Scene 氷獄の魔王
同時刻。ブラックアイアン日本支社においては、ヴィクトルが先導する会社見学会が急遽行われていた。
あまりにも美しい長身の男が、無表情に大理石を踏みしめる。先ほど行われたコーヒー試飲会の裏で、必死にすね毛を隠蔽しようとしていた面影などない。
「すげえ! これがアイスマン!」
顧客向けの兵器ショールームで、奏が強化ガラスに顔を近づけていた。展示ケースの中でライトアップされているのは、北極熊のような白い装甲のアイスマンだ。装甲表面に塗布された偏光性珪素結晶板が、光学迷彩の片鱗で虹色に輝いている。
その傍らにある細長い物は、同じくブラックアイアン社製の銃である。ミレポラという自動小銃の模型だが、誰が見てもまったく銃には見えない。
長さ1メートルの角材である。
アイスマンと同様にPSCで処理されて、削り出した氷河のような白色だ。
「支社長、お尋ねしたいことがあります!」
「何だね」
「アイスマンが欲しいです! 僕でも買えますか?」
ヴィクトルはわずかに瞳を細めると、小柄な少年を静かに見下ろした。革靴の音を重々しく響かせて、空間を支配するように数秒も沈黙する。
「……少年。君の熱意には敬意を表そう。だが君の立場では、契約書に署名することは叶わない。その製品を売るのは、国家、あるいは信頼に足る組織のみだ」
「そこを何とかなりませんか?」
無遠慮に食い下がる奏を受け止め、ヴィクトルは声のトーンを一段落とした。
「不可能である。素直に諦めなさい」
「……残念です」
重厚なバリトンボイスに圧倒され、奏は気圧されたように瞬きをした。
二人から少し離れた場所では、陽織がパワードスーツを眺めていた。肉体を強化するスーツと言っても、前時代的な武骨な外骨格ではない。
ケースのハンガーに吊ってあるのは、一見すると作業服のようなつなぎだ。
有包炭素筋肉という人工筋肉で編まれているため、一般的な布地よりも若干厚いくらいだ。脳波制御で動きに追従して、しなやかな無音駆動を実現している。
「おじさま、これって力持ちになれる服ですよね?」
「その通りだ。君のような細い腕でも、片手で100キロの鉄塊が持ち上がる」
「すごーい」
無邪気に続ける。
「介護の現場とかでも使えますか?」
「まさにこのスーツは、医療従事者や、重たい荷物を運ぶために開発された。我が社の商品ラインナップの中では、もっとも民生寄りの製品だ」
リンドベリ支社長がわざわざ、たった二人を案内している見学会である。陳列されている商品には、仄火が開発に関わったものも多い。説明などまさに釈迦に説法のため、ひとりだけ距離を取って踊っていた。
……繰り返すが、なぜか仄火は踊っている。
ハイテクスニーカーが床を鳴らし、制服のプリーツスカートが揺れる。天を指すように片手を上げると、高らかなポーズを決めて静止した。映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のソロダンスなど、今どきの女子中学生がどこで覚えたのだ。
「お嬢様。無粋に水を差すこと、誠に恐縮に存じます」
「なに?」
「緊急のご報告がございます」
映画俳優になり切って練り歩いていると、仄火の耳元だけで声が聞こえた。指向性のスポット音声を使った、スターバックからの秘匿連絡だ。
仄火はステップを緩めると、流れるような所作で廊下にまで移動する。陽織たちに聞こえないだけの距離を取ると、改めてスターバックの報告に応答した。
「どしたの?」
「侵入者でございます」
「どこに?」
「当施設、ブラックアイアンの日本支社でございます」
「ここ?」
「ただいま屋外の庭園にて、外周警備のアイスマン部隊と交戦中でございます」
「どんなバカなの?」
仄火が心底呆れるのも無理もない。
日本支社は外見こそ美術館のようだが、その実態は軍事要塞そのものである。地上施設としては最上級の部類で、これ以上を求めるなら地下に作るしかない。
「人数は?」
「一名でございます」
「やっぱバカじゃん」
「周辺のセンサー群が捉えました領域には、伏兵の類は一切観測されず、遊撃戦力の兆候も皆無にございます。陽動作戦の可能性は除外され、真に単身で踏み込んできたものと推定いたします」
センサーは赤坂一帯に無数に敷設され、ビルの窓際で狙撃銃を持つだけで検知できる。支社にしても10機のアイスマンが稼働し、24時間の警備が敷かれている。
アイスマンが装備しているのは、もちろん殺害を前提にした実銃だ。10機を人間の戦力に換算すると、精鋭特殊部隊の60人にも匹敵する。
敷地面積を考慮すれば、平時の警備量としては過剰と言っていい戦力だ。たった一人の侵入者が真正面から挑んで、勝負が成立するようにはできていない。
だが仄火の揺るぎない確信を、スターバックの平坦な声が裏切る。
「お嬢様のご認識は大変に正しいと存じますが、しかしながら驚くべきことに、侵入者が戦闘を優位に進めております」
「はあ!? そいつ人間なの?」
「少なくとも熱源反応と光学的な外見からは、人間であると推測されます」
あり得ない。
10機ものアイスマンを相手取り、単身で優位に立つなど非常識だ。仄火が常識を語るのも説得力に欠けるが、その侵入者はリアルな軍事考証を足蹴にしている。
「そいつアメリカが極秘開発した、遺伝子強化兵とかだったりする?」
生粋の兵器開発者から見ると、人間を強化するなど非合理の極みだ。厄介な人権問題が付随し、何より銃弾一発で死んでしまう。兵器運用の観点からすれば、お金をドブに捨てるようなものである。
仄火の発言は多分に冗談だが、もし実際に予算をつぎ込んでいたら笑う。次にアレックスに会ったときに、全力で煽るくらいには馬鹿である。そんな道楽に国民の血税を消費するくらいなら、大人しく我が社から兵器を買えばいいのだ。
「詳細は不明でございます。ただいま増援の機体を起動しておりますが、念のためお嬢様におかれましても、対応の準備をお願いいたします」
「……OK。わかった」
スターバックの要請に対して、仄火は小さく嘆息する。陽織たちはヴィクトルに任せておけば問題はなく、日本支社はそもそも建物全体が防衛施設だ。下手に避難させて目が届かなくなるよりも、見学会を続けてもらった方が安全である。
「ごめん! ちょっとお手洗いに行ってくる!」
「あら、いってらっしゃい」
部屋に取って返して一言告げると、陽織の声を受けながら離脱した。
§
化粧室の前を素通りした仄火は、廊下にある金属製のドアへと向かう。壁に隠蔽されたセンサーが、歩行グラフィと網膜パターンを走査する。一切の接触を要求しないまま、電子錠の解錠を告げる駆動音がした。
地上階の凡庸なオフィスは剥ぎ取られ、地下施設への階段が姿を現す。通路をしばし進んで別の扉に向かうと、同じように自動でロックが解錠された。
踏み込んだ白い部屋は、仄火専用の装備の保管庫だ。
地上のショールームにあったような、銃刀法に配慮した模型ではない。冷気すら感じる空気感の中に、実銃が発するポリマーの匂いが混ざっていた。
純白の内装を切り取るのは、漆黒でコーティングされた飾り棚だ。境界線すら消失するほどの闇色に、冴えわたるほど白い直方体が並んでいる。
ブラックアイアン社製の、自動小銃や狙撃銃といった武器だ。大小さまざまな大きさがあるが、いずれも自律統制火器という銃器のカテゴリーになる。射撃を補助するコンピューターを、最初から搭載した銃器のことだ。発砲の仕組みとしては、火薬を併用したレールガンになる。
全ての武装の表面には、PSCの偏光ナノ粒子が定着している。ブラックホールのようなケースの内部で、自ら発光するように白く浮かび上がっていた。
棚にある火器には一瞥もくれず、壁面に埋め込まれた恒温器に向かう。正面がガラスになった漆黒のケースには、新雪のような色合いの戦闘服が保管されていた。低温管理された専用ケースの中に、ハンガーレールで何着も吊り下げられている。
この白いつなぎをロフェリアという。
仄火ひとりのために特注された、人工筋肉駆動型のアサルトスーツだ。
ロフェリアを編んでいる有包炭素筋肉は、厳密な温度管理をしなければすぐに腐敗してしまう。だがそういった有機組織の弱点と引き換えに、桁違いの運動出力を発揮する代物である。
高級テーラーのような長椅子に、仄火は着ていた制服を脱ぎ散らかす。
薄いシルクの下着だけになると、仄火の体は華奢そのものだ。この細い手足がロフェリアを着るだけで、五輪のメダリストを超える怪物になる。自動車のような速度で走り、握力だけで頭蓋骨を握り潰す。
まずバイタルゾーンを保護するために、多孔質カーボン製の耐衝コルセットを装着する。インキュベーターからロフェリアを取り出すと、ダイビングスーツのように手足を通した。
ロフェリアの形状自体は、特殊部隊が好む重装アパレルに近い。高重量のモジュールを固定するために、ナイロン製のハーネスや、ロックストラップが随所に配されている。
ただ全面にPSCが塗布されているため、色合いは冬季迷彩のような純白だ。天井の発光パネルから光を受けて、油膜のような不規則な光沢を放っていた。
ガンラックから選んだ武器は、ショールームにもあったミレポラだ。銃把どころかトリガーすら存在せず、ただの白い角材にしか見えない。
ロフェリアのグローブで掴むと、内蔵されたICチップが即座に認証する。
ラックの引き出しから取り出したのは、専用弾薬を詰め込んだマトリクスカセットである。タングステン合金の重針を、ソリッドな本体へと滑り込ませた。
最後に棚から手に取ったのは、頭部を保護するための装甲だ。すっぽりとかぶって首のリングに固定すると、開放されていたバイザー機構が作動する。メカニカルな作動音と共に、仄火の顔面を完全に隠して閉鎖した。
外部の環境音が遮断された直後、視界が電子的な現実拡張へと切り替わる。ミレポラと火器管制システムがリンクして、初弾の装填と50発の残弾を表示した。
「初期チェックが完了いたしました。武装の全回路、正常に作動しております」
「おし、行くよ」
外界に晒している純白のシェルは、目も鼻も存在しない無貌の仮面だ。白骨化した髑髏のような輪郭で、仄火の少女らしさを消し去っていた。
§
降雨に見舞われていた英国庭園は、局地的な大寒波のごとき有様だった。氷点下にして数十度もの冷気がはびこり、天からの雨粒が瞬時に凍結している。地から立ち昇る水蒸気も冷やされ、大気中をダイヤモンドダストが散っていた。
庭園に転がり込んだ魔術師が蹴散らすと、凍ったバラの花びらが砕け散る。氷の輝きに赤が混じり、魔人の競演を飾り立てる。
フローズンコートの人工筋肉によって、魔術師の身体能力は強化されている。10機もの不可視の亡霊を相手取り、驚異的なことに一歩も引いていない。
驚嘆すべき事実ではあるが……。庭園の各所にはすでに、6機ものアイスマンが沈黙していた。
いかなる魔術を用いたものか、真っ白に凍り付いて装甲が割れている。中には昆虫の四肢をもぐように、肩から両腕が切断されている機体まであった。切断面からは液体バッテリーが流れ出し、凍り付いた庭園に血のような赤色を添えている。
常人には不可能な動きで側転すると、無数の銃弾が直前までの場所を通過する。跳躍しながら流麗に体をひねり、右手に握るクライオエッジを力強く振るう。
「爪を立てる凍刃!」
魔術師の絶叫に呼応して、切っ先から特殊溶媒が噴き出す。対象へ向かって飛翔しながら凍り付き、巨大な斬撃のような形状に変化した。
まるで新体操のリボンのように、凍った斬撃を華麗に操る。数メートル先のアイスマンに命中すると、装甲表面の光学迷彩をわずかに削いだ。外れた余波が蛇のように躍動しながら、地面に食い込んで石畳を削り取る。
「効かぬか!」
魔術師の口から焦りが漏れた。
アイスマンのゲーサイト装甲は強固で、凍刃をもってしても両断は不可能だ。
「否や!」
だがいくら表面が盤石でも、内側まではそうもいくまい。側転の位置エネルギーを等速運動に変えて、魔術師はアイススケートのように氷面を滑走する。
まさに滑るように接敵すると、クライオエッジを振り下ろした。空中の何もない空間で刃先が止まり、硬いものを叩いた反動が手のひらに伝わる。
公式カタログで読んだアイスマンは、前提として完全な人型である。ならば姿など見えなくとも、手足の形と付いている場所はわかっている。
魔術師は叩いた一瞬の感覚だけで、アイスマンの重心を読み取っていた。純粋な戦闘経験と勘だけで、アイスマンの姿勢を看破したのだ。上段から振り下ろしたクライオエッジを、アイスマンは片腕を上げて盾のように受け止めている。
刃物ではゲーサイト装甲には歯が立たず、徒労に終わるのは百も承知だ。だが魔術師の狙いは切断ではなく、アイスマンの動きを止めることである。
魔術師は一切の視覚情報に頼らず、クライオエッジの刃を滑らせた。腕の装甲をガイドラインにして、根元にある肩の関節部を狙ったのだ。
アイスマンの外殻装甲は、西洋の全身甲冑をイメージすれば推測できる。胸部や背面などの広い面積は、一枚の分厚い装甲で守られている。
ただ実在の全身甲冑と同様に、脇の下や股下はそうもいかない。関節を硬い装甲で覆ってしまうと、手足の可動域が失われて動けなくなる。
無論、弱点と言っても無防備ではないだろう。
ラメラーアーマーのように金属片を繋ぎ合わせて、蛇腹のような装甲にはなっているはずだ。だがどれほど精緻に作っても、装甲の継ぎ目となる隙間は存在する。
アイスマンの上腕をクライオエッジが滑り、刀身を脇の下まで回り込ませる。手元に伝わるわずかな振動だけで、切っ先が継ぎ目をとらえたことを察知した。一瞬で角度を調整して突き立てると、隙間から確実にねじり込んだ感触がする。
「抱け氷艶!」
切っ先が装甲の内側に達した瞬間、コートの循環系が全力駆動する。クライオエッジの刀身を伝って、致死量の特殊溶媒が注ぎ込まれた。
すぐに密閉された空間に特有の、こもった爆発音が目前で鳴り響く。まるでいきなり電源を落としたように、光学迷彩が切れたアイスマンが出現した。
特殊溶媒は気化する際に、その体積を700倍にまで急膨張させる。逃げ場のない密閉空間で気化を行えば、内側からの圧力でアイスマンでも爆裂する。
アイスマンは軍用兵器として、高度な耐水設計が施されている。密閉性がとても高いため、体内から生じる膨張など致死的だ。
外殻が強固なので四散こそしなかったが、内部機構を一瞬で粉砕された。露見したのっぺらぼうの白いマネキンは、痙攣するように幾度か震える。重々しい金属音を立てて崩れ落ちると、脇の下に刺さっていたクライオエッジが滑らかに抜けた。
「……強い」
呼気を乱した魔術師は、肩を激しく上下させて呼吸をしていた。肉体的な運動量ではなく、命懸けの緊張感が重たいのだ。一度の交錯を経るだけで、鉛のような疲労感が蓄積していく。
単機を相手取るだけでも、極限の集中力を要求される強敵である。7機も沈めた時点で驚異的な戦果だが、さらなる増援が何機来るか予測もできない。
しかし魔術師の意志に諦観はなく、勝利への道筋すら見据えていた。
勝機は二つだ。
第一は彼自身が作り上げた、一帯が氷結した極寒の環境である。雨天の水溜まりが凍り付き、大地はアイススケートのリンクのようだ。いくらアイスマンの姿勢制御が優秀でも、二足歩行は不安定なのが宿命である。
雪上装備をしていないアイスマンは、立っているだけでやっとなのだ。むしろ摩擦のほとんどない路面で、戦えている事実を称賛するべきである。
対する魔術師は靴底のアクティブスパイクにより、堅固な足場を確保している。
そして二番目。優位としてはこちらが大きいのだが……。
3機のアイスマンが見えるのだ。
最初は空間に溶け込んでいた不可視の幽霊が、いまやサングラスのサーマルセンサーにはっきりと映っている。
魔術師と死闘を繰り広げた結果として、機体の内部に熱が発生していた。装甲は断熱性能があるらしく、現状でもサーマルに顕著な変化はない。だが装甲の薄い関節部は、熱源探知の視界に赤色を晒してしまっている。
しかも体液を気化させて冷却を行っているのか、アイスマンの全身から湯気が立ち昇っている。濃密な水蒸気が大気を満たし、装甲の輪郭を浮き彫りにしている。クレゾールや次亜塩素酸といった、病院の待合室のような消毒液の匂いがした。
「狂演の第二幕だ」
呟いた魔術師が沈み込み、前方の空間へと身を躍らせた。信じがたいことに左右からの十字砲火を、魔術師は鮮やかな体術だけでかわしている。
五分もの全力戦闘の結果として、特殊溶媒の底が見え始めている。最初のように銃弾を無効化できるほどの、高密度の悲幕を展開する余裕はない。
ブーツのセンサーが路面を検知して、アクティブスパイクが爪を立てる。アイススケートの大技のように、踏み込むだけで足元の氷が砕け散る。
すれ違いざまに腕を振るい、アイスマンの頭部に特殊溶媒を吹きかけた。これまでの交戦の経験から、頭部にセンサーが集中しているのはわかっている。
極低温の液体を浴びた機体は、急激な熱衝撃によって悲鳴を上げる。金属部品が急冷されたことで、一時的な機能不全に陥った。
魔術師はクライオエッジを滑らせると、脇の下から切っ先を突き立てる。相手が見えている分だけ、さっきよりも遥かに容易い。
心臓にまで深々と突き込むと、手首を返して氷点下の刃を旋回させた。パワーの源である有包炭素筋肉を、甲殻類の身を掻き出すように断ち切った。氷刃を引き抜くと傷口から、血液に酷似した液体バッテリーが噴き出す。
確かな手ごたえを感じたのもつかの間、周囲のアイスマンから攻撃が来る。安全圏へ離脱を図ろうとしたところ、手元から抑え込まれておぞけが走る。いま斬ったアイスマンが、まだ停止していないのだ。抱き着くような至近距離だったが、アイスマンは見事なパンチを放つ。
腹部から爆発的な威力を生み出すと、そろえた骨格から拳にまで伝導させる。人間が反応できる速度を遥かに超えて、ノーモーションの寸勁が打ち込まれた。
大きく振りかぶるパンチと比べると、寸勁はどうしても威力は落ちる。とはいえ120キロも体重があるアイスマンが、鉄甲で固めた拳を打ち込んだら、その威力は人間の比ではない。
魔術師は打撃自体が見えておらず、無防備に胸元に打ち込まれた。フローズンコートのセンサーだけが間に合って、人工筋肉を硬直させて防御を行う。
止息。
痛烈な打撃を肺に食らって、魔術師は苦悶に顔を歪めた。コートの反応防御が間に合わなければ、肋骨どころか背骨まで砕けかねない威力だ。
さらに背後から接近した別の機体が、魔術師の腎臓を狙って蹴りを繰り出す。背筋の収縮まで動員しながら、突き刺すような三日月蹴りが放たれた。
「ぐぅっ!」
かろうじて身をよじって回避したものの、蹴りの爪先がコートをかすめる。裾の布地を巻き込んだことで、コートの前合わせが弾け飛ぶ。
その衝撃で懐に隠し持っていた、大判の封筒が虚空へと舞い上がった。封筒の中身は魔術師の人生と未来を懸けた、決して手放してはならない秘密である。
手を伸ばしてつかみ取ると同時に、追撃を覚悟して歯を食いしばる。注意が逸れたのは一瞬とはいえ、アイスマンには充分すぎる隙だ。無防備となった内臓に、左右から無慈悲な挟撃が打ち込まれた。
肺から強制的に空気が押し出され、激烈な衝撃で吐き気さえこみ上げる。コートが衝撃を受け止めようとするが、硬化した防御を貫通するほどの威力だ。
魔術師は迫りくる敗北に抗うために、温存していた切り札を決断をした。
魔王。
コートの機能と引き換えになるため、一度しか使えない真の奥の手である。
「氷獄の睨者よ!」
気勢を乗せた裂帛を放つと、コートの分散型プロセッサが反応する。全てのリミッターを解除し、ペルティエ素子が過剰冷却を開始した。層状リザーバーの特殊溶媒が、わずか数秒で劇的に冷却される。絶対零度の深遠に迫る、マイナス240度の熱反応が牙を剥く。
コートを駆け巡る極細管は、総延長だと数キロメートルに及ぶ長大なものだ。人工筋肉の圧力を使うことで、コートの布地を破って一斉に射出された。
蜘蛛の巣じみた数百本の極細管が、目視できない速度で四方八方へと飛び出す。進路上の水分を強制凍結して、壁にぶつかったように幾重にも折れ曲がる。幾何学的な氷の結晶を連鎖させて、大地から空中までも歪な網目が浸食した。
わずか二秒で庭園に盛り上がったのは、巨大な氷で作られた茨の檻である。北極の氷河のように青白く、ガラス細工のように繊細で美しい。庭園のバラを巻き込んで氷結し、無数の赤い花びらが封入されていた。
魔王がもたらす極低温は、周囲の空間から貪欲に熱を奪い去る。庭園の温度が窒素の凝固点を下回り、酸素が凍り付くマイナス219度すら突破した。
周辺一帯の空気が凍り付き、ガラスの砂のように相転移を起こしている。まるで夜の砂漠のように静かで、生命の存在を拒絶するように冷たい。砂時計が音もなく時を刻むように、凍った空気が砂のように降り注いでいた。
魔術師から亜音速で展開されたのは、全方位を埋め尽くす氷結結界である。アイスマンの反応速度がどれほど速かろうと、大気そのものを質量とする檻から逃げられるはずもない。
光学迷彩の切れた2機のアイスマンが、完全に動きを止めて沈黙していた。茨の結晶に四肢を固定されて、氷に埋まった雪像のように身動きしない。
「蒼白き死よ、葬送に至らん」
まるでレクイエムを歌うように、不可思議な現象が起きている。
アイスマンの装甲表面に、青白い炎のようなものが揺らめいている。見た目はアイスブルーの炎だが、物理的にはまったく異なる現象である。
これは凝固した窒素と酸素が、気体に戻ろうとするときの反応だ。気化したガスが光の屈折率を変えて、まるで青白い炎のように見えている。
アイスマンのゲーサイト装甲に、幾重にも亀裂が入っている。まるで冷たい炎に耐えきれなくなったように、強固なはずの装甲が音を立ててひび割れている。すぐに自らの重みに耐えかねて、ガラスを砕いたように白い粉末に崩壊した。鋼鉄の強度を持つ繊維装甲が、まるで砂糖菓子のように粉微塵だ。
マイナス240度もの超低温にさらされた物質は、低温酸化燃焼という崩壊現象を起こす。低温によって分子結合を切断されたことで、物質としての形を保てなくなったのだ。
これが魔王である。
空気すら凍り付く極寒の地獄で、アイスブルーの冷たい炎が全てを破壊する。
魔術師の口から、歯がゆい言葉が漏れ出す。
「しぶとい……」
近傍にいた2機のアイスマンは、魔王に囚われて大破した。しかし遠距離から支援していた最後の1機が、一瞬で距離を取ることで逃げ切っている。
魔王の過剰冷却は過剰な負荷をかけるため、フローズンコートの機能は停止してしまった。また氷結結界の形成に無茶な使い方をしたせいで、編み込まれた人工筋肉も限界に来ている。
人工筋肉の補助がなくなれば、フローズンコートなど重たい服でしかない。
邪魔だ。
戦闘の帰結として留め金は弾け、視線すら外さずにコートを脱いだ。肩にかかっていたコートが落ちると、鉄の塊が落下したような重低音がする。完璧な断熱効果が無くなったことで、鍛え抜かれた筋肉に冷気が突き刺さった。
強力な特殊装備はこれで品切れだ。
後は魔術師が持つ肉体と技術で、残ったアイスマンと渡り合うしかない。
「終幕だ」
己の技術すら及ばないかもしれない予感が、降りしきる雪のように魔術師の心を冷やしていた。しかし地に落ちた屈辱を拾い上げるためにも、ここで引くわけにはいかない。己の人生に新たな道を切り開くため、クライオエッジを正眼に構える。




