2 選択肢切り替え装置、名付けて──
死の直後。
感じたのは、ただ自分の存在がまだどこかに『在る』というこどだった。
俺は、恐る恐る目を開けた。
「やあ、良くぞ来てくれた、晴野言くん」
……俺の正面に立っていたのは、オタクだった。
もちろん、まだ何もその男のことなど知らない。
まだ禄に話し合いもしてない。
でも、残念ながら、分かるしか無かったんだ──あいつがオタクということを。
だって、あの外見を見ろよ。
別にブサイクだから、というわけではない。
むしろ、顔自体はそれなりに整っていると思う。小太りしていて台無しだが。
とにかく、他の特徴があまりにも定番すぎるのだ。
綺麗に両側に分けられた、男にしては少し長い髪型。
肥満と言えるほどではないが、小太りにした体型。
すぐ前まで部屋で寛いでいたかのような、半袖の白Tシャツ・ジーンズ。
側面に破れ目がある、いちまつ模様のスリッパ。
そして、四角がちょっと丸められた、長方形の眼鏡。
特に最後の奴は見ものだった。
なんと彼は、あの眼鏡キャラにはテンプレのあれをやっているのだ。
ほら、漫画特有の、眼鏡をクイッとして光らせるあれだ、あれ。
周りにはこれといった光源もないのだが、どうやって光らせているのやら。
「やれやれ、しかし、実につまらない最後だったな」
オタクは、こっちをはなから見下ろす人がするような薄笑いをする。
不敵の笑みと言えば良いのか? でも、別に軽蔑されている気はしない。
しかし、無駄にイケボだな、こいつ。何かムカつく。
「要すると、こうだな──未成年飲酒の後、朦朧な精神で急いで家に帰ろうとしたが、周りを観察する能力がなくなったせいで、曲がり角のトラックに気づかず、ぶつかり、そのままお了い……。いろいろな死に方を見てきたけど、君のそれは割とありふれていて、そして最も馬鹿らしいパターンだね」
聞いていて、どんどん自分の顔が暗くなっていくのが分かった。
今まで夢か現か良く確信できなかった。
けれど、どうやらさっきまでの光景は全て現実のものだったようだ。
認めるしかない。俺は──死んだのだ。
それも、目の前のオタクの言う通り、愚か極まりない行動の結末として。
しかし、その事実を受け入れても、思ったより衝撃は大きくない。
死んだけど、まだ終わってはいないから、かも知れない。
だって今、自分は『今』を経験することが出来るのだ。
肉体は死んだとしても、『自分』である何かが未だに活動をしている。
俺は顔を上げて、正面の男を見た。
「……だとすると、あんたは……まさか、死に神ということか?」
「ふふっ、どうだろうね。全く間違ってはいないかも、だよ」
何がそんなに楽しいのか、オタクはにやける顔を崩さない。
「正確に言って、僕が神だということは当りなのだよ」
「は……?」
「でも死に神とか、そういうくだらない類ではないさ。
僕は物作りの神、鍛冶の神。分かりやすく言えば……そうだね、人間の物語に出てくる、『ヘファイストス』と似た存在だと言えば良いだろう。正確には、彼自体ではないのだが」
何いってんだ、こいつ。ヘファイストスだと?
神話とかはあまり詳しくない。
でも、曖昧な話だが、俺が考えてきたヘファイストスって、確か……ブサイク筋肉質の男で、片足が使えなくて、何か火山の火炎の下で金槌を打っているイメージだった。
……ブサイクしか被ってないじゃん。
「おやおや、どうやら、その例えが却って混乱を招いたようだね」
首をかしげるこっちを見て、眼鏡オタクは言う。
「ふふっ、ならば、いっそ忘れたまえよ。言った通り、別に僕はヘファイストス自体ではないのだからね。そうしたいと言うなら、思うままに名付けてくれても構わないさ。何とでも呼びたまえよ」
「……じゃあ、メガネオタクで」
「それは無しだ」
即却下された。
「うん……じゃあ、適当に、『ストス』って呼ぶわ」
もちろん、ヘファイストスの最後の三文字だ。
ずっと原型で呼ぶにはちょっと長いから。
「『ストス』か、悪くない響きだね」
割と気に入ったのか、彼は満足気に笑みを浮かべた。
ちなみに、俺は初対面の人の前では言動に窮しがちたが、ふしぎにもストスには昔からの知り合いみたいに振る舞っていた。
なんでだろう、似たような親友を思い出したからかな。
それとも、どうせ死んだんだし、もう遠慮することは何もないと思ったのかな。
「で、ストス、その物作りの神さまが、今死んだばかりの俺に何の用なんだ?」
「簡単な話なのさ」
芝居がかった動作で眼鏡の位置を直した彼は、言う。
「言くん、君には、僕の起し人になってもらうよ」
「おこし、びと? なんだそれ?」
「つまり君には、僕の代理人として働いてもらうということなのさ」
ずっと同じ場所で佇んでいた彼は、それまで言って、いきなり動き出した。
こっちへまっすぐに近づいてくる。
ストスは、両手で俺の肩を掴んだ。
彼の外見からは想像もできない、とんでもない力を感じる。
「言くん──異世界の命運が、君にかかっている!」
「……へ?」
突拍子もないことを言われて、俺は呆然となってしまった。
☆
それからストスが俺に聞かせた説明を簡単に要約すると、こうだ。
──俺が生まれた世界とは別の世界が存在する。
しかしその世界は、他の神々、つまりストスの兄弟姉妹たちの争いの舞台になっているらしい。
結果、その世界はどんどん廃れて行き、住民は苦しみ続けている。
本来ストスは争いなんかに興味がなかったから、極力関わらないようにしていたが、もう見過ごすことが出来なくなったという。
だから、俺の世界からの死者を選んで、自分の起し人──エージェントにして、あっちの世界で働かせて、争いをどうにか終わらせようとしているとか。
「……まず、一つ質問があるんだけど」
彼の説明の一区切りが終わったころ、俺は手を上げて言った。
「それなら、何でストス自ら戦わないんだ? 神さまだから、すごい力とか持ってるんだろ?」
「ふふっ、良い質問だよ。そして、当然の疑問だね。
その答えは極めて簡単だ。『それが禁じられているから』、だよ」
「禁じられ──?」
「そうだよ。我が兄弟姉妹たちはしきたりへの保守性が強くて、一度ルールを決めると、なかなかそれを破らないんだ。
そして過去のある時点で、彼らは決めたんだ──直接世界の中で戦をすることは禁則にしよう、と。
自分は戦えない。ならば、自分の代りに戦わせるものを使えばいい。
だから、あっちの世界は、いわば、駒を選んで戦わせる、チェス盤なのさ」
「へぇー。じゃあ、その『起し人』が駒ということ?」
「場合によるが、そう理解してくれても大差はないだろうね」
しかし、彼の説明は新たな疑問を生んだ。
それもまた、とても当然な疑問だと思う。
「……なんで俺なんだ?」
それを聞くしかなかった。
「俺よりすごい人なら、いくらでもあったはずなのに。俺の故郷からでも、異世界からでも、きっと、たくさん」
「さあね」
彼は曖昧に微笑むだけだった。
「言くん、僕らの時間は限られているんだ。君と話し合いを続けたい気分は山々あるが、もう次の題目に移させてもうよ」
「次の題目って、何だ?」
「君はこれから僕の起し人──ある種、戦士になるのさ。戦士たるものに武器がなくては、戦えないだろう? 今から『武器』を、君に与えよう」
ストスは、背中から何かを取り出した。
バックパックとかを持ってるわけでもないのだが、どこから出したのやら。
ド◯◯もんみたいな感じなのかな。
「自信を持って紹介させてもらおう──僕の最傑作、『否応移し』だ」
彼が片手で持って見せたのは、何かデザインが古くて、やぼったい見た目の機械じかけだった。なんか、昭和のアナログ機械のような感じというか。
青森のお爺ちゃんっちにあったよな。片隅の、古びたテレビ。ダイヤル回してチャンネル変える奴。全体的な雰囲気がそれと似ている。
「……」
どうも、微妙な顔にならずにはいられなかった。
こんなみすぼらしい機械が、俺の『武器』だって?
しかも、神さまという奴は、これを自分の『最傑作』だと言っている。
おまけに、何か名前も華がない。何なんだよ、イヤオーウツシって。もうちょっとかっこいい名前とか無かったのか?
何か、ひどくがっかりしてしまった。
どうやら、俺は思わず心の中ですごいものを期待していたみたいだ。
だって、神さまが贈る武器と言ったんだから、そんな期待して当然じゃないか。
ストスも俺の顔からそれを確かに感じ取ったが、まるで構わない様子だった。
むしろ、その反応を最初から予想していたようにも見える。
「ふふふ……君が何を思っているのかは、既に見抜いているよ。でも、モノというのは外見が全部ではないのさ。まあ、その内自分の目でそれを実感するようになる。
──それより、この機械の詳細を説明させてもらおう」
俺の失望は置き去りにして、ストスはかなり熱を入れて説明を始めた。
◇ ◇ ◇
『否応移し』。
それは名前通り、否、すなわち不承知と、応、すなわち承知の切り替えが可能になる、機械仕掛けである。
使い手・晴野言は、今から自分の人生の『選択』を装置に『登録』して、そのイエスとノーを後の時点から切り替えることが出来る。
その作動を理解するためには、外見をもうちょっと細心に観察する必要がある。
まず、その装置は基本的に褐色の直方体型、ボックスである。
成人が片手で持つのに無理がない、一般のスマートフォンより少し大きいサイズであり、したがってポケットにも入れられる。
その正面の中央には、大きなノブがあり、二つのモードに切り替えられるようになっている。
左のモードにはレッテルで「はい」と書かれており、右には「いいえ」と書かれている。
ノブの上には、誤操作防止用の半透明のカバーがあり、ノブの操作はカバーを跳ね上げてから出来る。
ノブの上端には、ディスプレイがある。
晴野言がそれを初めて受け取った時点では、何も表示されていなかった。
ノブの下端には、マイクロフォンがある。
これを通じて、音声入力が出来る。
そして、装置の左側の側面には、プラスティック製だと思われる蓋が付けられて、それを開けると、赤い背景に白い字でRESETと書かれたボタンがある。
☆
使い方は、以下の通りである。
最初に、『選択登録』を行う。
『選択登録』は、『登録モード』の中で出来る。
『登録モード』は、側面のリセットボタンに、モールス符号のSOS、すなわち、トトト・ツーツーツー・トトトを入力することによって発動する。
『登録モード』が発動すると、使い手は下端のマイクロフォンに、登録しようとする選択を囲む状況を人語で説明して、『状況説明』を行う。
『状況説明』が終わると、装置内の処理を通じて、『選択登録』が完了する。
『選択登録』が完了すると、上端のディスプレイに、『選択質問』が表示される。
『選択質問』は論理上、いかなる場合も、否、または応で答えられるものだけが登録される。
使い手は、ノブの操作を通じて、『選択』が与えられた当時から未来の時点で、『選択質問』に対する否と応の切り替えを行うことが出来る。
一つの『選択質問』において、切り替えの回数の上限はない。
それでは、例を挙げよう。
☆
「教えて! 否応移し!」
《一般高校生、晴野言の場合》
それは、昭和108年13月666日の午前11時半ごろのこと。
一般高校生の晴野言は、非常に腹が減ってしまいました。
しかし、家の中には食材と言っても卵と白飯しかいません。
そこで彼が思いついたのが、近所のラーメン屋、『五十一商店』でした。
噂に良く聞いたけど、行ったことがなかったから、ずっと気になっていたのです。
しかし、ちょっと迷う理由は、人によって量が多いかも知れないと聞くからです。
晴野言は大食いではありません。
前にも何度か無理をして出されたものを食べ切ろうとして、腹を壊したことがあります。
この時、晴野言はどうしたら良いでしょうか?
彼は思いついて、言いました。
「そうだ、否応移し!」
彼は『否応移し』に、状況の説明をして、選択登録をしました。
「否応移し、助けて! お昼に『五十一商店』に行くか、行かないか、とても迷っているの!」
結果、『否応移し』には新たな選択が登録できました。
『選択質問』は、次の通りです。
「昭和108年13月666日のお昼、五十一商店に行きますか?」
晴野言は、まずノブを「はい」の方へ回して、『五十一商店』に訪れることにしました。
店についた彼はラーメンを注文して、食べ始めました。
最初は腹も減っていて、ラーメンの味も良かったので、いい気分で箸を取りました。
しかし、三分の二くらいを食べ終えたころ、心配していた事態は起こりました。
「は、腹が……」
いきなり油分の多いものを大量に食べたせいで、腹痛を起こしてしまったのです。
瞬間、晴野言の脳裏に過ったのは、選択の後悔でした。
あの時、『五十一商店』に行かない選択肢を選んでいたら、こんな苦しむこともなかったのに、と。
この時、晴野言はどうしたら良いでしょうか?
彼は思いついて、言いました。
「そうだ、否応移し!」
彼は、ポケットから『否応移し』を出しました。
相変わらず、同じ『選択質問』がディスプレイの上に表示されています。
「昭和108年13月666日のお昼、五十一商店に行きますか?」
晴野言は、「はい」の方へ向かっていたノブを、今度は「いいえ」の方へ回しました。
すると、あらふしぎ!
彼は気づかない内に、自宅に戻っていました!
腹痛は魔法のように消えています。
彼は食卓の前へ座っています。食卓の上には、卵を混ぜたご飯がありました。
贅沢でとは言えませんが、それでも腹を壊さず食べられる、大事な食事です。
言は目の前のご飯を、美味しくいただきました。
否応移し、どうだったでしょうか?
皆も否応移しを使って、選択肢を切り替え、人生の過ちをどんどん修正して行きましょう!
「ありがとう、否応移し!」
終
提供・著作
────────────────────
株式会社ヘファイストス・エレクトロニクス
◇ ◇ ◇
「と、いったところだ」
長らく続けられた説明が、そんな言葉とともに終わった。
「……」
もう自分に渡されたやぼったい装置を、色々観察した。
ストスの説明はだいたい理解できた。
その通りなら、強力な機械なのは間違いないだろう。
……しかし、やはり信じられない。
みるみる、青森のお爺ちゃんっちのテレビを連想させる。
あのテレビって、リモコンあったっけ?
もしあったら、絶対こんな感じになってたと思う。
こんな地味な外見の装置に、本当に現実を変える力があるのか?
「言くん。どうも疑念が晴れないみたいだね」
眼鏡の男は、にっこりと笑いながらこっちを見ている。
「そう焦らなくても良いさ。もう直にその真の力が見えてくるはずだよ」
「……そう、なのか」
しかし、心残りなものはそれだけではない。
疑念は、増えて行くばかりである。
「『否応移し』って、略したら『イヤウツ』になるのか、なんか嫌な響きだわ」
まずは、最もくだらないことから。
「……君が敢えてそう呼ぶというなら別に構わないが、君は名付けのセンスがあまりないようだね」
「そのまんまお前に返すわ」
いや、そんなことはどうでも良い。
もっと聞かなきゃいけないことがある。
「……でも、ほんとに『武器』であってるのか、これ? こんなリモコンみたいな機械でどうやって戦えば良いんだ? 敵の頭に投げるとかでもないだろ」
「ははは、もちろんそんなことではないさ。でも、『戦』とはなにも拳をぶつかりあってだけ出来るものではないんだよ。その意味も、これから見えてくるだろう」
「うーん……。あっ、そうだ。それに、もしこれを失くしたりしたらどうなるんだ? あるいは、他の人に奪われたりしたら?」
「まず一つ目の質問に答えると、君が僕の起し人たる以上、君が『否応移し』を失くすことは、『不可能』だよ」
「──『不可能』って、どういう意味だ?」
「そのままの意味さ。鍛冶の神、ヘファイストスの起し人と『否応移し』は、強い引力で縛られている。君が装置を一時的に消失したとしても、そう長くない内に、君は必ず『否応移し』を取り戻す。逆に、もし君がこれをわざと捨てようとしても、『否応移し』の方から君を探すだろう」
それだけ聞くと、まるで呪縛みたいに思われてしまうのだが。
まぁ、それは敢えて口に出さないようにした。
「そして二つ目の質問なんだけど、それも心配ご無用だ。君以外がそれを操作しようとしても、全然反応しないからだよ。
ノブは回らないし、リセットボタンは押されない。ディスプレイ上の文字は読み取れないし、マイクにいくら声高で叫んでも、音声入力はできないのだよ」
「え? そんなのも出来るの? どうやって?」
「ふふ。僕は神なんだよ? 君の理解の及ばないすごい権能で、えっちらおっちらして出来るのさ」
全然答えになってねぇ。
結局、すごい神様パワーでなんとかしたってことなんだろ。
俺も別にそれに深入りするつもりはないので、適当に受け入れた。
……でも、ツッコまざるを得ない。
どうにも無視できない、重大なツッコミどころが一つ残っている。
「……なぁ、そんな色々なこと出来たんなら、そもそもめんどくさい機械じゃなくて、なんかスキールみたいな奴にした方が良かったんじゃね?」
「────」
沈黙の時が訪れた。
十幾秒か、続いた。
「──し」
沈黙が破られた時、ストスが出したのは、そんな音だった。
「し?」
「しまった───ッ!! その手があったか────ッ!!!!」
眼鏡の神さまは、頭を抱えて天を仰いだ。
「──なんちゃって」
いきなり落ち着くな。
切り替えが早すぎて追いつけない。
引いてるこっちを見て、ストスは眼鏡の光をいっそう鋭くした。
「──その通り、確かに、それも出来たね。一々機械の操作なんかさせず、全部丸めてスキルで終わらせることも、ね。
でも、そんなの、つまらないとは思わないかい?」
「はぁ?」
何いってんだこいつ。
「だって、機械の方が面白いじゃないか。説明を聞いて、色々触ったりいじったりして、実際に使ってみて、時間を費やしてその全貌を知ってゆく。胸が踊ることだと思わないかい?
無駄に詠唱なんかして大声ばかり上げるスキルなんか、つまらないと思うんだよね。我が兄弟姉妹たちの多くは多分同意してくれないだろうけど、それが僕の個人的な意見なのさ。
だから、僕の起し人に与える武器は、スキルではなく、機械仕掛けにしたのさ」
こいつ、機械オタクかよ……。
なんか今までまともに筋の通った説明をしてくれたから忘れてた。
そう言えばこいつ、オタクだったな。
「ちょっと俺には分かんねぇかな……」
首を横に振りながら、答えた。
☆
ずいぶん二人で話していた。
すると、ストスの後ろから微かな光が見えてきた。
「あれは……?」
俺の表情を見て、ストスもまた後ろで近づく光線を確認する。
「ああ、もう時間かね」
相変わらず、にやりとした笑みと一緒に、彼はそう言った。
「言くん。実に楽しかったが、どうやら話し合いはここまでなようだ。これから、本当に君をあっちの世界へ渡らせるよ」
光の塊みたいなものは、ストスと俺の頭上の方へ移動した。
すると、何か天上から俺を優しくひっぱる力が感じられ始める。
「えっ、なんだ、これ?!」
未知の掌の中に収められる気分だった。
いくら優しいとは言え、怯えるしかなかった。
「安心したまえよ。これも全部予定通りのことだ。その牽引力が、今から君を異世界へ運ばせるのさ」
しばらくして、俺は空中に浮かれていた。
ストスの位置には変化がなく、こっちからどんどん遠ざかっていく。
『否応移し』は、俺が右手に持っている。
落とさないように、まずはズボンのポケットの中にしめておくことにした。
眼鏡の神さまは、俺の方を見上げているままだ。
まるで、遠くへ旅立つ友人を見送る人のようだ。
「最後に、一つだけ言わせてもらおう」
ストスは、眼鏡の位置を直した。
あ、そういうの、漫画で見たな。
定番通りなら、ここは意味深なことを伝える場面だな。
どうやら、耳を傾ける方が良さそうだ。
「──『選択』というのは、とても重大なものだ。くれぐれも、その重みを忘れないように、ね」
は? それだけ?
そんなの、言われなくても、知っていることなのに。
しかし、そんな愚痴を言う暇もなく、
高く、高くへ、俺は浮かんで行く。
小太りの男の姿は、すぐにアリのように小さくなってしまった。
そして、こっちを包む光の度もきつくなった。
もはや、目を開けていることさえ出来なくなった。
だから俺は、目を瞑って、これから来るものを受け身で待つことにした。
◇ ◇ ◇
再び、空気を飲むことが出来た時。
「──わああああっっ!!!」
俺が開口一番に出したのは、そんな情けない声だった。
しかたないだろ、いきなり天空から投げ出されたんだから。
「きゃっ」
そして、地上へぶつかった。
いや、ぶつかったというには、下の感触が柔らかすぎる。
それは温かい温度と一緒に感じられる。
そして、何かすごいいい匂いが伝わってくる。
ほのかに汗の匂いと混ぜられて、いつまでも嗅いでいたい、そんな匂いだ。
俺は、恐る恐る目を開いた。
すると、最初に見たのは──
驚くしかなかった。
俺は、ある人を押し倒していた。
今まで見かけたこともないほど、美しい、金髪の、少女。
春の瞬く華やかさを形にしたような、少女だ。
その宝石のような青い瞳に、ついうっとりとしてしまった。
「ちょっと、何?! キミ、誰? 大丈夫なの?!」
心配げにこっちを見上げて、そんなことを言ってくる。
綺麗な声音が、さくらんぼのような唇の隙間から出てくる。
これ、日本語だよな? でも、どう見ても日本人じゃない。
彼女の吐く響きの綺麗さに引かれすぎて、意味は聞き取れなかった。
胸が踊る。
そういう感覚など、もう二度と感じないだろうと思っていた。
でも今、俺は確実にそれを感じているのだ。
気がついた。
だから、言った。
言うしか無かったんだ。
「──世知辛いご時世に一目惚れとか、マジねぇわ……」
「えっ」
俺の意識は、そこで途絶えた。
☆
それが、俺の異世界での初めての記憶だった。




