというところ、かな」
ファインオルドの縦割れの瞳孔がもっと鋭くなった気がした。
「実はね? 私と先輩は昔、似たことを経験した覚えがあるの。……」
暫時の静けさの後、彼女は急に俺の両肩を掴んだ。
細く、細かい指先だ。
その外見からはどうも想像がたい底力を感じる。
「──ロゴスくん。彼女のことは諦めなさい」
そして、穿鑿せんばかりに強烈に赤目を注ぐのである。
彼女と俺の身長はほぼ同じなので、こんな姿勢になると目が自然と会ってしまう。
「人には救いたくても救えないものがあるの。最初から救うことができないようになっている存在が。
……たとえば、君が下水溝にはびこって惨めに生きていく害虫たちを憐れんだとして、彼らに栄光ある生き方を教えることができるの? 美しい生のあり方を学ばせることができるの?」
妙なことを聞いてくる。
そのたとえ話は、あまり好きじゃなかった。
「そんなの、出来ないわよ。泥鬼というのは、いわば、最初から人を殺めるために造られた存在なの。本当に君が彼女のことを助けたいのなら、その品位を保たせたいのなら、一時も早く逝かせて上げるのが最上の選択肢なのよ」
「……」
俺は何も答えなかった。
ただあの赤い目線を避けて、どことでも言えないどこかへ視線をやっていた。
つぶやくように弱い声音で吐いた言葉は、
「──逝かせてあげるって、俺にどうしろってんだよ」
*
しばらくしてファインオルドは俺の肩を掴んでいた手を解く。
「……汚い仕事は、全部大人たちに任せなさい」
俺は彼女を見た。
そこに現れた感情を名状するのは難しい。
綺麗な顔つきは俺を同情するようにも、あるいはただ何かが欲しくてたまらない欲深い人のようにも見えた。
「君が同意してくれれば、今から私は君に魔術を施すわ。それは、分かりやすく説明すると、君の位置を追跡できて、君からの合図があれば私からそれを知ることができるものなの」
ファインオルドは説明を続けたが、俺にもそろそろ彼女の言おうとする全貌が分かってきた。
「彼女が君に見せていた関心を慮れば、これから彼女は必ず君に接触してくると思うわ。そのタイミングに、君は私に合図をしてくれればいいの。その後はただ私たちが処理するわ」
「……」
俺はまだ心を決めずにいた。
すると、
「子供たちを思ってみて」
ファインオルドは俺と視線を合わせようとしながら言う。
「そして、この街のみんなを思ってみた。泥鬼は凶暴な怪物だわ。あれを野放しににていると、犠牲になるはずの人々の数など数え切れないことになるでしょう。その爪先は、ひょっとしたら──君の一番大事な人にまで及ぼかも知れないわよ」
俺はその言葉を耳にして彼女の方を直視した。
雌天這いは話を継ぐ。
「どれほど君が彼女を想っているのか、良く分かるわ」
微かな笑みを浮かばせて言う。
「『乙女』のことを守るのが『少年』の役目なんでしょう? 君はそれを果たせようとしているだけだわ。誰も君を非難できない。さっき先輩はからかってあんなことを言ってたけど、彼だって同じよ。だって、それが君の『最優先事項』だもの」
「……」
「彼女の生きるこの都市を守るためなの。──どうか、正しい選択をして」
それだけ言って、彼女は黙ってしまう。
*
……ふと、思い出す。
巨大なサザエの臆病者から聞かされた忠告。
『お前さんに本当に大事なことが何かを良く考えろ。そして、その一つだけに集中して、命をかけろ』
『その他は、どうせお前さんにはどうしようもできねぇから、捨てるか、無視するかで一貫しろ』
俺にとって『本当に大事な一つ』が何なのかなど、最初から決まっている。
──ソルダネラ・フォリアモメンタネア。
彼女だけが、俺にとってこの世界で最も重要なたった一つのことだ。
……だったら、『その他』はなんなのか。
ネラ以外は全部『その他』なのか?
ネラだけ守れたら、『その他』が全部殺されても構わないのか?
ルィーゼも、どうせ『その他』にすぎないのか?
だからあいつが殺されても俺はなにも動ずる必要がないと言うのか?
彼女を死へ追いやっても平気でいられなくちゃ駄目というのか?
自分が吐いてしまった言葉を思い出す。
『やっぱお前、俺と似てるよな』
『なーんか、俺の前に現れてくれてありがとう……って言うと、おかしいかな』
『これからは二人で一緒に悩んでみようぜ。そしてどっちかが先に答えを分かった日には、片方の人にもそれを教えてくれるんだ。いいと思わねぇか?』
『お前、最初に言ったろ? 俺と友人になりたいって。その願い、すでに叶ってるぜ』
ルィーゼが見せてくれた弱気な一面を思い出す。
ルィーゼが見せてくれた微笑みを思い出す。
『ロゴス。キミは──アタシの本当の姿を見ても、友人でいてくれるの?』
俺は──
いったい、どうしたらいいのか。
*
「先生」
俺は顔を上げた。
そして、ファインオルドへ言う。
「俺は──」




