Scene 招かれざる来客
同時刻。東京赤坂にそびえ立つ、ミッドタウン・タワーの屋上である。湿り気を帯びた風が通り抜け、降りしきる雨を吹き荒らす。
地上248メートルという圧倒的な高みから、曇天に覆われた東京の街並みを見下ろす男がいた。高空の風にあおられて、漆黒のロングコートがひるがえる。
「……雨か。天は俺に味方した。まさに門出に相応しい」
ニヒルに笑う。
天を閉ざした分厚い雨雲から、東京を濡らす雨粒が容赦なく降りしきる。傘すら差していない男にも降り注ぐが、黒いサングラスはまったく濡れない。コートが発する極低温にさらされて、雨粒が瞬時に氷結しているのだ。全身にまとう氷点下の冷気によって、純白の雪へと変わって風にさらわれる。
かつて少女の下着に奇跡を見て、己の美学に殉じた男がいた。童話と悪夢が融合したキメラに力及ばず、魂までも熱却されたはずだった。
しかし熱死の地獄に突き落とされてなお、彼の信奉する氷神は救いの手を差し伸べた。消え去ろうとする魂を蒸発から引き上げ、挑戦者として舞い戻ったのだ。
魔術師である。
無様に熱に負けたあの日、魔術師は一度は警察に連行された。忘我の果ての醜態ではあるが、正気を取り戻してからは児戯であった。隠し持っていた極小ガジェットを用いて、容易に留置場からの脱走を果たしていた。
魔術師の瞳に剣呑な光が宿る。
復讐に燃える暗殺者のような、深淵に立つ者の研ぎ澄まされた気配だ。
あのとき無残に焚かれたフラッシュは、魔術師の醜態を克明に記録した。SNSに投稿されて大バズりした挙げ句、クソコラの祭りとなって皆に嘲笑された。これほど尊厳が泥にまみれたことはなく、あがなうには代償を支払ってもらうしかない。
「用意したぞ、今日のために」
魔術師はコートの内側に手を入れると、懐に忍ばせた大判の封筒を確かめる。この封筒の中身こそ、重大な秘密が記された切り札だ。
眼下に広がる街並みの中に、不自然なほど緑が多い一角がある。赤坂の一等地に広大な面積を誇る、ブラックアイアンの日本支社だ。
あの規格外の警備ロボットの出所を、彼は執念のデータ追跡で特定していた。
魔術師が呼気を吐き出すと、真冬のように白く染まって空気に溶ける。同時に足元に溜まっていた雨水が、瞬時に温度を奪われて氷の膜となる。
緊張の高ぶりに呼応して、フローズンコートの威力が自然に漏れたのだ。外見こそ前回のコートと大差ないが、中身の性能はまるで別ものである。
前回は隠密用の潜入装備だったが、今回は戦闘を前提とした強襲装備だ。
「我が魂のすべてを、ここに捧げる」
魔術師は魂を燃やさない。絶対たる零度によって至高の純一へと至るのだ。
「翔翼よ、天に昇らん……」
静かに紡がれた覚悟に呼応し、フローズンコートが真の力を解放する。まるで眠っていた悪意が目覚めるように、布地に織り込まれた人工筋肉が脈打つ。羽化するように裾が持ち上がると、鴉の翼のように高らかに広がった。
無数に配置された極細管のノズルから、白く見えるほどの冷気が噴き出す。翼に付着させた水分が凍り付くと、白く染め上げるように全体を覆っていく。
ほどなく完成したのは――。
触れずとも肌を刺すような極冷を放つ、まさしく氷で作られた悪魔の翼だ。
踏み出す。
滑空翼の形成を終えた魔術師は、いささかの躊躇もなく屋上から身を投げた。248メートルもの高みが、投身を飲み込もうと大口を開ける。しかし巨大な翼で大気をつかまえると、落下をあざ笑うかのような飛翔を開始した。
数百メートルもの距離を易々と滑空して、日本支社の上空へ差し掛かったときである。サングラス型のARシステムの視界が、警告を示して赤く染まった。飛来する魔術師めがけて、地上から強力なアクティブレーダーが照射されている。
「ほう」
吹きすさぶ風の中で吐息を漏らす。
この角度に対空レーダーがあるということは、上空に向けた防衛網が設置されているという意味だ。つまり巡航ミサイルの飛来や、空挺部隊の降下を警戒している。
一介の民間企業が敷くには、異常極まりない防衛体制だ。
しかしだからこそ己の知恵と技術を駆使して、単身で乗り込む意味がある。
「ならば次も自明よ!」
魔術師は不敵に笑い飛ばすと、氷の翼を大きく羽ばたいた。コートに内蔵した層状リザーバーから、超圧縮されていた液体がぶちまけられる。
「悲幕の帳よ!」
空中にまかれた液体が瞬時に凍り、眼前にマントのような防護膜を形成する。まったく同時に地上から放たれた、不可視の高出力レーザーが直撃した。
受け止めた氷の盾が激しく発光し、極度の熱膨張による水蒸気が爆裂する。
「二度も同じ手は食わん!」
閃光のただ中で余裕に笑うと、水蒸気を突っ切って高速で落下する。
かつて悪夢の白熊に敗北したのは、電磁波に対する防衛策がなかったからだ。その苦い教訓を生かして、専用の対策装備を用意してきた。
先ほど空中にまいた液体には、電磁波を反射する金属片が混入してある。レーザーの膨大な熱量を拡散させるだけではなく、後続のレーダー波も散らしてしまう機能を持たせてあった。
魔術師の意思で翼がひるがえり、空中で鋭角に落下軌道を変更する。生身であれば体を引き裂くような抵抗を、フローズンコートの人工筋肉が抑え込む。
地表に差し掛かってもう一度羽ばたくと、落下速度をゼロにまで相殺した。不要になった氷の翼が砕け散り、大量の氷片が空中を舞い落ちる。
こうしてバラが咲き乱れる英国庭園へ、魔術師は完璧な着地を果たした。
魔術師が推測した通り、地上に近づいたら不可視の熱線は鳴りを潜めた。一般的に対空迎撃システムは、上空に撃つために極端な仰角を取る。砲身が上を向いているため、足元に向かって撃つことができないのだ。
必然として防衛側が次に取るべき手段は、地上迎撃部隊の投入である。
静かにたたずむ魔術師から、濃密な冷気が漏れ出している。まるでドライアイスのように、黒いコートの表面を滑り降りていた。白く凝縮された冷徹な霧が、音のない霧のように流れ落ちている。絶え間なく降りて足元に堆積し、魔術師の立つ一角だけを極寒の氷原に変えていた。
このとき数メートル手前の空間で、甲高い衝突音が連続して鳴り響いた。同時に超音速衝撃波が引き連れた、風船が破裂するような音が連続する。魔術師が知っている発砲音とは若干異なるが、銃器による攻撃を受けたと直感した。
強力な攻撃を食らったのに、魔術師には傷一つ付いていない。周囲の空間に展開された悲幕が、飛来する弾頭を受け流したのだ。
「何だこの弾は? 異常に軽い。……加減された?」
極低温ガスに晒された大気中の水分は、熱力学的な均衡を保った過冷却のような状態になる。そこに銃弾という運動エネルギーが飛び込んだ途端、繊細な均衡が崩れて氷に相転移したのだ。
つまり空気中の水分が、いきなり凍って盾になった。
結果として氷の壁に激突した弾頭は、あらぬ方向へと弾き飛ばされた。
「面白い」
獰猛に笑う。
これが穏当な施設であれば、まずは警告して生け捕りにするのが道理だ。しかし今回は完全な不意打ちで、しかも複数の銃口からの同時射撃である。
どうも最低限の慈悲はあるようだが、この殺意の高さは嫌いではない。
事前の情報収集に抜かりはなく、入手可能なあらゆる目録を熟読してきた。ブラックアイアン社の公開情報はおろか、企業理念まで一語一句を暗記している。日本支社に配備されているであろう戦力も、入念に分析し尽くしてここに立っている。
「これがアイスマン。相手にとって不足はない」
魔術師が見ている視線の先には、一瞥しただけでは意味を持つものはない。丁寧に手入れされた英国庭園に、雪交じりの雨粒が打ち付けている。赤バラの花弁には水滴をたたえて、緑の枝葉は静かに濡れそぼる。
しかし注意深く目を凝らせば、景色にわずかな違和感があるのだ。真夏に陽炎が揺らめくように、庭園のあちこちが奇妙に歪んでいる。
数にして十か所弱――。
装備している銃器も含めて、光学迷彩で透明化したアイスマンである。
魔術師の着けているサングラスには、熱源を感知するサーマルセンサーも内蔵されている。しかしながら驚くことに、サーマルにも映っていなかった。質量のない幽霊と対峙するように、まったくの無音で包囲網を狭めてくる。
潜んでいることを知っていれば、目を凝らせば判別することは可能だ。しかし予備知識が与えられておらず、まして闇の中で遭遇したら、生身の人間が太刀打ちできる代物ではない。
「だが予想はしていたが、やはり水には弱いと見える」
会社の公式カタログには、兵器の弱点など記載されていない。しかし仕組みに見当が付いたため、光学迷彩の弱点も見抜いていた。
亡霊たちの輪郭に沿うように、空中の雨粒が不自然に弾かれている。
アイスマンの光学迷彩は、一言でいうとディスプレイだ。装甲を兼ねている表面全体が、高精細な表示装置なのである。周囲の景色をカメラで取り込み、リアルタイムで投影しているだけだ。どの角度から見ても矛盾が生じないように、視差に対応して映像を合成している技術は見事である。
しかし弱点が明白な隠形でもあって、ペイントボールでもぶつけるだけだ。表面を塗料で汚してしまえば、それだけで無意味になってしまう。
今日は塗料の持ち合わせはないが、そんな無粋なものは使うまでもない。
「ご照覧あれ、我が氷の深遠……」
神に拝するように両腕を掲げると、コートから膨大な白煙が噴き出した。超低温の気流が周囲の大気と衝突し、含まれていた水分を強制凍結させていく。
重力に引かれて地表を舐めると、死の冷気が無音を引き連れて侵略する。煙の白さを失って不可視となっても、貪欲に広がって英国庭園にはびこった。
大気を満たす熱量が徹底的に奪われて、植物の表面には微細な氷の結晶が整列していく。まるで液体窒素へ直接浸したように、赤バラの花弁は細胞内の水分を凝結させていた。有機的な柔らかさを失って、ガラス細工のような質感へと変貌する。
降りしきる雨粒も地表に届く前に、固い粒へと姿を変えて吹雪になった。地表のいたるところに点在する水溜りも、爆発的な速度で結晶化を起こしていく。凍る際の急激な体積膨張に耐えかね、きしむような硬い悲鳴を上げている。鋭い亀裂が走って歪に盛り上がると、強固な固形物へと変貌を遂げた。
『第九圏』
魔術師の周囲にガス状の特殊溶媒を散布することで、絶対的に有利な戦闘フィールドを作り出す魔術である。無尽蔵の水分が供給される雨天は、氷の魔術にとって絶大な威力を発揮する環境だ。
流麗な所作で背中に腕を回すと、コートの下に隠した鞘に触れる。鮮やかに抜き放ったのは、刃渡り40センチメートルほどの両刃の短剣だ。
コートの人工筋肉が脈動して、心臓のような仕組みで特殊溶媒が循環する。極細管を伝って短剣にも流れると、刀身がマイナス200度に急冷された。
極低温単分子剣と名付けた短剣に、水分が付着して白い霜で覆われていく。
「世界を凍てつく静寂へと誘おう」
静かな声は鼓膜に心地よく、しかし冷酷に万物は動きを止める。
肌を刺す冷気が立ち込める戦場で、魔術師の姿は過剰に洗練されていた。全ての熱を否定し、極低温の世界を信奉する。
それは氷のように冷徹に透き通った、美しき狂気の体現そのものだった。




