Scene 混迷の大人たち
東京は最低限の命脈を保ちながら、魂が抜け落ちた廃墟と化していた。
送電網や水道といった、インフラだけが無機質に稼働を続けている。誰もいない交差点で、信号機が律義に赤青を切り替えていた。路上には乗り捨てられた乗用車が列をなし、血栓のように都市の動脈を塞いでいる。街頭の大型ビジョンは青白い光を放ち、無人の路上に向けてCMを垂れ流し続けていた。
『直ちに健康への影響はない』
『放射線量は平常値』
『冷静な行動を』
首相が何度もメディアに出てきて、日本国民へ直接呼び掛けている。実際のところ政府の説明は正しいのだが、そんなものを信じる民衆などいなかった。国民のパニックを防ぐために、政治家が嘘をついているとしか映らないのだ。
『外を歩けば死の灰を浴びる』
『雨が降ったら即死する』
科学的には明確なデマだが、常に正しさが勝つとは限らない。
誰しもが夕闇を青空に変えるほどの閃光と、成層圏に達するキノコ雲を目撃したのだ。大地を震わせた地響きの記憶は、原始的な恐怖を人々の魂に焼き付けた。家から出れば放射能にやられると信じ込み、あらゆる社会活動が停止した。学校、会社、商業施設に至るまで、街のすべてが重々しいシャッターを下ろしたままだ。
炸裂した核爆発の余波は、日本の国土ではなく精神を焼き払った。海域が丸ごと蒸発するほどの暴威を見せつけられて、冷静でいられる日本人などいない。まして次のテロを予告されている都民など、正気を保っていられるはずもなかった。
自衛隊を動かすには厳格な法的根拠がいるが、総理大臣の態度はいまだに煮え切らない。官僚は分厚い有事法制のマニュアルを、一心不乱に読み込んでいる。
防衛出動の要件を満たすのか。
それとも警察権の延長である治安出動でしのぐのか――。
いずれにしても治安出動ですら、過去に発動されたことのない伝家の宝刀だ。前例のない事態に誰一人として決断を下せず、刀を抜けずに立ち往生していた。
『卑劣なテロを断じて容認せず、政府の総力を挙げて対処する』
首相は勇ましく公言しているが、警察や自衛隊に具体的な命令はない。自衛隊には戦闘準備を命じて、警察に『核兵器を探せ』と言っただけである。なぜなら壊人鳥の居場所を特定できず、核弾頭を探し当てる情報体制もないからだ。
都心に核兵器を持ち込まれた時点で、探し当てるなど無理筋である。威力の高い大型核弾頭だとしても、ワンボックスカーに余裕で収まるのだ。警察を筆頭にすべての国家組織を投入しているが、しらみつぶしにするには時間がまったく足りない。
タイムリミットはたった72時間だ。
三日後には都心を吹き飛ばすと予告されている。
『家の前に不審な車がいる』
『隣人の荷物が怪しい』
『見慣れない外国人がいた』
通報はすでに百万件を超えたが、その99.99%が無価値である。都民が防衛への協力などするわけもなく、最優先は自分と家族の命である。
そうこうしている間にも、時間は平等かつ無慈悲に過ぎていく。大人たちが金切り声を上げて会議室で空転している間にも、かつて世界で最も安全とうたわれたメガロポリスが壊れていく。
今や東京は時限爆弾を巻き付けられた、死ぬ間際のただの棺桶である。
最高権力者である首相や閣僚が、都民を置き去りにして逃げるなど絶対に許されない。天皇陛下ですら皇嗣だけを疎開させて、本人は皇居に残っているのだ。
『天皇陛下は国民と苦難を共にされる。強いご意志に基づき、皇居に留まられる』
『しかし皇嗣殿下におかれては、万一にも皇統の断絶を防ぐため、国家統治の危機管理上、やむを得ず安全圏へご動座いただく』
宮内庁は堂々と発表したが、冷静に考えるとグロテスクな正論である。一見すると陛下が残ってくださった美談だが、血統だけは都民を見捨てて逃がした。
電力網の自動制御が機能したおかげで、ライフラインは皮肉なほど快適である。壊人鳥が何かの細工をしたらしく、家電は電磁パルスの影響を免れていた。蛇口をひねれば清浄な水が出て、コンロに火がついて料理もできる。通信インフラに至っては平時より快適なほどで、インターネットの速度は落ちる気配すらない。
だがどれほど神経系が健常であろうとも、肉体に活力を送るための血液は完全に干上がっていた。電磁パルスを浴びて沈黙した車両は、身動きを奪われて次々と路上に乗り捨てられた。
それらが主要な幹線道路を塞ぎ、都市の流通網を麻痺させてしまった。都内の配送センターは身動きが取れず、コンビニやスーパーにも一切の入荷がない。
菓子パンやカップ麺、ペットボトルといった飲食品は、半日もしないうちに姿を消した。今はむき出しのスチール棚が、白々と蛍光灯の光を反射するだけだ。
自宅の部屋には明かりが灯り、水もトイレも困らない。手元のスマートフォンに指を滑らせれば、際限のない阿鼻叫喚が渦巻いていた。
『放射線測定器の数値が間違っている』
『我々は政府にだまされている』
『死ぬ! みんな死ぬ!』
警察への罵倒。
終末論の妄言。
極めて良好な通信環境のおかげで、皮肉にも世界の猛毒がそのまま網膜へと流れ込んでくる。
都民は最低限の生存こそ保障されているものの、逃げ場のない部屋の中で身動きが取れない。手元のガラス板から絶望が這い寄り、徐々に神経をすり減らしていく。国民の精神を効率よく追い詰めるための、清潔で孤独な地獄が完成していた。
無論、東京を隔離する壁を立てたわけではないため、自らの足で県外まで脱出を試みた者もいる。
だが安全圏まで逃げ切れたのは、せいぜい全体の5%がいいところだ。1,400万人もの人口が一晩で移動するなど、どう計算しても絶対に不可能である。
東京から郊外に抜ける幹線道路は、数万台の車が立ち往生していた。線路にはシステムを焼かれて急停止した電車が、数珠繋ぎになって沈黙している。空港も管制機能を喪失しているため、全便の離着陸がキャンセルされていた。
都心から安全圏まで逃げるには、最低でも40キロメートルの移動が必要だ。車が使えない以上、その距離を徒歩か自転車で踏破しなければならない。
身軽で健康な若者ならいざ知らず、家族に子供がいたら困難を極める。四月の夜なら一桁まで気温が下がるため、高齢者にとっては事実上の死の行軍である。足元はたちまち靴擦れを起こし、重たい赤子を抱えた腕は麻痺していく。
『甲州街道は人が多すぎて進めない』
『水が手に入らない』
『路上で人が倒れている』
『救急車も警察も来ない』
スマートフォンの画面を見れば、街道で起きた惨状が次々に流れてくる。埃まみれの路上で力尽き、脱落者たちは虚無的な瞳でガードレールに寄り掛かる。効率的であったはずの自転車も、パンクが相次いで徒歩の避難者に強奪される。容赦のないライブ映像を目撃したことで、家に残っていた者たちは籠城する道を選んだ。
外の世界は混沌と絶望に覆われているが、少なくとも家の中には最低限の快適さがある。熱い湯船に浸かることはできるし、エアコンすら問題なく動いている。
だからこそ窓枠の隙間をガムテープで目張りし、昼間から雨戸を閉ざして自宅に引き籠もった。放射能と疲労困憊で野垂れ死ぬくらいなら、おとなしく不条理な嵐が過ぎ去るのを待とうとしたのだ。
『家で静かに待っていれば、きっと警察か自衛隊が解決してくれる。だって政府がそう言っているから』
政府の言葉を頭から疑うくせに、政府が解決してくれることを信じている。手元のスマートフォンを握り締め、甘ったれた希望を後生大事に抱えている。自らの生殺与奪を他人に預けるような人間が、生死の瀬戸際で生き残れるはずがないのに。
§
東京、新宿中央公園。
林立する超高層ビルの谷間に、ぽっかりと穿たれた人工の緑地帯である。普段なら昼休みの会社員や、大勢の観光客が行き交っている場所だ。
だが今は都庁のツインタワーが落とす影の中を、肌を刺すような寒風が吹き抜けるばかりだった。植え込みの木々が乾いた音を立てて揺れ、吹き溜まりの枯れ葉がつむじ風を描いて転がる。
墓地のような空気が淀む一角に、急ごしらえの仮設テントが立っている。その中には「社長」と呼ばれる、三十過ぎの男性がパイプ椅子に座っていた。
長身痩躯の背中を小さく丸めて、眼鏡をかけた瞳は虚ろにさまよっている。剃っていない無精髭が、顎の周りに浅黒く生えていた。皮脂の浮いた土気色の顔色は、土中から這い出てきたゾンビのようだ。
社長が静寂を破るように、高性能ノートパソコンのキーボードを叩く。押し込んだエンターキーに反応したのは、足元に転がっていた小型ドローンだ。
野球ボールほどの黒い球体から、微かな高周波の回転音が響き渡る。バウンドするように鋭く跳ね上がると、社長の目線の高さで静止してホバリングした。
ドローンから放たれた高輝度のレーザー光が、カーテンのような光の幕となってテント内を薙ぎ払う。殺風景だった内部が、それだけで劇的に様変わりした。
霧が立ち込める深山のような、水墨画じみた景色が現れたのだ。峻険な稜線の合間を、緋色の金魚の群れが優雅に泳ぎ回る。レースのような尾びれを揺らしながら、魚群となって光の粒子をまき散らしていた。
「……綺麗だなあ。完璧じゃないか」
ひび割れた社長の唇から、乾いた感嘆が漏れる。
最新鋭の高輝度パルスレーザーと、網膜の残像効果を応用した立体ホログラムだ。天幕の隙間から差し込む日差しの下でさえ、手のひらですくい取れそうな実在感がある。夜間なら本物と見分けられないほど、驚異的な解像度を発揮する代物だ。
「ちくしょう……なんでだよ……」
社長の口から投げやりな悪態が漏れ、充血した瞳から大粒の涙が零れ落ちた。ぬぐい取る気力すらすでに尽きて、流れる涙がシャツの胸元を濡らすに任せていた。
『TOKYO・ミライ・ナイトアート』
膨らみ続けるインバウンド需要を背景として、東京都が主催した国際的なメガイベントである。大々的に公募された公開コンペには、大手の広告代理店や名だたる大企業がひしめいていた。
社長の率いる零細ベンチャーは、独自の技術力で勝ち抜いた。都が莫大な予算を投じた一大プロジェクトにおいて、運営のすべてを一手に任されたのだ。
皮肉にも数千機に及ぶドローン機材は、故障することなく生き残っていた。保管場所だったスチール製の金属コンテナが、図らずも電磁パルスを遮断したからだ。コンテナがファラデーケージとなって電磁波を受け流し、専用ケースにしまってあったドローンまで届かなかったのである。
0.1秒単位で数千機ものドローンを統制し、広場全体を包み込む指向性の立体音響と同期させる。重力を無視するような光の乱舞が、新宿のビル群を巨大なホログラムアートへと塗り替える。
……はずだった。
昨日のリハーサルも完璧に終わり、天気予報も文句なしの晴天だった。本来なら今日の今頃、社長はメディアの単独インタビューを受けていたはずだ。無数の観客とカメラに迎えられ、華々しいオープニングの幕が上がる手はずになっていた。
「ちくしょう……」
人間は激しい失意に見舞われると、語彙も極端に単純化するらしい。悪態のバリエーションすら尽き果て、ただ同じ怨嗟を無目的に反芻していた。
ノートパソコンの脇にあるサブモニターには、YouTubeの動画が開いたままになっている。動画のサムネイルに大写しになっているのは、たった一晩で見慣れた狂気のピエロだ。
アップロードされてから一晩で、再生カウンターは1,000万回を突破している。地球の裏側までその悪名を轟かせたのは、もちろん壊人鳥の犯行声明だ。
動画の右側に表示されたコメント欄は、文字通りの地獄絵図である。毎秒数十件という狂ったペースで、複数の言語による悲鳴の濁流が流れていく。
『東京が死んだ』
『逃げろ』
『政府は嘘をついている』
『核だぞ』
充血した目で眺めていると、昨日の光景が鮮明に蘇った。リハーサルを終えた社長は、マクドナルドでハンバーガーをかじっていたのだ。高層ビルの合間から見上げる夕空が突如として発光し、あの瞬間から世界のすべてが変わってしまった。
ネクタイを乱した都庁の職員たちが、青ざめた顔で庁舎へ駆け込んでいくのを何人も目撃した。核テロに対処するために、知事を筆頭に招集されたのだ。
しかし大慌てで集まった割には、エリートたちが出した結論はあまりに情けないものである。街頭スピーカーやスマートフォンの防災速報から、判で押したような文句が機械的に繰り返されている。
『家から出ないでください』
『落ち着いて行動してください』
『水と食料を手配しています』
テントの隙間から見上げれば、都政の中枢である都庁がそびえ立っている。広い青空を鋭利に切り裂くように、ツインタワーが冷酷な威容を放っていた。
『家から出ないでください。通報されても、救助には行けないから』
『落ち着いて行動してください。怪我をされたら、見捨てるしかないから』
『水と食料を手配しています。いつ届くか、誰にも分からないけれど』
警察と消防は核兵器の捜索で手一杯で、市民の通報に割ける人員はいない。救急や病院にしても機械が使えなければ、できることは一般人と大差ない。物資にしても物流が止まっては、東京にまで運び込めないのだ。
東京都が並べ立てる対策とは、つまり『何もできない』という意味である。無責任で無意味な安心の言葉を、耳が腐るほどしつこく言い聞かせているだけだった。
「みんな、無事に逃げられたかなあ……」
私物のスマートフォンを操作し、家族用のチャットグループを呼び出した。妻に送った短いメッセージが、既読の付かないまま画面に取り残されている。
今朝方、妻の父親が血相を変えて、自家用車で乗り付けてきたのだ。電磁パルスが届いていない長野から、下道を通って11時間もかけて上京してきた。首が据わったばかりの息子と一緒に、一目散に実家へと連れ帰ってしまった。
先ほど確認した首都高のライブ映像は、死んだ大蛇のように微動だにしていなかった。金属の墓場と化した車列を抜けて、無事に実家へたどり着けただろうか。
もちろん、イベントは木っ端微塵になった。
三名いた正社員は申し訳なさそうに、何度も頭を下げながら帰っていった。メインステージに立つ予定だったアイドルグループは、苦境にもめげずに自転車で走り去っていった。短期のアルバイトで雇った大学生など、安否確認を送った瞬間に既読無視からのブロックである。
だがこの終末めいた惨状にあって、彼らの不義理を責めるつもりはない。
社長は昨夜のうちに、全員を家に帰すと決めていたのだ。
『機材の番は俺がしておくから、君たちは家族を連れて逃げなさい』
上役としての面目を保つため、無理やり作った笑顔で見送った。しかしその実態は頭が真っ白になって、次に何をするべきか見当もつかなかっただけである。
社長の会社は三年前に登記を済ませたばかりの、吹けば飛ぶような零細ベンチャーである。大企業のような潤沢な内部留保があるわけでもなく、後ろ盾になるような親会社も存在していない。
だからこそ都から任された今回の大役に、持てるすべてを注ぎ込んでいたのだ。社運どころか人生すらも掛け金にして、テーブルの上に積み上げていた。
公庫と銀行に何度も頭を下げ、数千万円もの借金をして機材をそろえた。その虎の子を置き去りにして逃げるなど、社長の心情としてできるはずもない。万が一にでも略奪などに遭えば、会社には返済不能な負債だけが残ってしまう。計算機をたたくまでもなく、倒産の二文字が明滅していた。
責任感から現場に残ったわけではないことを、情けないほど自覚している。人生のすべてを注ぎ込んだ夢の残骸から、指を離す勇気を持てなかっただけだ。
「……保険、下りるのかな。戦争とかテロは免責事項とか言われたら、その瞬間に破産だぞ……」
スマートフォンのアルバムを呼び出せば、生まれたばかりの我が子と妻の写真が表示される。学生時代からの大恋愛の末に結ばれて、慎ましくも温かな家庭を築いたつもりだ。信頼こそがビジネスで最大の資産だと信じて、あこぎな中抜きや買い叩きもやらなかった。税金もきっちりと納めて、ひたすら誠実に働いてきたのだ。
「その結果がこれかよ……。あんなに頑張って生きてきたのに、なんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ……」
妻にも顔向けできないし、義父のあの様子だと離婚すらあり得る。
冷たい突風がテントを揺らし、無遠慮に布地を鳴らして吹き抜けていった。真面目に生きてきた男の人生そのものが、激しい風に吹き飛ばされていくようだ。絶望的なまでに巨大な暴力を前にしたとき、一介の小市民に抗う力など何ひとつない。
寒風吹きすさぶテントにいたせいで、冷え切った膀胱が限界を告げていた。社長は強張った膝をさすりながら立ち上がると、数十メートル先にある公園の公衆トイレに向かった。
乾いた枯れ枝を残す植え込みに沿って、千鳥足で進みながら車道を見渡す。かつて世界で最も過密だった、新宿副都心の面影など微塵もなかった。
ビル風に舞い上がったレジ袋が、無人の歩道を滑っていく。不夜城だったはずのコンビニは薄暗く沈黙し、食料と日用品の棚だけが空っぽだ。中途半端に開いたドアから入り込んだのか、一匹の野良犬がレジカウンターの前をうろついていた。
「……ん?」
不意に視界の端を、異様な色彩がよぎった。
「人が残ってる?」
ゴーストタウンのような死んだ街に、嫌でも目に付くほどの色彩があったのだ。まるでうららかな春の散歩でも楽しむように、平然と歩道を闊歩していた。
顔面を隙間なく白塗りにし、毒々しい蛍光色のスーツを着込んでいる。革靴の踵をリズミカルに鳴らして、奇天烈を極めた怪人物が歩いていた。
壊人鳥である。
数百万人もの都民を人質に取り、今まさに国家を震撼させている張本人だ。口笛でオペラのメロディを吹き鳴らし、踊るように都庁の方向へと進んでいる。
「……っ、ひ、ぃ!」
社長の喉の奥で声が引きつり、喉笛を引っ掻くような音が漏れた。元から悪かった顔色が蒼白に変わり、全身の血が足元へと一気に抜け落ちていく。さっきまでパソコン画面で見ていた悪魔そのものであり、実物は周囲の空気すらも捻じ曲げる狂気の波動を放っていた。
逃げなければ。
空想の産物だった現代の核兵器を、日本の近海で躊躇なく起爆させた男だ。逮捕も国家権力も気にせずに、日本政府を脅迫している本物の狂人である。
公然と日本人への差別を口にし、理不尽な暴力を撒き散らす怪物だ。社長の命などか細い火のように、無造作に吹き消して嘲笑するに決まっている。
脳内の防衛本能が絶叫し、過熱した思考が一瞬で焼き切れた。しかし一目散に逃げ出そうとしたそのとき、最悪なことに壊人鳥の視線が社長を捉えた。
目が合う。
細められた白塗りのまぶたの奥で、粘着質な獣性が脂ぎっている。獲物の内臓を品定めするような、冷酷で愉悦に満ちた視線だった。
紅を引いた唇が舌舐めずりをして、三日月のように大きく吊り上がる。
「あ、あ、が、あぁ……!」
膝から完全に力が抜け、その場に無力に尻餅をついた。尾てい骨を強打する衝撃すら感じないほど、パニックと焦燥感が全身を支配していた。社長は赤ん坊のように手足をばたつかせ、必死の形相で背後の低木へとにじり寄る。
とにかく隠れるのだ。
奴の視界から消えなければ。
枯れ枝の茂る植え込みに両手を突っ込み、擦り傷も構わずに頭から潜り込んだ。外から見れば下半身は丸出しで、隠れるどころか格好の的でしかない。だが極限の恐怖に呑まれた脳には、自分を客観視する余裕など残されていなかった。
息を潜めようと唇を噛むが、激しく乱れた呼吸を抑えることができない。肋骨の下で暴れる心臓が痛いほどで、耳元でドラを乱打されるように心音が轟いていた。歯の根が合わずに、口元からカチカチと音が鳴る。意識が遠ざかりそうになったとき、張り詰めていた最後の糸がぷつりと切れた。
冷え切っていたジーンズの股間に、生温かい熱がじわりと広がる。もともと限界だった膀胱が勝手に緩み、小水を無残に撒き散らしてしまったのだ。
「……ぁ……ぁぁ……」
静寂に包まれた公園に、情けない水音が響き渡った。人生で懸命に積み上げてきた自尊心が、温かい液体と一緒に冷たい地面へ流れ出していく感触だった。




