Scene 軽い泡、重い熱
エレベーターを降りた先の廊下は、毛足の長い絨毯が敷かれている。間接照明が作り出す柔らかな陰影の中を、ブラックドレスの仄火が上機嫌に歩いていた。今夜の宿を手配してある、都内でも屈指の高級ホテルだ。
無駄を嫌う仄火の意を汲んで、出迎えたのは総支配人だけだ。仄火がポーターを断るのを知っているため、一人で奥へ進んでも止めることすらしない。
フロントでの煩わしい手続きは、スターバックによって完結している。仄火はVIP専用口から乗り込み、フロントにすら立ち寄らなかった。チェックインやアウトのような雑務を、あのスターバックが主人にやらせるはずがない。
許可された人間しか入れないフロアのため、廊下ですら一切の無音である。しかし中ほどを通り過ぎたとき、重厚な扉からわずかな音が漏れていた。ホテルの防音を突破するほどの音量で、男性のオペラが流れている。
エンリコ・カルーソーだ。
イタリアのオペラ史上でも、屈指とされるテノール歌手の一人である。
古いレコードのざらついた歌声で、血を吐くような愛を告白していた。重たくて熱量すらも感じさせる感情の波が、ドアの隙間から粘着質に漏れているようだ。
「……うるさいなあ」
仄火は歩みを止めずに吐き捨て、せっかくのいい気分が台無しである。
通路の最奥まで進むと、観音開きの大扉に突き当たる。緻密な彫刻が施された飴色の木肌は、一見するだけで他の客室とは格が違う。
仄火が大扉の前に立っただけで、監視カメラによる生体認証が行われた。人相どころか熱源反応まで検証し、秒単位で安全性の確認を終了する。電子ロックの解錠音が響くと、重厚な扉が自動で左右に開かれた。
使用人の控室を抜けた先には、地上二百メートルからの展望が広がる。二方向の壁面を使った巨大な窓に、太陽が作り出す黄金の残照はすでにない。宝石を散りばめたような新宿の光芒と、静寂と闇が織りなす皇居の森が同居していた。
仄火は命令など下していないが、スターバックの采配は完璧だ。到着時刻を数秒の狂いもなく逆算し、ホテルのスタッフに指示を飛ばしていた。
勝手知ったる自室を歩くように、仄火は贅を極めたリビングを横切る。バスルームの扉を開けると、潤いを含んだ温かな湿気が顔を撫でた。
「あ、ちゃんとできてる。スタッフ優秀じゃん」
泡風呂を希望する旨を、スターバックを通じて唯一伝えてあった。使用されたバブルバスは、香水メーカー『サンタ・マリア・ノヴェッラ』のものだ。
床を掘り下げた大理石の浴槽は、純白の泡で隙間なく覆い尽くされている。地上の積乱雲のような泡から、ベルガモットとシトラスの清涼な香りがした。
本来、客の不在時における給湯は、問題が多いためホテル側に断られる。だが仄火に限って言えば、もはやそんな次元にはいないのだ。
実際に仄火が入室する直前まで、部屋には大勢のスタッフがいた。しかし同階にエレベーターが到着したときには、気配すら残さずに消えていた。専属バトラー以外のスタッフが姿を見せるなど、このレベルの応接ではホテル側の恥辱である。
これは日本式の対面での気遣いの対極にある、『存在を感じさせないことが最大の誠実である』という英国式の美学だ。
仄火はリビングまで戻ると、リトルブラックドレスを脱ぎ散らかす。縫い目に隠したファスナーを下げて、肩から滑り落ちたワンピースを長椅子へと放る。シルク製のタイツとキャミソールをはぎ取り、下着まで脱ぐと完全な全裸だ。
無防備にさらされた肌は、陶磁器のように白かった。染みのない肌は照明に照らされ、内側から淡く発光しているようだ。腹筋が浮かぶほど脂肪は薄くて、女性的な曲線はほとんどない。青い静脈が樹形図のように透けて、浮き出た鎖骨はガラス細工のようである。
少女らしい細くて白い躯体に、冷たい大鎌の印象が同居しているようだ。
楽しげにバスルームに取って返すと、思い切りよく浴槽へ飛び込んだ。静かな水面は一瞬にして崩れ、厚く積層していた白泡が宙を舞う。許容量を超えた湯があふれ出して、イタリア産の大理石が水浸しでも一顧だにしない。
和式の作法であるかけ湯など、最初から頭にもなかった。自らのためだけに用意された湯を、作法や節度を無視して使い潰す。豊かな泡が肌を包み込み、不愉快な熱気を洗い流していた。
隣の部屋に誰がいるのか知らないが、あんな粘着質なオペラは趣味ではない。昭和の演歌みたいな重たい感情など、時代遅れもいいところだ。重たくて熱量のある情念なんて、圧倒的なまでの軽い泡で押し流す。
ラオスで虐殺した千二百人の命と、渋谷で食べたクリームブリュレは等価値だ。大統領が披露した機械の巨人も、陽織と踊った魔法少女のダンスも実体がない。
どれも等しく、煌びやかで、楽し気で――。
空っぽだ。
指先で触れれば呆気なく爆ぜて、跡形もなく消滅する。この徹底した無価値こそが世界の真実であり、救いようのない軽薄さこそが心地よさだ。
仄火は手のひらで泡を救うと、薄い唇から静かに息を吹きかけた。透明な泡が湯気に乗って上昇すると、光を放ちながら虹色に乱反射する。
「命は泡のように軽い」
世界はもっと、軽くなるべきだ。
虹色の被膜が弾ける光景を、満足気でありながら酷く冷淡に見上げる。そのまま浴槽の深みに身を沈めると、豊潤な泡の底へと潜っていった。
世界が軽くて無価値だからこそ、無限の狂気と愉悦を注ぎ込む価値がある。
§
高級ホテルのロイヤルスイートは、暴力的なまでの歌声で蹂躙されていた。鼓膜を突き刺すほどの大音響が、窓の強化ガラスを叩きつけている。エンリコ・カルーソーによる優雅なオペラは、もはや芸術ではなくノイズへと破綻していた。
熱湯のシャワーで汗を流した男が、湯気の渦を背負って姿を現した。浴室からの水煙がなだれ込み、鍛え抜かれた体から湯気が立ち昇っている。髪の毛を奇抜な色に染めた、年齢不詳の白人だった。
上腕から首筋にかけての筋肉は、鋼鉄のワイヤーを束ねたようだ。忌まわしき経歴を物語るように、肌には無数の古傷がある。不規則な銃創、刃物による刺し傷、そして執拗な拷問により、皮膚は歪んで治癒していた。
まるでグロテスクな勲章を提げて、地獄から這い上がった亡者のようだ。
壊人鳥。
奇妙な二つ名ではあるが、それがこの男を表している名前である。
純金で飾られた白大理石の化粧台には、彼の化粧道具が整然と並んでいた。指先で大量の白粉をすくい上げると、自らの顔面に執拗に塗りたくる。慈しむように頬の輪郭を撫で、過去を抹消するように眉を消す。素顔が完全に隠蔽されるまで、この神聖にして冒涜的な儀式は続けられた。
白く塗り潰した人相に、筆を用いて血のような紅が差される。唇の形を大きく無視して、耳まで裂けるほど歪なラインを描く。鏡の中に完成した顔は、常に嘲笑を浮かべる異形の怪物だ。
仕上げに殺した人数を記すように、片側の頬に涙マークをペイントした。
「……うん、ファンタスティック」
独特の粘り気を帯びた声で囁き、几帳面に吊るしてあったスーツをまとう。米国の駄菓子を連想させるような、毒々しいまでに悪趣味な色彩だ。常人が着れば滑稽な道化でしかないが、壊人鳥の異様なオーラにより昇華を果たす。猛毒を持つ生物の警告色のように、触れれば死ぬと全身で血を吐いていた。
戦化粧を済ませた壊人鳥は、ステップを踏むように窓辺へと進む。眼下二百メートルの深淵に広がるのは、一千四百万の命が密集する東京の夜景だ。首都高を奔る無数のヘッドライトが、血管を流れる血潮のように脈打っている。
平和で、秩序正しく、清潔で、安全で――。
死体のように冷え切っている。
エンリコ・カルーソーの絶唱は、情熱的な質量を伴って室内を圧迫していた。旋律は精密な和音の域を超え、神経を逆なでする不快な振動へとなり果てた。壊人鳥は冷たいガラスに額を押し付け、愛惜を込めるように目を細める。内側で煮え滾る溶岩のような体温が、吐息となってガラスを曇らせていた。
「大層な街だぁね。美しくて、繊細で、まるぅでお菓子の城だ」
魂の熱量は生命維持の領域を脱し、まるで燃え盛る太陽のようだ。白粉によって固定された異形の嘲笑が、窓ガラスに反射して東京をあざ笑う。舌なめずりをする微かな音が、狂騒のオペラに伍して室内に響いた。
「命は熱のように重い」
世界はもっと、重くなるべきだ。
だから価値ある命を火にくべて、冷え切った底まで燃やしてしまおう。沈んだ太陽を奈落から引きずり出して、この欺瞞に満ちた国を白日に焼き晒す。壊人鳥が秘めた超重量の情念が、男の魂を重熱なる黎明へと変貌させていた。
大仰に舞う。
世にはびこる全ての軽さを侮蔑して。
「さあ、始めようじゃなぃか、ライジングサン! 極東の地平を割り、呪わしき陽を昇らせろ! 沈んでしまった太陽を、狂おしいまでに輝かそう! 忘れ去られた獄熱の焔を、冷えた世界に燦爛と灯すのだ!」
それは夜明けを願う祈りではなく、終末を招く呪詛であった。劇場に君臨する怪人のごとく、両腕を広げて開幕を宣言する。地獄の底から響くように、粘着質でありながら熱量を孕んでいた。
壊人鳥にとって東京の煌めきは、火にくべて燃やすための燃料に過ぎない。この怪物が日本にもたらすのは、灼熱に蒸発する情念の祭典である。
地獄のごとき熱で衆生を焼き、もっとも醜悪で美しいショーを披露するのだ。




