Scene 埠頭のボートハウス
鷲明館のカフェテリアは、率直に学校の食堂には見えない。「金持ち私立」と言われるだけはあって、運営は外部のレストランへの委託である。
高い天井を支える複雑な鉄骨は、幾何学的が樹木のように美しい。総ガラス張りの壁面からは、手入れの行き届いた中庭の緑が見えていた。
なおここは高等部との共有施設なので、若干制服の異なる高校生の姿もある。
「……味は悪くない。むしろ美味しい部類なんだけどさ、どうしてここには炭酸飲料が置いてないわけ?」
放課後の気だるい雰囲気が漂う中、テーブルにいる仄火は不満げだ。彼女の前に置いてあるのは、乳白色の冷製ポタージュである。
「体に悪いからじゃない? 一応はここも学校の食堂でしょうし」
向かい側に座る陽織は、「おやつ」と言って軽食の時間だ。皿には焼きたてのスコーンが鎮座して、山盛りのクロテッドクリームとジャムが添えられている。
「味が繊細……。もっと濃くて雑なのがいい……」
仄火がポタージュをスプーンですくうと、オリーブオイルとコンソメの香りが鼻から抜けた。牛乳のまろやかさが大変に美味しいが、なぜに学校でヴィシソワーズなんぞを飲んでいるのか。
メニューには一皿で二千円もするステーキがあるくせに、仄火の好きなジャンクフードの類はない。脂ぎったハンバーガーは幻想だし、塩っぱいポテチも彼方だ。多量の砂糖を冷感でごまかすような、甘ったるいサイダーも見当たらなかった。
そして二人の女の子たちの横では、奏が早めの夕食を取っている。家から持ち込んだ複数のタッパーを前に、機械のように黙々と匙を使っていた。
仄火としてはあまり触れたくないが、ひとつだけ確認しなければならない。
「……ねえ、雪ノ下。それなに?」
「今日の夕食ですが?」
「……それ料理?」
「自作ですが? 錠剤は違いますけど」
奏は弁当箱ですらなく、そっけない透明のタッパーだ。
食事と呼ぶには抵抗がある代物で、粘度の高い謎ペーストが充填されていた。ひとつの中身は人工的なピンク色で、もう片方は不自然な緑色をしている。
「……あんた前に、料理ができるって言ってなかった?」
「できますよ」
「……それ料理なの?」
「まとめて十食分くらい作って、小分けにして冷凍してるんです。冷凍庫から持ち出すだけですから、便利ですよ」
奏は表情一つ変えずに続ける。
「でも人に出すものと、自分で食べるものは違います」
奏は緑色のペーストをすくい上げると、戸惑いもなく口に運んだ。咀嚼の必要すらない流動食を、補給のように淡々と飲み込んでいく。
「自分しか食べない食事に、手間をかけるのは時間の無駄です」
陽織が恐る恐るたずねる。
「……それ味は?」
「美味しいよ。食感は最悪だけど」
奏はピルケースから錠剤を出すと、白い粒がぶつかり合った乾いた音がする。あおるように口に放り込むと、コップの水道水でまとめて流し込んだ。
「……毒じゃないの?」
「ビタミン剤だよ。これで完全栄養食。とりあえず食べてれば死なない」
奏にとって自分の食事は、純粋に『能力を維持するだけの栄養補給』である。求めているのは機能性のみで、味や見た目など最初から度外視だ。
食事時間にして数分と効率も極まる、これで奏の夕食は終わりである。
§
「さて、じゃあ帰ろうか」
「仄火ちゃんまた明日」
「師匠、良ければ僕のお弁当、食べてみます? 持ってきますが?」
「……いらない」
各々で席を立つと、これで今日は帰宅するだけだ。
陽織が椅子に置いてあった、革製の学生鞄を手に取った。校章が型押しされた手提げ鞄は、制服と一緒に百貨店で用立てたものだ。
推奨品こそあれど私物を許可しているため、奏は自前のリュックサックを背負っている。耐水ターポリン生地で作られた、頑丈そうな大容量リュックである。
しかし仄火はなぜか壁際に行くと、巨大なスーツケースを引き寄せた。短期用の小型のものではなく、明らかに長期滞在を想定したハードケースだ。グローブトロッターのカラフルな外装に、呆れることに大量のステッカーが貼られていた。
「……仄火ちゃん、そのスーツケースは何?」
「服と日用品。生活に必要なもの一式」
「……旅行にでも行くの?」
「いや、ホテルから追い出されちゃってさ」
「追い出された?」
目を丸くする陽織の横で、身支度を終えた奏が割って入る。
「ホテルですか? そういえば師匠って、どこに住んでるんですか?」
「私? 特定の家はないよ。基本的にホテル暮らしだし」
書類上の仄火の自宅は、元麻布にあるヴィクトルのレジデンスである。ただ実情としては設備点検で行ったきり、もう半年は立ち寄っていなかった。
実質的な仄火の自宅は、強襲ステルス巡洋艦『ピークオッド号』である。しかし200メートルもの巨艦は、一般的な港には入れない。
沖合に停泊しているため、往復にはヘリコプターか連絡船が必要だ。通学手段としてあまりにも非効率なので、陸にいる間はホテルを転々としている。
「でも追い出されたって、何をしたの? 仄火ちゃんが使うようなホテルって、そんな簡単に、お客様を追い出すようなとこじゃないよね?」
無理もない指摘だ。
仄火が定宿にするのは、星が四つ以上も付くような一流ホテルばかりである。多少の無理難題であれば、笑顔で対応するのがホテルマンの仕事だ。
「ちょっとね、ティムの関節に使う軸受を作ろうとしたの。既製品だと足音が気になったから、もっと静かなやつを自作しようと思って」
ティムとは仄火と奏が悪乗りで作った、白熊型の警備ロボットのことだ。あれから電波の使用許可を取得して、現在は学校の警備システムとして稼働している。
「それがどうして、追い出されることに繋がるの?」
「……停電させた」
「は?」
「だからホテルを全館停電させて、スイートルームを水浸しにした」
仄火の口から語られたのは、破天荒を通り越した暴挙である。軸受を精製しようとした彼女は、ホテルの部屋に『精密焼結炉』を持ち込んだ。
焼結炉とは金属やセラミックの粉末に、高温、高圧、大電流を加えて、部品を成形する機械である。3Dプリンターのようなもので、本格的な工業用の産業機械だ。
「部屋のコンセントじゃ電圧が足りないから、業務用のエアコンから電源を引っこ抜いて、配電盤に直結したの。当然ブレーカーが落ちるから、針金でスイッチをぐるぐる巻きにして、無理やり電気を流し続けた」
結果は火を見るよりも明らかだ。
過剰な電流に耐えきれなくなった配線が融解し、発生した熱源を察知してスプリンクラーが作動した。さらにサージ電流がホテルのメイン変電設備に逆流して、安全装置を焼き切って全館停電を起こしたのだ。
即刻、強制退去である。
損害賠償を請求された上で、ブラックリストに載っても不思議はない。
絶句している陽織の横で、奏だけが感嘆の声を漏らした。
「さすがです、師匠。日常からして、非常識のスケールが違いますね」
「でしょ? いい迷惑だよ」
「大迷惑なのはホテルだよ!」
陽織が我慢できずにツッコミを入れるが、仄火はどこ吹く風といった様子だ。
「じゃあ、今日はどこへ帰るの?」
「決めてない。東京ならホテルなんていくらでもあるし、『知らないとこ行ってみよっかなー?』くらいにしか考えていない」
「それってホームレスじゃん。女の子が何を考えてるのよ」
陽織の苦言はもっともだが、仄火にすれば寝床など大した問題ではない。
ヴィクトルの家に転がり込んでもいいし、多少の手間はかかるがピークオッド号まで戻ってもいい。東京には他の隠れ家もあるし、ブラックアイアンの日本支社にも貴賓室がある。どうにでもなるからこそ、直前の今まで何も考えていなかった。
奏が何気なく提案する。
「じゃあ、僕の秘密基地に来ますか? 雨風くらいならしのげますよ」
「そういや、前にそんなこと言ってた?」
以前に機械工作部で話をしていたとき、奏から作業室があると聞いた。
「ちょっと古いですけど、ちゃんとした建物です。水道は通っていますし、何より電源は産業用の強いのが来てますから」
「……産業用電源?」
聞き捨てならない単語に、仄火が興味深そうに反応した。
東京には豪華なホテルは数あれど、強力な電源となると極端に限られる。大容量の電源設備は工場などにしかなく、部外者が容易に利用できるものではない。
『産業用の三相二百ボルト電源が使い放題』
それは一流ホテルの五つ星よりも、仄火にとっては燦然と輝いて見えた。
§
中等部から車で五分ほど走って、仄火の防弾リムジンは停車した。黒鉄の塗装にオレンジの差し色は、言うまでもなく特注のロールスロイスである。東京港に突き出した、芝浦埠頭という場所だ。
三人が後部座席から降り立つと、濃密な潮風が髪を揺らした。芝浦の運河沿いにそびえ建っていたのは、横浜にある赤煉瓦倉庫のような建物だ。
端的に三階建ての横長のビルで、一般家屋と比べたら軽く五倍はある。
「大きいじゃん」
「ここ昔は工場でした」
外壁の煉瓦は長い歳月で黒ずみ、外灯の金属部品には赤錆が浮いている。壁面には大型機材を搬入するための、無骨なシャッターが閉じていた。
建物の前には埠頭のコンテナ群が並び、東京港を挟んでレインボーブリッジと台場が見える。上方には首都高速が通って、コンテナに濃密な影を落としていた。
「どうぞ、入って。土足でいいから」
「おじゃましまーす」
金属製のドアを解錠して招き入れると、奏の案内で通路を進む。すぐに二階分が吹き抜けになった、テニスコートの半分はある広い空間に出た。
床面の一部が水路として掘り下げられており、建物の外から直接海水が引き込まれている。見上げれば高い天井の梁には、移動式のクレーンが設置されていた。
陽織が不思議そうに周囲を見回す。
「雪ノ下君。この建物は何なの?」
「もともとは小型船舶用の、修理工場兼ガレージだったんだ」
「ああ、それで」
仄火は水路がある理由と、生活感のない空虚な空間に納得する。海から小型船をダイレクトに乗り入れて、室内で整備・保管を行うためのドックなのだ。
「ドックの反対側が作業室です」
奏が向かい側のドアを開けると、教室のような広さがある別の部屋だ。奏が作業室にしている空間のようだが、面積の大部分を持て余している。奏が持ち込んだ機材なのか、旋盤やTIG溶接機などが所在なげに置かれていた。
「それで作業室の上――。二階と三階が居住スペースです」
玄関から室内階段を登ると、壊れたプリンタが放置された元事務所である。端的にただの埃っぽい廃墟で、天井を這う無機質な配管はむき出しだ。
片隅には粗大ゴミから拾ってきた、古いマットレスが無造作に置かれている。その上にある皺のよった寝袋は、奏が仮眠をとるときに使っているものだ。
§
建物の内見を終えた三人は、近所にあるラーメン屋に移動していた。中途半端な時間なので客はまばらで、悠々とテーブル席に陣取っている。
ほどなく運ばれてきた料理は、注文した醬油ラーメンと餃子だ。
琥珀色に澄んだスープから、鶏ガラの芳醇な香りが立ち昇っている。表面に浮かぶ油が照明を反射して、中細のちぢれ麺に焼き海苔が載っていた。
餃子は見事な円形に盛り付けられて、キツネ色に焦げた羽根が付いている。箸で割れば溶けた肉汁が皿にこぼれるほどで、意外なほど味の確かな店だった。
「あの建物、父が道楽で買ったボートハウスなんです」
奏が麺をすする。
「最初は取り壊すつもりだったらしいですが、再開発の予定が変わったとかで、今は維持費だけ払って放置してます」
「あそこ、かなり良いね」
仄火は餃子を口に運びながら頷いた。
産業用の電源が来ている工場で、大型機材の整備ができる。周囲の建物からは孤立しているため、深夜まで重機を動かしても騒音の苦情は出ない。立地的に夜中には人通りが途絶え、人目に付きたくない海上輸送ができる。
所有者が奏の父親のため、登記簿を調べても仄火にはたどり着かない。東京に滞在中の隠れ家としては、高級ホテルなどより遥かに上等である。
「師匠の好きに使っていいですよ。たまに僕が作業場にしてるだけで、どうせただの空き家ですから」
「住んでもいい?」
「正直、そこまでは困りますが、宿がないなら仕方がないです」
「じゃあ、しばらくあそこに泊まるわ」
仄火が何気なく宣言した瞬間である。
蓮華を使って上品にスープを飲んでいた陽織が、弾かれたように顔を上げた。
「だ、ダメよそんなはしたない!」
「はしたない?」
仄火が首をかしげると、陽織は妙に興奮した様子で身を乗り出す。
「男女七歳にして同じ席はダメって、お父様も言ってたわ! 男子が一人で独占している建物に、女子が寝泊まりするなんて!」
極めて真っ当な指摘だ。
人けのない廃墟のような建物に、年頃の男女が出入りしている。非の打ちどころのない密室となって、いつでも二人きりの状態が作れるのだ。
「いけないわ! せめてこういうのは、もっと手順を踏んでから!」
咎めているのか、それとも二人の関係を推奨しているのだろうか……。奇妙な言い回しで浮かれている陽織を、残りの二人は目を丸くして呆然としていた。
「陽織、何を言っているの? 何が問題なの?」
仄火は本気で理解できていない。
奏など異性として見ていないし、まず仄火は初恋がまだなのだ。男子と二人きりは危ないと言われても、仄火を襲うことなど不可能だと断言できる根拠がある。
一方の奏もしばし黙考して、すぐに納得したような顔で手を打った。
「あ、仲間外れにされるのが嫌ってこと?」
「は?」
「だったら深山さんの分も、ボートハウスの鍵を作るよ。作業場にジュラルミンの端材が沢山ある。フライス盤もあるから、鍵なんてすぐに出来るよ」
見事なまでに会話が噛み合っていない。
顔を朱色に染めた陽織が、声を潜めて問題点を説明する。身振り手振りで必死に解説をするが、仄火は心底呆れたようにため息をつくだけだ。
奏は話題そのものに興味がないのか、無視して餃子の残りを食べていた。
「陽織は考えすぎ。雪ノ下にそんなことは出来ない」
「そうですよ。僕がそんなことを、するわけがありません」
まだ話題がすれ違っていた。
奏は少年らしい潔癖さと、まともな倫理観によって主張している。仄火に至っては道徳のような寝惚けた話ではなくて、物理的な警備で無理だと断じている。




