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ゴキブリ



「……平和だな」


 坂道を下がっていく最中、ふとそういう感想が込み上げてきた。


 今俺は一人、帰り道の上だ。

 孤独な下校路とか、テムプス・ノヴムに来てから初めての出来事である。

 今まではずっとネラと一緒だったもんな。


 なら、今日はなぜそれが違うのか。

 一言で言って、それは今はルッセルさんがいるからだ。

 いわばネラ専用のSPがついたので、もはや俺が一々ネラを追っかける必要がないのである。

 せめて俺はそう信じてみることにしたんだ。





 今日の授業が終わった時。

 ネラを見ると、もうすっかりルッセルさんと仲良くなっていた。

 あのエルフ耳の召使いさんは馴染みやすい明るい性格なので、最初から陽キャグループとぴったりの人材だったと思う。

 どうやら、ネラはルッセルさんを含めてギャル軍団とどっかへ遊びに行くらしかった。

 俺には目もやらずに騒ぎ立てると思ったら、すぐ教室から出ていったのである。


 俺はそれを傍観した。

 前述した通り、ネラとルッセルさんが共にいるからだ。

 それにまさか、いくらなんでもあの幼女幻術師のような奴が次から次へと出てきたりはしないだろ。

 悪党だって数に限りがあるはずだから、登場にハイエイタスはあることを願ってみる。


 ……もちろん、念のために『否応移し』に登録はした。

 6月最初の選択質問は、こうだった。


『陸暦1554年6月3日午後4時10分ごろ:

 瞬きの乙女に伴いますか?』


 ノブは『いいえ』の方へ。

 それを終えると、俺は最初の一人ぼっちの帰り道に出たのである。





 一人坂道を降りて行きながら、過ぎた5月の何週間を覚えてみた。


 ──実は、ルッセルさんが就かされる前までは、ネラが行く場所にはいつも俺が同伴していた。

 同伴と言っても少し遠いところで一人眺める感じなので、直接彼女と交じることは少なかったが。

 それでも気まずかったのは事実だ。

 ネラ本人はともかく、彼女の友だちは殆ど俺を指して笑ったり、たまには顔を顰めたりしていた。


 でも、俺としては王命に従ったまでだ。

 いくら教室の中では強者ぶっている陽キャの奴らとて、この国で一番えらい人の前ではせんすべがないだろう。

 そんなことを思うと、萎んでいた俺の肩も少しは力が入るのを感じるのだった。

 ……虎の威を借る狐とは、正にこういうことだろう。


 まあ、とにかく、なにがなんでもそうしていていい気分になれなかったのは確かだ。

 だからあんな合法のストーカーのまねはやめられて本当に良かったと思う。


「ぅううっーふぅ」


 急激にだるくなった体を慰めるために伸びをした。

 ……やはり、あいつがいないと暇だな。

 次からはクリスの奴のところへ寄ってみようかな。


 そういえば、クリスは妙な部活とかをやっているらしい。

 昼休みの間も、『もう学園生になったから部活を始めてもいい』といい、俺をずっと誘っていた。

 あの時には適当に聞き流したが、明日はあらたまって聞いてみようかと思う。


 そんなことを当てもなく思い浮かんでいたころだった。

 ふと、道端の何か斑みたいなものが目に入ってきた。


「あれは……」


 黒色と褐色が混合されて光沢を帯びる。

 あの不気味の色合いは──妙な既視感を持たせる。


 俺は少し近付いてかがむ。


「やはりそうだったか」


 ゴキブリだ。

 しかも、死にかけた奴。


 どうやら、周りの下水溝から出てきた時、運悪く車輪に潰されたようだった。

 頭は消失、腹も半分以上は拉がれているように見える。

 しかし、それでもなお脚が微かにヒクヒクしている。

 これはまだ生きているのか、それとも神経の何かが反応しているだけなのか。

 どっちにせよ、あまり意味はなさそうだが。


「……いや、待ってよ」


 やつの尻尾の部分に、妙なものが付けられている。

 デカいコーヒー豆のような感じの……。


 分かった。

 あれは、卵の袋だ。


 でもそれさえも殆ど潰されているのが見える。

 元はカプセルみたいな形だったはずだ。

 でも、今はそれが失われて、薄気味悪い液体を少し垂らしているのである。


 つまり──一家全滅というわけだ。

 母も、その子どもたちも、全部死んだのだ。


 なんとなく、屍に目を落としていた。

 その最中、


「────」


 異変を感じた。

 卵袋の中から、何かしごく小さな、しかし真っ白なものが蠢いているような。


「まさか、生きていた幼虫がいたのか?」


 もうすこし見ていると、それは明らかになった。

 ちらちら見えるのは、微細すぎるけど、確かに幼虫の脚だ。

 必死になって外へ出ようとするが、それがうまく出来ていないらしい。


「……」


 俺は何を考えているのだろうか。

 憐れみ? それとも、嫌悪?

 よくわからない。

 ただ、そのままでいるのをぎこちなく感じた。


 だから、


「……ッ」


 嫌悪からそんな音をこぼしながらも、両手を袋に近づけた。

 そして、先っぽを指の端っこで摘んだ。


 一度きりにしたいから、精密にするのが大事だと思う。

 そして──それを開けた。


「ッッ!!」


 鳥肌が立った。


 その瞬間、中から白く蠢く幼虫の一匹が出てきた。

 生まれて初めてみる世界に挨拶をする暇もなく、ただ生存本能にかられて、逃げ出した。

 たぶん最も近くにある下水溝に向かうのだろうと思う。


「きったねぇなぁ」


 自分の手先を見下ろして、それを周りのコンクリート壁に擦った。

 それがどれほど清潔に効果があるのかは知らないが、気分はちょっと良くなった。





「……」


 ふと何か気配を感じたような気がした。


 振り返ってみると、そこにはマンホールがある。

 その上に白い斑点みたいなものがある。

 ──さっきの幼虫だ。


「……どうしたんだ?」


 俺って何をバカなことを思ってるのだろう。

 なんか、あいつに注視されているような気がしたのだ。


 俺から幼虫を見つめると、それはただその場所に釘付けになっていた。


 まさか感謝をしたいと思っているのだろうか。

 ……そんなわけ、ねぇよな。


「早く行けよ」


 そう言い出した。


「マンホールの中に入ってみろ。下に、きっとお前の友だちがたくさんいるだろうから」


 どうかしてる。

 ゴキブリの幼虫を助けて、そいつに話しかけているだなんて。


 自分を嗤いたい気分になっていると、


「行ったな」


 幼虫の奴はすぐマンホールの穴に入ったのである。

 まるで俺の言葉を理解したように。


「……ふっ」


 なんとなく、笑ってしまった。

 自嘲のつもりだったが、ふしぎにもシニカルな感情にはならなかった。

 太陽の眩しい晴れやかな天気だからだろうか。

 何を見てもいい気分になれそうなのだ。


 微笑を浮かべたまま、再び歩みだした。



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