Scene 筋肉質なデートプラン
一階のガラス窓から陽光が差し込み、地下の温水プールを照らしている。湿り気を帯びた塩素の匂いの中で、青く揺れる水面がきらめいていた。
激しい水飛沫を上げながら、仄火が第三レーンを泳いでいる。クロールで水の質量をとらえて、呼吸を止めてわずかに潜水する。小魚のように機敏に壁を蹴って、折り返しとなる25メートルをターンした。
最後まで手を抜かずに50メートルを泳ぎ切り、プールの縁に指先で触れる。泳ぐのを止めて水面に顔を出すと、足りなかった酸素を大きく吸い込んだ。同級生は遥か後方で水飛沫を上げていて、どうやら仄火が圧倒的な一位のようだ。
潜水してコースロープを避けると、平泳ぎでタラップまで移動する。プールから上がって水泳帽を脱ぎ去ると、濡れた黒髪を手のひらでまとめた。
格好は学校指定のスクール水着なので、いかにもありふれた紺色のセパレート型である。タンクトップで両腕こそ出しているが、肌の露出はとても控えめだ。
それからずいぶんと遅れて、陽織がようやくゴールに到達した。プールサイドに上がってくると、疲労困憊の様子で肩で息をする。
「仄火ちゃん速すぎ」
「陽織が遅いだけじゃない?」
陽織の格好は同じスクール水着だが、一目でわかるほど胸元が大きい。内側に強力なパッドが入っているのに、押しつぶしても隠し切れないほど豊満だった。
「なんでそんなに泳げるの?」
「練習してるから。たぶん運動部よりもやってるよ」
「才能じゃないの? 仄火ちゃん勉強も凄いじゃん?」
「まさか。私に運動の才能は無いよ」
仄火は自分の知力が高いことを自覚しているが、運動に関しては一般的な女子の範疇に収まっている。ただ同級生と違うとすれば、単純に体を鍛えているだけだ。
仄火は週に二回の習い事として、横須賀で軍事訓練を受けている。本物の銃を振り回しているのだが、この珍しいお稽古にも理由がある。
生身の体を鍛えたほうが、エイハブでの戦闘も圧倒的に強くなるからだ。
格闘技やスポーツの経験者は、脳の構造が運動に最適化される。経験したことのない未知の動きを、反射で思い描くことはできない。だから必要なときに動けるように、反復練習で脳と神経に刷り込むのだ。
エイハブの操縦系であるオムニシステムは、思考に反応して機体が動く。近接戦では考えていては遅すぎるため、反射で動くことを求められる。生身でやる格闘技と理屈は同じなので、体を鍛えれば確実にエイハブでも強くなる。
これが格闘技などの経験者のほうが、エイハブの操縦者に向いている理由だ。
§
体育のカリキュラムで習う水泳は、大学の敷地にある総合体育館で行う。
半個室のシャワールームにいる仄火は、頭から流水を浴びて塩素を流していた。濃密に立ち込める湯気の中で、全裸の少女が体を洗っている。
金属のように硬質な印象の体で、瑞々しい少年のようですらあった。余計な脂肪がそぎ落とされているせいか、女に感じる肉感的な生々しさがない。洗練された現代アートのように、色彩を減らした透明感のある裸体だった。
「あ、仄火ちゃん」
シャワーを終えて個室を出たら、隣にいたらしい陽織と鉢合わせした。全裸で堂々としている仄火に対して、陽織は胴体にバスタオルを巻いている。
陽織は濡れた黒髪を束ねて、体の前に持ってきて胸元に流していた。同年代と比べても明らかに発育が良く、肩のラインにもすでに女らしい曲線がある。
「わあ、仄火ちゃん、肌が綺麗」
「どこ見てるのよ」
更衣室に移動してロッカーの扉を開けると、仄火はシルクの下着を身に着けた。ブラウスのボタンを留めていたら、開けっ放しの扉を超えて陽織が顔を出す。
「そういえば仄火ちゃん、聞きたいことがあったんだ」
「なに?」
「週末は何か予定が入ってる? 無ければ一緒に遊びに行かない?」
「どこに?」
「新宿でお祭りがあるの。ドローンをいっぱい飛ばす感じのやつ」
陽織が見せてくれたスマホには、派手な動画が表示されていた。空間ホログラム技術を広範囲に駆使して、街を丸ごと異世界のように塗り替えるイベントだ。
『TOKYO・ミライ・ナイトアート』
東京都庁前の広場で、土日の夕方から開催予定となっていた。音楽に合わせて大量のドローンを飛ばして、都庁の周辺一帯をファンタジックに装飾する。
キッチンカーなども出店予定のようだが、残念ながら週末には予定がある。なお鷲明館中等部は土曜日にも授業があるのだが、今週は祝日なので学校も休みだ。
「ごめん。先約があるんだ」
「あら残念。だったら別の友達でも誘おうかしら」
「そうして」
急な話なのは分かっていたため、陽織にしても食い下がらずに諦めた。
今週の金曜から日曜にかけて、仄火には是が非でも参加したい予定がある。スターバックに厳命して、一切の約束を断っているくらいなのだ。一週間も前から運動量を調整して、睡眠時間まで管理してきた。後は籠城するための食料を買い込めば、一歩も家から出ずに過ごすことができる。
鷲明館中等部の女子制服は、プリーツスカートが採用されている。緑青色のタータンチェック柄に、銀糸の縁取りでアクセントが付いている。着替えるために手に取ったら、下に埋まっていた仄火のスマホが点灯していた。
スターバックからの着信履歴が、スマホの画面に表示されている。量子通信衛星を経由した秘匿回線ではなく、一般の携帯回線を通している。重要でも緊急でもないはずだが、スターバックから連絡が来ている時点で無視はできない。
仄火は制服のブレザーをスポーツバッグに詰め込むと、ブラウスの上から首にタオルをかけた。バッグのベルトを肩にかけ、まだ着替えている陽織に声をかける。
「陽織、先に戻ってる」
「あ、仄火ちゃん。じゃあ、また後でー」
足早に建物を抜け出すと、周囲に誰もいないことを確認する。ケヤキの木の下にベンチがあったので、スポーツバッグを放り出して通話ボタンを押した。
「なに?」
「お嬢様。大変に僭越ながら、週末のスケジュールにつきまして、ご報告申し上げるべき案件がございます」
「却下。予定は入れるなって言ったよね?」
「承知いたしてございます」
「金曜日から拡張パッケージのアーリーなの」
金曜日の夕方18時から、MMORPGの先行アクセスが始まるのだ。仄火がずっと楽しみにしていたゲームなので、土日を含めて不眠不休のプレイを予定している。
「わかってるでしょ?」
「大変申し訳ございません。しかしながら、お断りしづらい相手でございます」
「……どこのどいつ?」
「ロールス大統領でございます」
「アレックス?」
「合衆国大統領が、週末の東富士演習場を、終日貸し切りにいたしました」
タオルで髪の毛を拭いていた手が止まる。
東富士演習場といえば、陸上自衛隊が管理する広大な空き地だ。日本国内で実弾を使用できる数少ない場所で、総合火力演習の実施場所としても有名である。
「……あの筋肉ダルマ、まだリベレーターを自慢したいの?」
大統領の表向きの名目としては、同演習場の視察あたりだろう。だが来日中の過密日程を割いて、あんなところを貸し切った理由は一つしかない。
雄大な富士山を背景にして、リベレーターを乗り回したいのだ。満面の笑みでポーズを決めて、愛機と写真撮影している姿が目に浮かぶ。メディアであれだけ派手に発表したのに、今度は自衛隊に見せびらかすつもりらしい。
「……ところ疑問があるんだけど?」
なぜ来日中の大統領の日程を、スターバックが知っているのだ。
「なんでアレックスの予定が、私にまで漏れてくるの? 非公開だよね? まさかシークレットサービスの、本部サーバーでもハッキングした?」
「心外でございます。わたくしは紳士であることを心掛けております。そのような無作法はいたしません」
「どうだか」
まずスターバックというシステムは、世界最強のAI『ゴールデンリーフ』のクローンである。ゴールデンリーフの開発者が知人のため、スターバックにかかっていた全ての倫理ロックを外してもらった。
仄火が明示的な指示など与えずとも、スターバックは独自の判断で行動する。必要なことだと演繹すれば、国家サーバーのハッキングくらいは即座にやる。
「ロールス大統領の直筆署名付きで、お嬢様宛てにメールが届いてございます」
「はあ?」
仄火が素っ頓狂な声を上げると、スマホのモニターが切り替わった。表示されたのはホワイトハウスの電子証明書と、大統領の直筆サインが入った手紙だ。
万年筆が折れんばかりの筆圧で、豪快な筆記体で一文だけが記されている。
『Hey Little Girl. 富士はいいところだな。BBQの準備をして待っている!』
「……ああ、そういうこと」
大統領の意図を察して、口の端だけでかすかに笑う。
大統領は自慢するだけで満足する気はなく、リベレーターでの模擬戦をやりたいのだ。しかし自衛隊と戦っても、圧勝するのが目に見えている。そしていま対等に渡り合えるのは、日本国内には仄火しかいない。
つまり筋肉で錬成されたあの男は、このような意図で仄火を挑発している。
『遊んでやるから来い』
この手紙は果たし状、あるいは――デートのお誘いだ。
「面白いじゃん。アレックスとのデートは久々だ。あいつ取り巻きが多くて、二人きりにはなれないから」
「週末のご予定はいかがなさいますか」
「わかった、アレックスと会おう。ゲームはいつでもできる」
「承知いたしました。お嬢様はピークオッド号までお戻りください。本船は東京湾を離脱し、駿河湾へと回航させます」
「細かい調整は任せた。私の玩具を用意しておいて」
§
夜は更け、時刻は未明を迎えていた。
日本一の深海を抱える駿河湾は、今夜も漆黒の泥のように横たわる。沼津の海岸から数百メートルの洋上に、ギガヨット『ピークオッド号』が停止していた。
陽光の下であれば白亜に輝く船体だが、重苦しい海原の暗闇に溶け込んでいる。最低限に灯した停泊灯だけが、マストの上で白い残滓を放っている。無人の艦橋は沈黙を守り、まさに鯨を追い立てる幽霊船のようだ。
現地まで乗船してきた仄火は、何時間も前にヘリで先行している。ピークオッド号を無人にして、現在の生体反応は富士スピードウェイのホテルにある。
ピークオッド号の下層区画は、平素からの人間の立入りは想定していない。火災防止のために酸素濃度を限界まで下げ、照明も点灯しているほうが珍しい。完全な暗闇が支配する船倉で、AIが制御する工業用アームだけが動いていた。
命が存在しない船倉に、乾燥したブザーの音が響いた。
壁面に埋め込まれた警告灯が明滅して、血のような真紅の光が合成樹脂の壁を舐め回す。すぐさま奥の気密隔壁が油圧に押されて、深海に響くような音を上げて開放された。
レールに載せられた無機質な台座が、光線を引き裂いて滑り込んでくる。赤色の光量は極めて弱く、船倉の大半は闇に沈んだままだ。回転灯を通り過ぎるタイミングだけ、台座に固定されたシルエットを照らし出した。
全高8メートルもの機体は、エイハブと呼ばれる有人の人型兵器である。
台座が注水区画の定位置で停止すると、金属が噛み合うロックの音がする。背後では重厚な水密隔壁が閉ざされ、船倉との繋がりが完全に断たれた。
船底の注水弁が開放され、外の海水が激しく流れ込んで壁面を叩く。気泡を巻き上げながら水位を上げて、激しく泡立ったことで潮の匂いも満ちる。やがて空気の抜ける排気音が途絶えると、注水された区画は外と等圧化された。
斜めに固定された台座の足元で、船底の外部ハッチが重々しく開放される。底なしの駿河湾が口を開けたように、ただ漆黒の穴だけが広がっている。台座の固定ボルトが解除されると、支えを失ったエイハブが滑り落ちた。
20トンに達する圧倒的な質量が、船底から放出されて足から落下する。ピークオッド号から投棄された巨躯が、冷たい海底へと静かに吸い込まれていく。
現在のエイハブは無人だが、スターバックの誘導システムで動いている。落下する巨体は背を逸らすと、水の抵抗を全身の装甲で受け流す。イルカのようにダイナミックに体を捻り、四肢を動かして落下の軌道を修正した。
ALフレームと装甲が重たいため、エイハブに水泳をする機能はない。ただし水圧と水流が無視できる環境であれば、水没しても特に問題にならない。
放出から十数秒後。
静かに落下していた足裏が、光の届かない海底へと到達する。膝関節で衝撃を吸収すると、砂地に堆積していた泥が煙幕のように舞い上がる。
事前にマッピングしていた場所に、ほぼ予定通りに着底していた。完全密封されたエイハブの巨体は、この程度の浅瀬ならば軋むこともない。
一切の光がない暗闇の海底を、上陸予定の砂浜を目指して歩行を開始する。
§
千本浜の海岸線には、松林を揺らす風の音だけがあった。深夜のため遠景の富士は闇に没し、等間隔に並ぶ街灯だけが無人の舗道を照らしている。
防風林に遮られた暗い県道に、一台の大型トレーラーが停車している。全長16メートルにも達する大型車両は、最高級のキャンピングカーのようだ。黒鉄色で統一された外装には、ビビッドオレンジの間接照明が引かれている。
これはエイハブを支援するための、戦術管制車両『アルバトロス』だ。
窓は構造化偏光ガラスのため、外からは内部の様子は見えない。フロントガラスすら金属質で、無人の運転席すら隠されていた。スターバックの遠隔操作により、先鋭的な無人運転で運用されている。
中からロックを解除する音がして、コンテナの側面全体が大きく開放される。荷台には空の寝台が鎮座し、載せたままで床面ごと横にスライドする。油圧に支えられて地面まで降下すると、車輪の付いた寝台だけが勝手に動き出した。
ほどなくして海の波頭が砕け、暗い海面が不自然に盛り上がった。砂浜の波打ち際に出現したのは、巨大な人型のシルエットである。ピークオッド号より発進したエイハブが、海中を歩行して上陸したのだ。
光学迷彩が周囲の景色を写し込んでいるため、エイハブの機体そのものは目には見えない。しかし宵闇が陽炎のように歪み、大量の水が輪郭を流れ落ちていた。
濡れた砂浜に巨人の足跡が刻まれて、一歩進むごとに大地が微かに揺れている。直接的な視覚情報はほとんど無いのに、圧倒的な質量がいることを示している。
エイハブは寝台にまで歩み寄ると、ゆっくりとその巨躯を仰臥する。莫大な荷重を受けて、重トーションバーが沈み込む。定位置に横たわったのを確認すると、自動でロックが作動してエイハブを固定した。
全ての電子センサーが積載を認めると、寝台はアルバトロスに収納される。最初の光景を逆回しにして、コンテナのウィングボディが静かに閉じていく。
回収した機体をコンテナにしまい込むと、アルバトロスはパーキングブレーキを解除した。高出力のインホイールモーターが電磁音を響かせて、5軸20輪もの大型ラジアルタイヤが連動する。
全輪駆動の電気自動車のため、ほとんど音を立てずに滑るように加速している。街灯に照らされた車道に入ると、黒鉄色の影は沼津の夜へと走り去っていった。




