Scene 顔だけの父親
ヴィクトル・リンドベリは、神が彫塑したような美丈夫である。国籍はデンマークの白人で、冷徹なインテリめいた三十六歳だ。
アイスブルーの瞳は透明な愁いを帯びて、輝くようなプラチナブロンドを整髪料で固めている。イタリア製の最高級スリーピースを抜群に着こなし、ただ座っているだけで映画のように絵になる男だ。
だがその極上すぎる外見とは裏腹に、ヴィクトルの精神はしおれた野菜のように干乾びていた。リムジンの後部座席に深く沈みながら、背中を丸めて胃のあたりをさすっている。ヴィクトルはここ一年ほど、慢性的な胃痛で悩んでいた。
つい先ほどまで、慌ただしく仕事中だったのだ。ブラックアイアン日本支社の社長室で、山積みの決算書類と格闘していた。これほどデジタルが普及した時代に、書類から離れられない因習を憂う。
そんな忙しくはあるが平穏な日常を、たった一本の連絡が粉砕した。
『パパ、迎えに来て』
文面はたったこれだけで、自分の居場所すら書かれていない。ヴィクトルのほうで調べて、出迎えるのが当たり前だと信じ切っている。
そして何よりも悲しいことに――ヴィクトルに拒否権はない。
サインの途中だった書類を涙目で放り出し、車を飛ばして渋谷まで急行した。
「……行かねば」
スターバックから居場所を聞いたので、彼女がいる場所はすぐにわかった。黒塗りのメルセデスベンツが減速して、滑るように路肩に車体を寄せていく。
深呼吸。
人目がないリムジンから降りたら、臆病で小市民のヴィクトルは許されない。胃痛をこらえて背筋を伸ばすと、眉間に皺を作って眼光に力を込めた。
かつてボスに当たる人物が、ヴィクトルに言い放った言葉がある。
『ハードボイルドの仮面だけに価値がある男』
裏を返せば素顔のヴィクトルには、生きる価値はないという宣告である。人前では決して仮面を外さずに、尊大な態度でいるように命令された。
繰り返すが――拒否は許されない。
表情筋を凍てつかせて、胃痛も意志力でねじ伏せる。目線は誰とも合わさず、ただ虚空を見据えればいい。あとは重苦しい沈黙を維持するだけで、周囲は勝手に『底知れない大物』だと畏怖してくれる。
密かに『ゴッドファーザー・メソッド』と名付けた、彼だけの処世術だ。
メルセデスが完全に停車すると、自動で後部座席のドアが開く。ヴィクトルは重力を確かめるように鷹揚と、磨きぬかれた革靴でアスファルトを踏みしめた。すぐに後続の防弾SUVから、護衛の黒服が下りてきて付き従う。
若者たちの喧騒が満ちるスペイン坂に、黒塗りの異物が乗り付けたのだ。通行人は物珍しげに眺めていたが、ヴィクトルを見た瞬間に視線を逸らした。
明らかに堅気ではない。
どう見てもマフィアの親玉か、冷酷非情な殺し屋である。
ヴィクトルは無言で、目的の喫茶店に踏み入った。彼はただ入店しただけだが、店内の空気が激変したのが分かった。店内のざわめきが瞬時に途絶え、誰もが驚愕に目を見開いてヴィクトルを凝視する。談笑していた女子学生も、休憩をしていたサラリーマンも停止した。直後に慌てたように目を逸らし、頑なに視線は向けない。それでいて一挙一動に注意を払っているのが、確認せずとも気配だけでわかる。
関わってはいけない。
目が合えば殺される。
ヴィクトルが放つ圧倒的なオーラと威圧感が、雄弁にそう物語っていた。なおヴィクトル本人の意識としては、ただ胃痛が酷くて顔色が悪いだけである。
静まり返った店内で、一人だけヴィクトルを直視する女の子がいた。
「パパ、こっち」
仄火である。
周囲の客がまた驚いて、目を見開いて仄火とヴィクトルを見比べる。ヴィクトルは彫刻のような白人の男で、仄火はあどけないアジア系の少女だ。
一目瞭然に血縁ではなく、ゆえにパパという単語が別の意味になる。視線に含まれた好奇心と嫌悪感に、ヴィクトルの胃痛がまた重くなった。
人前でパパと呼ぶのはやめて欲しい。
まるで犯罪組織の首領が、人身売買で子供を買ったようではないか。あるいは特殊な性癖を持った富豪が、怪しい売春をしているとも取れる。
いずれにせよ、ヴィクトルには不本意だ。
なぜなら書類上は正真正銘、ヴィクトルは仄火の養父である。もちろんこの二人に血縁はないが、法的には疑う余地のない父娘なのだ。
ヴィクトルが席に向かおうとしたとき、懐のスマートフォンが振動した。画面を見ると秘書のアンナからで、出ないわけにはいかない通話である。待たせている仄火を気にしたが、電話に対応しても構わないといった態度だ。
だからその場で通話ボタンを押すと、バリトンの低い声で最小限に話した。
「……私だ」
『社長、先ほどの決裁書類ですが』
アンナの声は冷たい。
『三枚目のサインが抜けています。これでは処理できません。何度言えばわかるんですか? あなたは脳みそが足りないんですか?』
辛辣な小言である。
『あと六枚目はサインの場所を間違えています。これは書き直しです』
「……ああ、わかった。すぐに片付ける」
もちろん失敗した書類の話だ。
『これ社外秘なんですよ?』
「……痕跡は残さない」
シュレッダーにかけるという意味である。
『何度も刷り直す、私の身にもなってください』
「……問題はない。適切に処理する」
自分でゴミ捨てをする、という悲しい宣言だ。
まさに社畜の悲哀そのものだが、周囲の客には違った意味に聞こえた。
『片づける』
『痕跡は残さない』
『処理する』
羅列される不穏な単語に、誰もが青ざめて下を向いた。恐るべきオーラを放つ男の台詞に、死体処理の話だと勘違いして震え上がっている。
通話を切ったヴィクトルは、深く重いため息をついた。その姿は一仕事終えた後の殺し屋が、避けられぬ雑務として、死体の処理に辟易しているようだ。
ヴィクトルは懐に手を入れると、純銀製のケースを取り出した。高級なシガレットケースか、あるいは非合法な薬物が入っているようだ。
慣れた手つきでケースを開くと、白い錠剤を取り出して口に放り込む。錠剤はただの強い胃薬だが、店内の人々は合成麻薬だと確信した。MDMAを常飲するような、ジャンキーの殺し屋と隣り合っている。奥歯で噛み砕くと苦みが広がり、乾いた口内が水を欲している。
おりしも両手に水のグラスを持って、大学生の女性店員が厨房から出てきた。間近でヴィクトルと目が合って、「ひぅ!」と妙な悲鳴を上げて硬直する。彼女が立ちすくんだせいで、ヴィクトルは水をもらえると勘違いした。
両眼を見開いている彼女の手から、水の入ったグラスをそっと抜き取る。その場で飲むと食道を流れる冷水が、焼け付いた胃壁を慰めるようだ。
ヴィクトルは日本人らしいこまやかな心遣いに、真心から耳元で囁いた。
「……You saved my life.」
直訳すれば『君は命の恩人だ』といった、感謝の言葉になる。
だがヴィクトルの風貌と眼光が、意味を最悪な方向へと捻じ曲げた。英語がわかるらしい彼女は、顔から血の気が引いて真っ青になる。
『今回は見逃してやる。命拾いしたな』
非情な殺し屋から目撃者に対しての、口封じのような意味合いで受け取った。彼女は涙目で何度もお辞儀をすると、脱兎のごとく厨房へと逃げ去っていった。
§
連れ立って店を出ると、停車してあったリムジンに乗り込む。広々とした後部座席に陣取り、シートベルトを締めると発車した。スターバックの完全自動運転で、無人の運転席ではハンドルが勝手に動いている。
不作法に両脚を投げ出した仄火は、手元のスマートフォンに没頭していた。一時期に流行った果物を落下させて、合体させるパズルゲームを遊んでいる。正確無比な指さばきでスイカを作りながら、仄火は独り言のような気楽さで指示した。
「そういえばパパ。今度、友達と食事に行くから、お店の予約をしておいて」
車内に沈黙が下りる。
胃の痛みは若干だが引いたため、ヴィクトルは深く息を吸い込んだ。
「……ボス」
「なに」
「そのような雑務は、俺ではなくスターバックに命じてください。俺が手配するよりも、一万倍は速くて正確でしょう」
ヴィクトルの声ににじんでいるのは、小市民としての一般常識である。屈強な男でも震え上がるような、迫力のある美声が台無しだ。
仄火はスマホの画面から目を離すことなく、雑務のように切って捨てた。
「やだ」
「なぜですか」
「パパをいじめたほうが楽しいから」
一切の理屈を排した、あまりにも純粋な悪意だった。ヴィクトルは胸元に下げた十字架のネックレスに手を当てて、天にいる神を仰ぐように目を閉じる。
「主よ……。敬虔なキリスト教徒である俺が、何をしたというのですか……」
「詐欺と泥棒」
ぐうの音も出ない。
何も言い返すことが出来ない、完全無欠の正論だった。
……ヴィクトルが『ボス』と呼んでいる相手は、隣でゲームに興じている仄火のことである。なぜ良い歳をした大人の男が、こんな小娘に平身低頭なのか。
もっともな疑問ではあるが、おいおい説明するので今は気にしなくていい。
「お店は肉料理がいいかな。あいつマッスルの塊だし」
気を取り直す。
仄火が命令している以上、ヴィクトルに従う以外の選択肢はない。
「差し支えなければ、お友達とはどなたでしょうか?」
これは好奇心からの発言ではなく、食事では把握しておくことがある。肉料理なら菜食主義ではないだろうが、豚肉の禁止や食物アレルギーの配慮は必要だ。
「陽織ちゃんですか?」
「違う。大人のおじさんだよ」
いぶかしむ。
仄火の交友関係など関知していないが、女子中学生とは不釣り合いだ。
「その方は友達なんですか?」
「パパも知ってると思うよ。アレックスっていうやつ」
知らない。知人にそんな男はいない。
「……どなたで?」
「ほんとに知らない? アレクザンダー・ロールス・ジュニアだけど?」
息を飲む。
ヴィクトルの知り合いではなくて、名前自体がとても有名な人である。決して聞きたくない人物が出てきて、どうも真実らしいことに目まいを覚えた。
アメリカ合衆国の大統領である。
アレクザンダー・ロールス・ジュニアとは、現職の合衆国大統領のフルネームに他ならない。ここ数日ほどのニュース番組では、数年ぶりに公式来日を果たすとこぞって報道していた。
「パパって会社の接待で、有名なお店を食べ歩いてるよね? 場所は都心ならどこでも良いよ、豪華で美味しいお店を適当に選んで」
まるで外出する家族に対して、「ついでに牛乳買ってきて」と頼むようだ。口調は極めて気楽なのに、言っていることは正気の沙汰ではない。
ヴィクトルの鉄壁の表情筋さえも、微かに痙攣を起こすほどの非常識だ。世界最高の権力者との会食を、事前の調整もなしにねじ込もうとしている。そして何よりも恐るべきことは、『仄火ならば可能かも知れない』と思えることだ。
「ボ、ボス。本気ですか?」
「さすがにいきなり連れ出したら、向こうも困るよね? 警備の都合とかもあるだろうから、事前に先方と打ち合わせして、当日の予定を決めておいて」
「……門前払いされませんか?」
「だから友達だって言ってるじゃん。私の名前を出せば、それなりの立場の人が出てくるから」
来日中の大統領の仕事は多く、絶対に分単位のスケジュールが組んである。仄火はただ連絡をするだけで、その強固な予定表を変更できると思っているのだ。
……そして多分、おそらく出来るのだろう。
シークレットサービスが血相を変えて、肉料理屋に走る姿が目に浮かぶ。今から安全確認をして警備を変更したら、彼らに寝ている暇など無い。大統領の周囲はもちろん、予約した料理屋まで、てんてこ舞いで対応することになる。
ヴィクトルは愕然とした面持ちで、音もなく上等な座席に崩れ落ちた。
俺は何という世界に、足を踏み入れてしまったのだ……。
一般的な小市民が息を吸うには、空気からして重すぎて潰れそうだ。日常的な人付き合いの範疇に、世界的な有名人が出てくるのはやめて欲しい。小康していた胃痛がまたぶり返して、飲んだばかりなのに体が胃薬を欲している。




