百億兆の宝の中、たった一つ
背もたれに頭を支えられ、俺は空を眺めていた。
すると、
「──あ、そこにいたんだ!!」
元気な声が中庭中に響く。
俺はバネのように跳ね上がり、前を見た。
「……勘弁してくれよ」
こちらに向かって走ってくるのは紛れもなくあの転校生だ。
ルィーゼ・プロチェラ。
ショートのピンク色の髪を靡かせて。
手には二人分のパンとジュースを持って。
彼女は全体的に爽快な感じに満ち溢れていて、流れる汗の一粒さえも輝く流星のように散らしていた。
遠くで見物したら、その陽気に満杯したオーラはきっと微笑ましく思われたのだろう。
しかし今の俺にはそれがただただ恐ろしい。
「もっ、ロゴスのトーヘンボク。アタシとお昼一緒に食べよって言ってたのになんで逃げるの? ずっと探してたよ?」
片方の頬を膨らませて怒り顔を見せるルィーゼ。
しかし長引かない。
「でも間に合ってよかった。まだまだお昼休み長いからね! ねね、これ買ってみたんだけど、ロゴスの分もあるから一緒に食べながら話しよ?」
にへらと顔をほころばせながらパンを差し上げる。
「……あ、ああ。ありがとうよ」
もう仕方ないと思い、俺はそれを受け取った。
……そういえば昼食、まだだったよな。
ここはありがたく頂戴しても別に問題はないだろう。
俺はそんなことを考えながらパンを出した。
しかし、
「──あの、ルィーゼさん」
目を軽く瞑って俺は言う。
「なに? それにさん付けはナシだって」
「そんなにくっついていると、食べれないんだけど……」
軽く溜息を吐きながら、左の方を見る。
するとルィーゼは自分のパンには目もやらず俺の腕に密着している。
エメラルド色のきれい瞳がなぜか少しうるうるしてこっちを見上げている。
ちなみに、ルィーゼからはココナッツの香りがした。
ネラとは違ってすこし新鮮だと思う。
「あ、そ? だったらアタシが食べさせてあげるよ!」
彼女は気が緩んでいた俺の手からパンを奪った。
「いや、そんな必要ねぇから、ちょちょっ、まっ──」
「──はい、あーん!」
すると既に口の中にぶち込まれ、舌にはトッピングの味が広がる。
どうしようもなく俺は口内の食物を齧った。
「っ、モグモグ、──お前な!」
いきなりの異物をやっと喉に通させた俺は抗議しようとするが、
「はい、次はジュースね!」
「むぷ」
そんな情けない音を出した。
言葉を終える隙もなく、今度はストローが入れられたのだ。
「……ジュルルルルッ」
不可抗力でそれをすすったら爽やかな香りが鼻腔を満たした。
リンゴジュースである。
「っぷはっ。ケホッ、コホッ」
やっとのことでストローから解放されて、大いに息をした。
「ははは、ロゴスの顔おかしい!」
かなり豪快な笑い声をあげて俺の醜態を見つめる。
……しかし、その視線にはどんどん異様の熱が入ってしまう。
「……でも、ちょっとロゴス、かわいいかも」
彼女は一秒の安らぎも与えてくれないらしい。
今度は上気した顔になって、俺の左頬に唇を近づけてくる。
それで──
☆
やられた。
左頬でなんか柔らかくて冷たい感触がしたのだ。
潰したトマトのような感覚というか。
5月、第14緑色ゾーンでネラにされたのと同じだ。
しかし今度はその時より長い。
やっと離れた。
「──お、おま、お前……!」
俺は真っ赤になり、左頬に掌を当ててピンク色の少女を凝視した。
「……は、ははは、これ、けっこーハズいんだ……」
しかし、ルィーゼの顔は見る見る自分の髪色と似た彩りに変わっていく。
「っ、な、なんか勢い任せで暴走した、っぽい……ゴメン、ナジャイ……」
やがて少女は自分の顔を両手で隠してしまった。
指の間に見える顔色も、耳元の色も、むしろやられた俺よりもずっと赤くなっている。
「そんなに恥ずかしがるぐらいなら最初からやるなよ! お前マジでなんなんだよ!」
俺は世界の不可解さと理不尽さに絶望し、絶叫する。
もはやわけが分からなくなって、周辺を見回した。
「──ルバス! スヲルシャー!」
俺は泣きそうな顔で右の方に視線を向けた。
「見てないでちょっと助けてよ! 俺怖ぇんだよ! こいつ俺から遠ざけて!!」
悪夢を見た子供のように、俺は二人に助けを哀願した。
「……」
「……」
しかし、二人の顔は6月の温かさには似つかわしからぬ酷寒の状態である。
まずスヲルシャーの方は──見るに耐えないという顔で眉間にシワを寄せている。
あんな彼女の表情は初めてなのだが、この陰キャ少女は意外とゴミを見るような目とかも結構似合う。新しい知識を得て、もう少し賢くなった。
いや、そんなのはどうでもいい。
一方、ルバスの方は──一瞥するといつもと同じように見える。
だってデカいフードを被っているから、顔が常に隠されているのと同じなのだ。
でも、なんとなく纏っている雰囲気とかでいつもよりずっと冷たい感じになっていることが分かる。
彼は口を開いては、
「──うん、決めた。今後一生、キミのような浮気男はネラに近づかせないよ」
そう、表情の方よりもずっと凍てついた声音で宣言するのである。
☆
俺はもはやノックアウトだった。
魂の吸収された人のように呆然としていた。
すると、
「ご、ごめん、ロゴス。ちょっと熱くてどうにかなってたらしいよ」
左からルィーゼの声がした。
心なしか、さっきよりは少し冷静な雰囲気になったように聞こえる。
「もう変なことはしないから、ふつーにごはん、たべよ?」
そう言い、自分のパンを食べ始めたらしい。
別に視線はやらなかったが、ガサガサする音から推測したのだ。
しかし俺はどうでも良くなっていた。
「……」
物憂げに、ただ先の風景を眺める。
……ルィーゼにあっさりとネラの時と全く同じことをされてしまった。
これって、『上書き』ってやつなのかな。
そういえば、緑色ゾーンで登りを見た以後、俺もネラもその記憶については触れなかった。
だから彼女がそれについてどんな思いを抱いているのかは知らない。
けど、俺としたは大事な思い出だと思った。
今後一生忘れることの出来ないほどだとさえ思った。
……でも、同じことをこうも容易くされてしまうと、ちょっと妙に色褪せてしまう気がする。
覚えるのはルィーゼへの憤怒よりも、自分に対する名状しがたいダルさだ。
何か、なにもかもバカバカしいというか。
特別だと思ってたことは、実は砂利の山から拾い上げた石粒のような、あり余っているものだったんだな、ってな。
──チップだよな。
☆
そんな中、ベンチと向かい合う位置にある渡り廊下に、
「──ネラ」
彼女が現れた。
しかし、一人だけじゃない。
いつものギャル軍団と一緒で、ボディーガードのルッセルさんもいる。
そして、男子の群れも。
そこには赤髪長身のイケメン、例のクルクス・デュオコラムもいた。
「……っ」
それを知ったとたん、胸元から疼きがする。
なぜだろう──と自問するのも白々しいよな。
何を話しているのかなど、知るはずがない。
ただ分かるのはネラの表情がとても楽しげだということだ。
……最後に俺にそんな顔を見せてくれたのって、いつだっけ。
あいつらにはあんなにも簡単に見せるんだ。
今まで数え切れないほど思ったことを、再び覚えた。
……もしかしてネラは俺と一緒に居てつまらないと思っているのではなかろうか。
だって、あんなに容易く笑い顔を見せてくれる陽気な彼女なのだ。
なのに俺には今まで何度も怒り顔とか、深刻な顔とか、見せてたんだよな。
それってもしかして、心底俺に呆れているからではないだろうか。
陰る思考の連鎖が螺旋を描いていた頃、
「……!!」
渡り廊下から新しい場面が見えた。
ネラが、クルクスの奴と腕を組んだのである。
しかも二人とも笑っている。とても幸せそうだ。
事情を知らない人からは──いや、ネラのことを知る俺から見ても錯覚してしまいそうだ。
もうあいつらは付き合っているんじゃないか、って。
「────」
それだけじゃない。
二人の距離はあまりにも近すぎる。
しきりに何かを喋り合っているし、その都度に姿勢も微かに変わる。
すると、もうすぐで奴の頬にネラの唇が当てられそうに見えるのだ。
「……」
俺はいつの間にか冷や冷やしていた。
拳を握って、顔を顰めていた。
しかし、それを自覚すると、
「……なにさまだよ、お前」
間近のルィーゼにも聞こえないくらい小声で口籠る。
ほんと、惨めだよな、俺。
俺が彼女の何だっていうんだ?
ネラがどこで誰とくっついていたって、それにつべこべ言う資格が俺のどこにあるっていうんだ?
どうしようもなく、『登り』の記憶を再生した。
……なんつうか。
なんとなく、ネラがそんなことをするのは自分にだけだと思ってた。
あんな距離感で他の奴にも接しているって、見ていると何かすごく、嫌だ。
またしても、俺とネラの特別がありふれたものに落ちてしまう。
美麗だったものが泥濘るみに転がり落ちてしまう。
そんな気分になるのだ。
きっしょいよな。
自覚はしているつもりだ。
でも嘘は吐きたくないのだ。
だって、自分の腸からそんな感情が込み上げているのだ。それを俺にどうしろって言うんだ?
一度ネガティヴになった思考回路は、どんどん深みに落ちてしまう。
考える。
そういえば、ネラは、男とキスとか、もうしてるんだろうか。
……してるに決まってるだろうな。
あんなにかわいくて、あかるくて。
男子だって周りに何人も付いているんだから。
それじゃ──そのさきのことも?
誰なのかも知らない奴と、とっくに卒業してるんだろうか。
想像するだけで気持ち悪くなってしまう。
胸の中で何かが崩れ落ちる気持ちになってしまう。
「……最悪だ」
再び口ごもった。
見上げると、空がただただ眩しかった。
だから、目を瞑った。
☆
ネラたちが姿を消した後。
「……まあ、そう落ち込む必要はないだろう」
ルバスだ。
その優しい声色からして、俺を激励するつもりらしい。
彼は俺が何を考えたのか大体予想がついているのだろうか。
とにかく、さっきの冷たい声とは大違いだ。
ただからかってただけだったのかな。どうでもいいけど。
「その辛さ、挫折こそ、大きく夢見てしまった男の宿命というわけだ。今はすこし辛抱強く耐えるがいいだだろう」
「……別に、夢見たつもりは……」
ピリオドを付けず、口を濁した。
「はあ、嘘を吐く力も失ったのか、キミは。本当分かりやすいんだね」
ルバスは溜息を吐いて話を継ぐ。
「それでは、そんなキミのためにヒントを与えてあげよう。たぶん、ネラと彼女の友だちは放課後に街のパレードに行く予定だと思う」
「パレード?」
そんなこと初耳だ。
「凱旋パレードだ。今度北方で戦勝した刃刺の団が帰還するので、な」
「……ハザシ?」
異世界生活を始めてから何度か耳にしたことがあったような、なかったような響きだ。
「いわば、兵士たちの組織で、イリスバラと王国の兵力の要になっている集団だよ。それでパレードのことなのだが、最近の刃刺の奴らは自分らと関係ある行事を政治的なものだけではなく、人々が楽しめるものに仕上げているんだ。刃刺の人気の高い理由の一つだとか。宣伝担当が誰なのかは知らないが、かなり有能な人だろうね」
それを言うルバスの声音には少し冷笑が混じっているように聞こえる。
「……とにかく、だから今日行ってみるといろいろおもしろいものも見られると思うぞ。ネラたちもそう思ったのだろう」
俺は少し遠慮する態度で、
「……お前、そういうの嫌いなのか」
「はっきり言って、そうだね。オレは偶像が嫌いなのだよ」
清々しい返事だったが、俺としてはその明確な意味を掴めかねた。
☆
そこでしばらく沈黙が続く──かのように見えた。
しかし、
「パレード?」
ルィーゼが興味深そうにそう言い出した。
「それって祝いの行事ということ? めっちゃ楽しそう! ロゴス、よかったらアタシと一緒にいこ!」
さっきのことで少しは落ち着いたと思ったが、彼女はまたエメラルドの瞳をクリスマス装飾のように輝かせている。
それを見たルバスは苦笑して、
「どうやらヒントは役立たずだったようね。今のキミはとにかくその転校生さんとのことがあるからね。ネラのことはお預けになりそうだ」
「……」
俺はルィーゼの瞳を直視した。
別にうざったいとかは思っていない。
ただ、怪訝なだけだ。
「なあ、ルィーゼ」
俺は多少しゃがれた声で呼ぶ。
「なに?」
「なんでお前は俺とそんなに仲良くなりたいと思うんだ?」
やっとそれをはっきり問えた。
実は最初から質問すべきことだった。
「……」
答えはすぐには言われなかった。
ルィーゼのエメラルドは明滅するように見えて、俺の顔に据え付けになっている。
「──助けてくれたから」
少女は呟いた。
「え?」
それが理解できず、俺は変な声をこぼした。
もっと説明してくれると思っていた。
しかし、
「……あははは。午後もたのしみだね!」
にんまりと笑う少女。
ごまかされたことは知っている。
しかしその笑顔は完璧すぎた。
それと向き合っていて、真摯な顔で問い質すことなど到底できない。
だから、
「……そうか」
ただそうだけ反応した。
◇ ◇ ◇
昼休みの終わりに近付いて──
中庭に集まっていた人員はそろそろ教室へ戻る準備をする。
スヲルシャーなど、もうとっくに消えた。
ロゴスも起き上がって、軽くストレッチをしている。
その途中。
「キミ」
いきなりルバスが低い声でルィーゼを呼んだ。
「……」
少女は呼んだ人の方を見つめた。
相変わらず颯爽とした顔だが、妙に活気がなくなっている。
外殻だけ残った笑顔はむしろ無表情より不気味な印象を与える。
「キミは、なにものだ」
それがルバスの問いだった。
「生まれて間もない赤ちゃんのはずなのに、なぜ高校生みたいな体をして、この学園に立っているのだ?」
「……ふーん、なに、お前。人の過去が見えるとか?」
「そんなだいそれたものではない。見えるのではなく、曖昧に感じられるだけだ」
「……」
ルィーゼはすぐには答えず、遠いところを見た。
そよ風が吹いてきて彼女のピンク髪を撫でる。
「なにもお前の大切な人に危害は加えないから」
少女はそんなことを言い出した。
ルバスはそれを聞いて、
「答えになってないのだが……」
フードの少年は困ってしまった。
構わず、ルィーゼは話を繋ぐ。
「アタシが興味あるのはただ彼──ロゴスだけ。お前が気にするのは……あの、ソルダネラとかいう女のことだね? 彼女には……うん、なにもしないよ」
今度はルバスの方が黙ってしまった。
しばらく、風の摩擦音しか聞こえなくなっていた。
「──ルィーゼ、もう授業始まるぞ、なにすんだよ!」
ふと彼方からもう歩き出したロゴスの声が聞こえた。
「あっ、待って! アタシもいくから!」
そう言い、少女は行ってしまう。
ルバスには瞥見することもなく。
「────」
一人残ったフードの少年は釘付けになったように、佇んでいた。
風がすこし荒くなった気がした。




