Scene 世界は弾ける炭酸
渋谷のスクランブル交差点は、今日も今日とて色彩とノイズが飽和する。信号が青へと変わった瞬間、アスファルトの上を黒い濁流が広がる。無数の足音は重なり合って、都市の拍動を刻んでいた。
交差点の喧騒を横目にしながら、スマートフォンを片手に佇む少女がいた。
久世仄火。
中学に入学したばかりの十三歳で、黒曜石のような瞳を画面に向けている。無造作に散らせたシャギーショートの髪が、頭を動かすたびに軽く揺れていた。全体的に線が細くて、泡のような透明感がある少女だ。
服装は学校指定のブレザーの上から、オーバーサイズのパーカーを重ねている。チャコールグレーの制服に、緑青色のネクタイをだらしなく締めていた。足元は制服とセットになった革靴ではなく、ビビットオレンジが差し色のスニーカーだ。
「……来ない。あの子なにしてるの?」
友達が文房具を買いたいとかで、下校を少し遠回りして渋谷まで出てきた。仄火は付き合うことになったのだが、肝心の待ち人が一向に現れない。
先ほど届いたメッセージには、少し遅れるとの簡素な言葉が並んでいた。
暇も飽和しすぎると、光景を漫然となぞることになる。
交差点にあるビル群には、立体映像の投射機が設置されていた。最新のホログラフィック技術が描き出す映像は、もはや実体と区別できないほど鮮明である。
白鯨。
スクランブル交差点の直上を、数十メートルはある白い鯨が泳いでいる。初見であれば目を奪われるだろうが、慣れている通行人は目もくれない。
ビルの壁面を仮想の海面に見立て、膨大な水飛沫を飛ばしている。天に向かって優雅に身をよじり、白い巨体が弧を描いて落下した。周囲には激しい波濤がうなりを上げて、やがて白鯨は膨大な泡となって海へと消える。
ビルの陰から古風な帆船が進入して、甲板から無数の銛が放たれた。銛に繋がれたロープが幾条もの線を描き、渋谷の空を縫い合わせるように飛び交う。
回遊していた白鯨が猛然と向きを変え、正面から帆船へと突進を仕掛けた。突き刺さる銛を身震いして振り払い、圧倒的な質量で船体に激突する。木造の船体が木端に砕けて、荒れ狂う水飛沫が上空でもつれ合う。
数分の後、一切の狂乱が静まり返ると、虚空には『白鯨』という硬質なロゴタイプのみが残される。近日公開を告げるその意匠は、詰まるところホログラムを用いた映画の宣伝に過ぎない。
展開された一大スペクタクルを、仄火はボケっと最後まで見てしまった。
相変わらず待ち人は来ず、仄火は所在なく視線を投じる。
信号機の色が変わるたびに、交差点は膨大な呼吸を繰り返していた。お互いに肩をかすめるほどの雑踏なのに、決して誰もぶつかることがない。魚群のように流れていく密度は、都会ならではの奇妙な調和がある。
さて。
あまりに暇が過ぎると、人間は禄でもないことを思いつくものである。やはり人間というものは、ある程度忙しい方が建設的なようだ。
くだらないことを考えた仄火は、スマホを取り出してカメラを向けた。鮮やかな画面に映し出されたのは、無機質な景色として行きかう東京の人々である。
「スターバック、この画角で合成して。悪趣味なやつがいい」
「かしこまりました」
スマートフォンのスピーカーから、落ち着き払った男性の声がした。
スターバックとは仄火の専属AIで、秘書か執事のような役割を担っている。主の曖昧な指示を完璧に咀嚼し、想像を超える回答を導き出す。スターバックの洗練された挙動は、現在の技術水準においても優秀だ。
先ほどまで白鯨を描き出していた立体映像システムを、スターバックは瞬く間にハッキングした。法的な手続きを無視した進入ではあるが、システムのログには一切の痕跡を残していない。
交差点を行く通行人たちの頭上に、突如として鮮やかな文字が現れた。
疲れた様子の会社員の上には、明朝体で『家畜』の二文字が躍る。最新のモードに身を包んだ女性には、『賞味期限切れ』の烙印が押された。若者たちの足元に『使い捨ての弾丸 5発パック』という、安っぽい値札のような看板が付きまとう。
『ヅラ↓』
『窓際』
『奥さんに逃げられた』
ディスカウントストアのような毒々しい記号が、他者の尊厳を軽やかに踏みにじっていく。おまけに『暗証番号1234』と、機密情報まで衆目に晒されていた。
次には交差点に面したビルの壁面が歪み、仮装の窓が無数に出現する。自動小銃を構える兵士たちが整列し、一糸乱れぬ動きで通行人に銃口を向けた。一斉にライフルを発砲すると、本物と見まごう光がまたたく。そこらにいた通行人の体から、真紅の血飛沫が派手に舞い散った。
いずれも質量のないただの幻影であり、仄火による他愛のない悪戯だ。しかしながら惨劇に見舞われた群衆は、何事かと足を止めて狼狽えていた。決してぶつからないとさえ言われる交差点で、珍しいことに肩と肩が衝突する。
困惑しきった通行人を眺めながら、仄火はただひとりクスクスと笑っていた。
「ごめん、仄火ちゃんお待たせ!」
ハチ公の前を走ってきたのは、制服を着込んだ一人の少女である。
「先生に用事を言いつけられちゃって!」
鈴を転がしたような美声で、よく通る高音の響きだ。
深山陽織。
仄火と同級生の中学一年生で、見るからにお嬢様然とした少女だ。見事な姫カットのロングヘアで、背筋を真っ直ぐにした立ち姿に品がある。瞳は溶かした琥珀のような褐色で、桜色の肌には活力が満ちていた。
服装は学校の制服なので、デザインとしては仄火と同じである。ただし仄火の乱雑な着こなしとは対照的に、一点の歪みすらないほど完璧に決まっていた。
厚手のブレザー越しにわかるほど、胸元がはっきりと盛り上がっている。春の寒空だというのに生足で、顔が映るほど磨かれた革靴をきちっと履いていた。
「じゃあ行こう仄火ちゃん。ハンズで良いよね?」
「何を買いに来たの?」
「ノート。可愛いやつ」
「帰りにどこかでお茶しない?」
「なら甘いもの食べたい!」
二人の少女は再び雑踏へと踏み込み、ネオンもまばゆい渋谷へと消えていく。
§
歩道を歩いていたとき、陽織が街角の看板に目を止めた。
「あ! あのジェラート屋さん、春限定のピスタチオが出てる!」
陽織は返事も待たずに、仄火をその場に残して駆け出した。
「あ、ちょっと陽織!」
後ろから呼び止めるものの、陽織の姿はすでに店舗の中へと消えている。いつもの事態であると半ば諦観して、仄火も静かに店舗のドアをくぐっていった。
……深山陽織とは、こういう少女だ。
見た目こそ如何にもなお嬢様だが、その正体は行動力と決断力の権化である。悩むや迷うといったことを一切せずに、0.5秒で即断して走り出す。この猪突猛進こそが彼女の長所であり、致命的な短所でもある。
仄火の知性をもってしても、ときおり予測を超えてくる一種の怪獣だ。
§
数分後。
淡い色彩の店舗から出てきた陽織は、深く肩を落として落胆していた。
「売り切れ……」
「コンビニのアイスでいいじゃん」
「ダメ! 私は高級ピスタチオが食べたいの!」
陽織は宣言するや否や、自分の学生鞄を手探りする。ファンシーなケースがついたスマートフォンを取り出すと、恐るべき速度で画面を操作し始めた。
「仄火ちゃん、今日はこれから時間ある?」
「あるよ。そりゃ買い物に付き合うくらいだし」
「ならイタリア行こ」
「は?」
「本場のジェラートを食べに行こう」
陽織は真顔で言いきると、数秒もしないうちに予約サイトに滑り込む。一時間後に成田からの直行便を見つけると、最低限の確認として仄火に同意を求めた。
「仄火ちゃん、この飛行機で良いよね? ビジネスだけど、二席空いてる」
「いや、陽織。もう疑問しかないんだけど?」
「どこに疑問があるの? 私は当たり前のことしか言ってない」
全てが狂っているのだ。
その常軌を逸した行動力は、慣れたつもりでも意表を突いてくる。
「イタリアまで片道で十三時間かかるよ?」
「わかってるよ」
「今日はもう夕方だし、明日も学校があるんだけど?」
「大丈夫。地球の自転を追いかければ、時差で何とかなるから」
何ともならない。
陽織は物理法則を舐めているし、ズル休みという不名誉が待っている。
陽織が予約の確定ボタンを、まさに押そうとした瞬間だ。通行人を押しのけるほどの勢いで、背広姿の男たちが飛び出してきた。
「お、お嬢様! お待ちください!」
陽織の護衛として付いている、陸上自衛隊の中央警備隊だ。無線を通じて会話を盗聴していたのか、全員が血の気を失って蒼白な顔色になっていた。
「あら、丁度良かった。空港まで車を回してくださいな」
「なりません! いけません! 今から海外など、限度を超えています!」
「どうして? 航空券は買えますよ?」
「そ、そういう問題ではありません!」
「ならどういう問題ですか?」
「パスポートだってお持ちではないでしょう!?」
「ありますよ? ほら、鞄の中に」
陽織は悪びれる様子もなく、学生鞄から紺色のパスポートを取り出した。あまりにも用意周到な手前に、SPたちは絶望的な顔を見合わせる。教科書と一緒にパスポートを常備する女子中学生など、いったい世界のどこに存在するというのか。
ここにいたわ。
SPの責任者は悲嘆に暮れて天を仰ぐと、職務の限界を悟って膝から崩れた。
「私どもが! 私どもが持っておりません! 家に置いてきました!」
「もう。前にお願いしたでしょう? 急に海外に行くことがあるから、いつも持ち歩いて欲しいと。プロ失格だわ」
そんな事情のはずがない。
陽織の無軌道な行動を見越して、意図的に家に置いてきたのだ。もしSPまでパスポートを持っていると、陽織はコンビニに行く気軽さで出国する。
「なら今から取っていらっしゃい。空港で待ち合わせましょう」
「ど、どうかお慈悲を! 我々がお父上に叱られます! もう始末書を書きたくないんです!」
成人した大人が体裁も気にせず、二回りも年下の少女に懇願する。このSPたちは幾度となく、陽織の思いつきに命を削られてきた。必死の形相は無茶な振る舞いに巻き込まれて、どれほど苦労してきたかを物語っている。
仄火はあまりの可笑しさに堪えきれず、口元を押さえて肩を震わせていた。涙を流さんばかりの訴えを受けて、さすがの陽織も毒気を抜かれたらしい。
§
結局、渋谷のスペイン坂にある喫茶店で妥協することにした。
まず目を引くのは、カウンターに積まれた自家製スコーンの山だ。苺やチョコレートを練り込んだスコーンが、客からの注文を静かに待っている。内装は英国の古いパブを思わせ、使い込まれた木の机や椅子が並んでいた。
「だいたいね。学校の先生は頭が固いのよ」
注文した料理を待つ間、陽織は納得いかないように口を尖らせた。
「この前の数学だってそう。解き方を覚えろって言うけど、そんなのゴールデンリーフに聞けば、0.1秒で答えが出るじゃない」
「そうだね」
「知識の量も、計算の速度も、もう人間はAIに勝てない。だったら私たちが学ぶべきなのは、自分で計算することじゃなくて、AIで問題を解決する方法でしょ?」
ゴールデンリーフとは、フランスで開発された世界最強のAIだ。ゴールデンリーフの登場によって、AIは知的特異点を超えたと言われる。パソコンやスマートフォンにOSレベルで統合されたため、わずか数年で全世界に普及した。
数学どころか国家予算の編成でさえ、丸投げすれば一瞬で終わってしまう。
「なのに先生ったら、『自分の頭で考えなさい』の一点張り。解決能力じゃ足元にも及ばないのに、わざわざ自力で考える意味って何?」
現代社会の現実として、否定できない正論である。基礎体力の養成といった文脈ならまだしも、実務的には自力で解く意味はもうない。
陽織の感覚として『手計算でやれ』は、『目的地までの最短ルートを、地図を使わずに星を読んで導き出せ』と言われたようなものだ。
教師の言い分はまず『AIが使えなくなったらどうするんだ』だろうが、陽織に言わせればこの問い自体が無意味なのだ。電気が消失したときに『ロウソクの火で生活すれば良い』と説いても、経済活動にとっては何の意味もないように。
AIを道具として使いこなし、自らの限界を拡張する。その上で独力では決してたどり着けない、高みにある目標にフォーカスするべきだ。
「AIが使えない状態とか、前提として成り立ってないでしょ? だってゴールデンリーフが止まるって、大災害とかで個人じゃ手に負えない状態だもの。だから私、文科省に直談判に行こうとしたのよ。学習指導要領が間違ってますよって」
「……で、止められたんだっけ?」
「そう! お父様にお願いすれば、すぐに大臣にも会えるのに。どうして学校の先生たちは、簡単なことを難しくしようとするのかしら?」
陽織の思考はどこまでも最適解で、思い立ったらゴールまで一直線だ。学校がダメなら文科省へ、個人的なコネでさえも使い倒す。
さすがに陽織は少々極端だが、今どきの子供はおおむね同様の傾向にある。
テーブルに放置された仄火のスマートフォンは、いつの間にか動画サイトのニュースを再生していた。テレビと同時放送している報道番組では、女性アナウンサーが沈痛な面持ちで事件を読み上げている。
『――次のニュースです』
画面には地図が表示され、東南アジアのラオス北部に赤い印がついた。
『現地時間の二日前。ラオス北部の山岳地帯にある村が、正体不明の武装集団によって襲撃されました。これまでに確認された死者は千二百人を超え、その多くが女性と子供を含む、民間人であるとのことです』
画面が現地の映像に切り替わり、まだ黒炎を上げる瓦礫が映し出される。モザイク越しでもわかるほどの、死体の山が累々と積まれていた。テロップには『極めて残忍な虐殺』と表示されて、解説者が毒にも薬にもならないことを言っている。
「あ、陽織。これやったの私」
陽織は長いまつげをぱちくりとさせて、呆れたように笑った。
「仄火ちゃんってば。冗談のセンスが悪すぎ」
「そう?」
「そうだよ。こんな悲惨なこと、人間がやっていいことじゃないもの」
「逆じゃない? 人間だからやれるのよ」
「もう!」
映像では無責任な解説者が、『いかなる理由があろうとも、無抵抗の民間人の虐殺は許されません』と、薄っぺらい正義感に燃えている。
仄火は無知な妄言に、軽く噴き出してしまった。
あれが無抵抗?
民間人?
とんでもない事実誤認だ。
ラオス北部はゴールデン・トライアングルと呼ばれる、麻薬栽培の一大産地だ。あの村の実体は農村ではなく、麻薬カルテルの本拠地だ。
伝統的なケシの栽培から、近年は合成麻薬の製造まで手広い。言葉巧みに外国人を勧誘しては、強制労働や人身売買に卸している。政府の役人をさらっては、見せしめに首を切り落としていた。
村にいた女子供は、断じてただの民間人ではない。武器弾薬を運び、兵士の飯を作り、ときには捕虜を拷問して責め殺していた関係者だ。歯をペンチで折る映像を家族に送り付け、多額の身代金を要求していた。
豊富な資金力と神出鬼没のゲリラ戦術で、正規軍の対処能力を超えていた。だからラオス政府のお偉いさんが、うちの会社からお買い物をしたのだ。
仄火と他愛のない会話をしていると、店員の女子大生が盆を携えて現れた。
「お待たせいたしました。ご注文の品でございます」
テーブルに並べられたのは、二人分のクリームブリュレである。バーナーで焼いたカラメルは艶やかな茶褐色で、甘く香ばしい匂いが漂っていた。陽織の前には湯気を立てる琥珀色の紅茶を、仄火には澄んだサイダーのグラスが置かれる。
「あまーい!」
陽織は匙でカラメルを崩して、滑らかなカスタードを口に運んでいる。濃厚な卵と生クリームが溶ける食感に、彼女の端正な顔つきが幸福にほころぶ。
堪能する陽織の意識からは、もう先ほどの凄惨なニュースは消えている。仄火は冷えたグラスに指を這わせながら、極めて正しい反応だと肯定した。
海の向こうで起きた酷い事件など、所詮は遠い世界の人ごとに過ぎない。どれほどおぞましい惨劇だろうが、大衆にとっては自分の生活が優先される。その日の夕食の献立や、恋人へ送る短文のほうが遥かに重要だ。
誰もが今の陽織と同じように、些細な日常の幸せに心を奪われる。千二百人の命など最初から存在しなかったように、世界は何事もなく回っていく。
仄火は虐殺を主導した当事者でありながら、清々しい気分で当たり前の常識を再確認した。自身が奪い去った千二百人の命は、眼前に置かれたクリームブリュレの甘さにさえ劣る。
これこそが世界の揺るぎない真実だ。
陽織を始めとする大衆の残酷なまでの軽薄さこそ、生き物として最も正しく健全な姿である。およそ命の重さなどという、抽象的な概念は意味を持たない。今まさに生を謳歌している人間たちにとって、他人の命など関心の矛先にはならないのだ。
§
二人はデザートを食べきっても、まだ帰らずにお喋りに興じていた。陽織に門限が迫っているため、外からやってきた護衛の一人が告げる。
「お嬢様。外にお車を回しました」
「あら、もうそんな時間。残念、まだ話し足りないのに」
陽織は名残惜しそうに立ち上がる。
「私は車で帰るけど、仄火ちゃんはどうする? 送ってあげようか?」
「大丈夫。パパが迎えに来るから」
「あの素敵なお父様?」
「うん」
「いいなあ。あんな映画俳優みたいなおじさま。私もお会いしたかったわ」
陽織は「ごきげんよう」と挨拶をすると、小さく手を振って去っていった。騒がしい娘が嵐のように去って、一人で残された仄火はサイダーを手に取る。
仄火はグラスを持ち上げると、店内のレトロな照明に透かしてみた。炭酸の気泡がオレンジ色の光の中を、細い筋になって立ち昇っていく。
テーブルにあるスマートフォンでは、いまだに解説者が命の尊さを訴えている。悲惨だ、可哀想だ、明らかな人権侵害だと、安全圏から声高に騒ぎ立てていた。
「……くっだらな」
自然に漏れた本音は酷薄なまでに冷たく、命を絶対零度に否定していた。仄火に言わせれば世間の連中は、命を重く捉えすぎている。
命の大切さ。
手を汚す覚悟。
生きる意味。
命に付随する諸々は多いが、これらの発想が根本的に間違えている。我々が生きているこの世界に、本質的な価値を持つものなど何もない。
命すらも無価値である。
人間など頸動脈を裂くだけで、三分後には停止するただの肉塊だ。所詮は炭素と水分の塊が、微弱な電気信号で動いているだけである。生存欲求などというものは、脳の構造が引き起こす認知の錯覚だ。
「命は泡のように軽い」
命は炭酸の泡のように、絶えず湧き上がっては消えていく。命の無価値さを前向きに肯定した、仄火の根幹にある哲学である。
無数の気泡がグラスの底から立ち上がり、水面で小さく弾けては割れていく。無数に生まれて、自然に這い上がって、最後には例外なくはじけ飛ぶ。
儚くて、軽くて、ひたすらにどうでもいい。
まさに命の営みだ。
弾けて消えるだけの軽薄な命に、深刻な意味を見出す必要などない。
グラスで光を仰ぎ見て、仄火は静かにつぶやく。
「世界はもっと、軽く弾けたほうが面白いよ」
それは本気で世界を変えるつもりの、死神のような意見表明だった。




