『ただいま』と『おかえり』
「まだ帰ってこねぇのか」
アパートの廊下。
俺は一人不安な声音でそんな言葉を吐いた。
壁に凭れて彼方を見つめる。
もう夕焼けになる頃合いで、空が茜色が滲むのが良く見える。
──どうやらネラとルッセルの遊びは長くなっているようである。
時刻は七時を回したころ。
ネラと俺のアパートの玄関の前で、俺は待機状態にいる。
一時間ほど前からずっとこんな感じで、居ても立ってもいられなくなっているのだ。
ただ彼女が帰ってくるのを待っているのである。
☆
俺が学園から戻ってきたのは今から何時間も前のことだった。
「ただいま」
一人の住いの広々とした空間に入った俺はカバンを適当に投げて、ベッドの上に倒れ込んだ。
やることもなく、ただ慣れない無彩色の部屋のどこかに目を漂わせているだけだった。
ふと、実感する。
5月までの自分の日々はどれほど充実としていたのか。
それが出来たのは、全てネラのおかげだ。
義務的に彼女に侍るとはいえ、ネラからはいつも優しく構えられていた。
いろいろ回されたおかげでこの世界の若者の遊び文化についてもいろいろ知ることができた。
元の世界と似ているようで違う感じの場所にネラと足を運びながら、俺は何を思っていたか。
当時は襲いかかってくるかも知れぬ脅威のことが気になってあんまり考える余裕はなかった。
しかし、過ぎてからみると──俺はやっぱりその時間を楽しめていたと思う。
「……」
ネラの溌剌とした声音が耳にこだまするような気がした。
もしかすると、ネラと俺とが二人だけで過ごす時間はもう二度とこないかも知れない。
そう思うと、重たい打撃に腹を叩かれ、了いには奇妙なメランコリーに襲われてしまうのである。
☆
「……今ネラは、ルッセルさんとギャルたちと一緒、か」
彼女たちが今頃なにをしているのか気になってきた。
街のなかでショッピングでもしているのやら。
通り抜けるきれいな乙女の姿を想像した。
すると、初めて繁華街にネラと二人で出た時を思い出す。
大人びて華々しい少女と、彼女をワンちゃんのように追っていった学ランの少年のことを。
「ふっ」
思い出して、笑った。
考えてみると、俺はその時どれほど自分が彼女と釣り合いが出来ないのかということで悩んでいた。
ふしぎな気分だ。
何か、すでに大人になって大昔の淡い子どものころを思い出すような。
一ヶ月くらいしか経ってないのだが。
それに、
「……今だってあいつと不釣り合いなのは全く同じだけど」
その呟きとともに一気にネガティヴになった思考回路は、陰りの端っこを伝う。
それが到達するところは決まっている。
──最初に彼女の死に顔を見た記憶。
異臭が漂流するトイレの中、個室で腹を乱雑に斬られ、死んでいたネラの顔。
そんな結果になってしまった原因は、俺の選択にあった。
そう、あの日も、ただ彼女を追って謝るのが億劫だというくだらない理由で、彼女を一人にして──
「────」
いきなり胸の中が不安で一杯になる。
横になったままではいられなかったので、起き上がった。
「……いや、今は、あの日とは違うから」
少しは冷静を取り戻そうとした。
でも、それはただの慰みの虚言ではなく、事実だ。
今彼女は王室からの人──ルッセルさんから守られているのだ。
彼女がかなり強いというのは、既に先週末に確認している。
それに、いざとなれば、
「俺には『否応移し』がある」
自分のポケットの中の硬い感触がやけに安心感を与えてくれる。
いや、でも完全に安心することは出来ない。
だって、『否応移し』は使い勝手が悪い装置なのだ。
これだけあれば何もかもハッピーエンドに導けるとか、そういうチート装置とは程遠い。
だからそんなに心を休めることは出来ない。
でも、言うまでもないが、ないよりはずっとマシだ。
☆
「……そう言えば」
最初の『切り替え』直前のことを思い出して、俺は今まであまり気にかけなかったことを熟考してみた。
それは最初の惨劇のときの状況のことである。
明らかに次の二回の『切り替え』とは異なった感じだった。
とりわけ、ネラの状態がそうだ。
5月の騒ぎのなか、俺が『否応移し』を使って『切り替え』を行ったのは三回。
最後の二回は全てネラの能力『象能替』が暴走した彼女と出くわしてからだ。
しかし、最初のあれは違った。
彼女に能力が暴走した痕跡はなかったし、既に物理的な暴力を受けて死んでいる状態だった。
今になってその理由について思ってみる。
あの幼女幻術師が三回全て黒幕だったとして、他の攻撃者はなかったとすれば。
そして最初にも幼女からの幻術の襲撃があったとすれば。
──もしかして、あれはネラの自害だったのでは?
つまり、自分の能力の恐ろしさを分かっていた彼女が、幻術にかかったことにどうにか気づき、能力が暴走する前に自分の命を断ったとしたら……。
「……」
嫌なことを考えてしまった。
腹のあたりから気分が悪くなって、俺はベッドから立ち上がった。
「いや、でも……」
それは流石におかしいところが多すぎる。
まず、最後の二回にも彼女は自分の能力が暴走したことに気付いているらしかった。
でも自害にまでは至ってなかった。
むしろどうにかこっちへ縋って、助けを求めていた。
なのに最初だけ彼女が自分を殺したと見做すことは、難しいだろうと思う。
「……くそ、こんなこと考えていて、どうなるってんだよ?」
自分で言ったじゃないか、過去のことでほぞをかんでいても仕方ないって。
重要なのは今からだ。
今からのネラのことを守るのが一番なのだ。
「……」
時計を確認してみる。
時刻は六時五分前。
「……外で待ってみるか」
廊下で待機しているところを見つけられると、ネラはどんな反応をするのだろうか。
キモがられるかな。
それとも、単に哀れに思われるのかな。
どっちでもいい。
ただネラが安全に家に帰るのを確かめないといけないのだ。
俺は玄関に向かい、廊下へ出た。
☆
……そうして、待つこと一時間ぐらい。すでに七時を回した。
未だにあのギャル様は帰宅するつもりが全くないらしい。
既にトンボは送ってみた。
でもまだ帰って来ない。
「あと三十分だ」
自分に言い聞かせた。
「それまで帰らないと、探しに行くんだ」
滲む心許なさを噛み殺しながら、ウェスト・エンドの住宅街を見下ろす。
でも肩と手が力むのはどうしようもない。
緊張状態でいたからか、もう疲れが全身に走るのが分かる。
「……おかしいな」
こんな焦燥にもう駆られたくないから陛下に警護役を頼んだんじゃなかったのか?
なのに、これじゃ全く同じだ。
……いや、自分の眼の前にいないから、むしろ以前よりずっと心配になってしまっている。
「ああ、どうしようもねぇな」
やっぱりネラがそばにいないと、落ち着かないのだ。
ネラが必要なのだ。
自分に呆れてしまうが、それが事実だからしょうがない。
俺は廊下の手すりに顔を埋めながら、
「早く帰ってきてよ、ネラ……」
届くはずもないことを呟いた。
☆
しかし、
「──おや、呼ばれましたよ、フォリア様」
快活な声音が朗らかに鳴り響いた。
慌てて立ち上がる。
すると、そこには階段から降りてくる二人の姿がいる。
もちろんネラとルッセルさんである。
ショッピングに行ったのかという俺の推測は正しかったらしく、二人とも手提げで両手一杯になっている。
ルッセルさんは平然としているが、しかしネラの方は少し眉を上げている。
驚いているのだろうか。なぜ?
……いや、待てよ。階段から、降りてくる?
それはおかしい。
「……なんで上から降りてくるんだよ」
俺はまずそれを聞いた。
「ああ、ちょっと街路がバスや犛車で混雑していましたので」
答えだしたのはメイドさんの方だ。
彼女は言葉を継いだ。
「それで、わたくしがフォリア様を抱いてジャンプして来ました。屋上の方へ着地しましたゆえ、上から降りてきたところでございます」
「……えぇーっ……」
そんな間抜けな声を出してしまう。
何気なくとんでもないことを喋る召使いさんに唖然とならずにはいられなかったのだ。
その時、
「おや、これはロゴス様からのおトンボ?」
ルッセルさんは左の方から現れた虫のような機械に目をやった。
やっと、空から俺からのトンボが届いたのである。
あいつは任務が果たせられて嬉いようで、ネラの周りに蝿のようにやかましく飛び散る。
「……まさかルッセルさんのスピードに追いつけなかったから今やっと届いたのかよ」
俺は溜息を吐いて、近付いては、そいつを雑に掴んだ。
本当に役立たずな機械だ。
こいつに怒ってもしょうがないんだけど。
「……あっ」
その時、やっとネラと俺の目線があった。
しかし彼女からはひょいと顔を避けてしまう。
……その反応、今朝のグロリアを思い出すから意外と傷つくんだよなぁ。
でもそんなことよりも、
「おかえり、ネラ」
言うべきことをちゃんと言えた。
今はネラを間近で見られたのが嬉しすぎたのだ。
だから、思わず笑顔になってしまう。
すげー阿呆面になっているかも知れない。
でもどうしようがなかった。
ただただ、ネラの存在がありがたかった。
「……」
彼女からはしばらく答えず、ただ俺の方をチラチラみるだけだ。
でも、やっと口を開いては、
「……ただいま、ロゴス」
そう答えてくれた。




