ヒヤシンスの香り
それからブラチアリスが案内した道はたしかにイリスバラの『裏道』と呼ばれるに相応しい場所だった。
下水道なのか、路地裏なのか、わけの分からない古びた構造物を過ぎていきながら、日光を目にした覚えはわずかにすぎない。
陰の下を歩きながら、俺たちはその隅から眼光と囁きを何度か目にし、耳にした。
それは果たして人間だったのか、あるいはそれ以外のものだったのか。
しかし、それを気にしたのはどうやら俺一人だけだったようだ。
まあ、道案内をする真っ先のブラチアリスがそれらをなんとも思わなかったのは、良しとする。
そしてエドガーとイザベラも貧民街で育ちながらいろいろなことを見てきたと思うから、さておき。
……だったら、あのピンク髪の少女は何なんだろう。
彼女、ルィーゼはまるで軽く散歩にでも出た人のように、なんの戸惑いもなく大きなサザエの後ろに続いたのだ。
だから詰まるところ、その奇妙な光景を目にしてビビったのは俺だけだったのである。
☆
道のまわりから目撃した不気味な眺めはともかく、それは確かに早道だった。
大通り近くから出発してそんなに経たないうちに、俺たちはブラチアリスの住処──シェルズ・ヴィトルに到着した。
そして、一斉に中に入る。
「うっわ、なに、このうさんくさい店?」
それがルィーゼがシェルズ・ヴィトルに入った瞬間に口にした感想だった。
「『店』じゃねぇ! ここは『研究所』なんだよ!」
するとブラチアリスからは既に聞いた覚えのあるツッコみを言う。
しかし、ピンク髪の少女は全然構わず室内を見回るのである。
俺としては二度目の訪問となるので、室内の風景はそんなに珍しくは感じなかった。
中は相変わらず色んなガラクタと書籍が堆くなっていて、ところどころにあやしい物陰を差している。
ただ気になるのは、前回に敷居をまたいだとたん伝わった酸性の薬品臭がなくなっていることだ。
かわりに店中を満たしたのは──その空間には非情に似合わない、花の香りだ。
「……なあ、おっさん。この匂い、なんだ?」
俺の問いに、ブラチアリスの腕一本が室内の一隅を指した。
見るとそこにはかなり大きな木箱があって、中には幾束も為されそうな多い数の花が集められている。
花の種類などあまり詳しくはない。だがあの特徴的外見からして──ヒヤシンスの類なのかも知れないと思う。
間違いなく、強烈な香気はあそこから広がっている。
「凱旋の行列を見たから分かるだろ? 大道のあたりで散らかれたあの花弁をな」
そういえば、空中で散逸する色鮮やかな装飾を見たのを覚える。
ただの色紙だと思ったが、本物の花だったのか。
「イリスバラ側では今日の行事のために造花が多く必要だったらしいが、なんか計画が崩れて分量が足りなかったみたいだ。で、私のところまで調達の依頼がきてだな。市から直々ってのはねぇけど。とにかく、急いで咲かせて運ばせたぞ。あれは売れ残りみたいなもんだ」
「えっ──造花だって?」
それを聞いた俺は驚いて、花の方へ再び目をやる。
香りも、外見も、生きたものに違いなさそうなのに、造花とな。
魔術を使った技術のおかげなのか?
ブラチアリスは俺を怪訝そうな目で見つめながら、
「本物の植物が市内に搬入禁止になったじゃねぇか。なんだ、お前さん、知らなかったのか?」
『本物の植物』の『搬入禁止』。
それを聞いて、思い出すものがある。
──緑色ゾーン。
五月、ネラと一緒に精霊を解放したところ。
彼女は、都市の随所に設けられたゾーンだけがイリスバラで唯一本物の植物が見られるところだと言っていた。
「……でも、なんで?」
今更かも知れないが、強い疑問に打たれる。
なぜ都市内に植物の存在を制限する必要なんかがあるのか。
「なんで植物を禁止したんだよ? そもそも誰が? 王──いや、陛下からのご命令なのか?」
「まあ、あながち間違いではない。だがもっと精密には、彼はただ書かれた書類を読み上げるだけだ。それを成り立てたのは、あの守護卿閣下だぜ。曰く──『イリスバラ全ての生類、人間たるべし。人間たらざるもの、死すべし』ということだ」
「は???」
全く理解が追いつかず、俺は特大のハテナを浮かべる。
「……お前さん、つまりは遠くから来たんだな? イリスバラの事情に明るくねぇってことか」
ブラチアリスは言いながら少し笑う。
「たしかに、それはルバスと友だちになれたのも無理もねぇ。あのガキ、へんてこな輩と付き合うのが好きだからな」
そこでしばらく、沈黙が訪れた。
☆
その時、
「……このニオイ、きらいだなあ」
急にそれを言いだしたのはルィーゼだった。
「え」
唐突かつ予想外だったので、きょとんとした表情で彼女を見る。
ルィーゼは不愉快そうな表情を浮かべて一隅の花々を睨んでいる。
彼女の顰めた眉根には本物の嫌悪が確かに現れていた。
「なんだ、お前さん、アレルギーでも持ってるのか」
「別にそんなんじゃない」
ブラチアリスの質問に彼女は無愛想に応じる。
「ただ……アタシ、花が大嫌いだから」
淡々と言うその言葉から、やはり真心からの本音を感じる。
「……そんなに嫌なら、ここ、屋上あるぞ」
ブラチアリスは彼女に言う。
「しばらく上がっていたらどうだ」
そんな提案をする彼の表情は珍しそうだ。
たしかに、女の子が花をあんなに嫌うのはあんまり見たことがないかも知れない。
「うん、そうするよ。……ロゴスは?」
ルィーゼは俺の方を見ていう。
「ああ、俺はちょっとおっさんと話したいことがあってな。俺もすぐ上がるから、少しだけエドガーたちと遊んでてくれ」
「分かったよ。あんまり遅くならないようにっ!」
明るい表情を取り戻した彼女は両手でそれぞれイザベラとエドガーを引っ張る。
もうすっかり親しくなっていて、まるで長女と弟と妹みたいだ。
ただ、エドガーだけは少し照れくさそうに赤面をしたりする。
……もう思春期なのか? 確かに年頃の男の子にルィーゼはかわいすぎたかもな。
☆
とにかく、三人が屋上へいくと、俺とサザエのおっさんだけが残る。
本題に入る前、俺はずっと気になっていたことを聞くことにした。
「……あの子供たちは誰なんだ?」
「グレイギルの孤児院からの子たちだ。」
おっさんの答えだった。
「孤児院と言っても、子供がどこでなにをするのかあまり気にしない、かなり自由気ままなところでな。ここから遠くないから、たまにそっちの子供たちが遊びにきたりするんだよ」
それを言うブラチアリスの口調は少々皮肉だ。
しかし、今の俺としてはその所在よりもずっと知りたいことがある。
「……彼らも、『人間化』した種族なのか?」
「そうだぞ。昔存在した精霊の一種で、今は人間化した個体しか残っていねぇがな」
「そう、なんだ」
しばらく沈黙が続く。
それを破ったのは、やはり俺の言葉だった。
「おっさん、教えてくれよ」
俺は真摯な顔になり、
「さっきの守護卿と人間たるうんぬんが、いったいどういうことなのか」
そうブラチアリスに言う。
彼は俺をすこし凝視していた。
しばらくして、彼は口を開く。
「……分かった。じゃあ、できるだけ簡単に説明するぜ」
☆
それからして──俺は見ることとなった。
いわばイリスバラの『正面』ではなく、『下から見上げた構図』を。




