Scene 忠誠の証
朝日に照らされる公道を、ヘルメットをかぶった奏が走っている。自転車のペダルを踏み込み、海風を切って埠頭に向かう。無骨なコンテナ群を横目にしながら右折すると、キャノンデールのクロスバイクを静かに減速した。
奏は別件で多忙だったため、ボートハウスに来るのは一週間ぶりである。仄火の食事事情が気になったので、食材を持って再訪したところだ。
ボートハウスの正面に停車すると、ポケットを手探りして鍵を取り出す。いつものようにドアを開けようとしたが、そこで思いもよらない現実に戸惑った。
「鍵穴……どこ?」
ボートハウスの正面入り口のドアに、当然あるべき鍵穴が見当たらない。
「……もしかしてこのドア、新品?」
表面の塗装こそ記憶と大差ないが、その下地となる材質が特殊合金に変わっているようだ。以前はあちこちの塗装が剥げていたのに、今は細部に至るまで完璧な手入れが行き届いている。
奏は大きく後ずさりして、改めて建物の外観を見上げた。全体的な輪郭に大きな変化はないが、醸している雰囲気が確実に変わっている。
「……窓が……ない?」
雰囲気が一変した要因は、窓ガラスが一枚も存在していないからだ。外観のガラスが全て撤去されて、代わりに緑青の浮いた銅板がはまっていた。赤煉瓦と調和して大変に美しいが、これでは建物の中が真っ暗になってしまう。
……いや、違う。
「これ構造化偏光ガラス?」
顔を近づけて観察すると、表面の質感が銅板ではない。見た目こそ酸化した銅板に酷似しているが、触った感触はガラスのように滑らかだ。
構造化とは表面を調整することで、特殊な構造色を発生させる技術である。偏光ガラスとは片側からは不透明なのに、反対側から見たら透明のガラスのことだ。つまり外からは緑青化した銅板に見えるが、建物の内側からはただのガラスになる。
まだ高価なため個人レベルでの使用はめったになく、大規模な商業施設でしか見られない代物だ。
奏の背中に静かな鳥肌が立ち、嫌な予感が虫のように這い上がる。
あの規格外の師匠に対して、不用意にも「好きに使っていい」と言ったのだ。自分の認識が甘かったことを、奏は今更ながら悟り始めていた。
仄火に連絡を取るべく、スマートフォンを取り出そうとしたときだ。
『雪ノ下、ドアのロック開けたから。入っていいよ』
周囲にスピーカーなど無いのに、壁から仄火の声が聞こえた。
なぜ奏の来訪に気づいたのか、そんな疑問さえも押し流す。重厚な金属音が鳴り響くと、入り口のドアが自動で開いた。ドアの厚みにして10センチを超える、シェルターのような装甲扉である。
恐る恐る足を踏み入れた奏は、次の瞬間には絶叫を上げる羽目になった。
「なんじゃこりゃああああ!」
内部は原形を留めないほどの、徹底的なリフォームで激変していた。壁に防弾鋼板を仕込んだことで、部屋の間取りまで変わっている。
ドックに駆け込んで見たのは、室内の水面に浮かんだ小型船だ。船体には仄火のカラーリングが施されて、流麗なデザインはいかにも高級ボートである。前回までは開放型だった水路にも、堅牢なシャッターが設置されていた。
作業室にしても異常な有様で、奏でさえ見慣れない機械が並んでいる。本来ならば国家規模の工場にしかないような、高度技術の塊が部屋を埋め尽くしていた。
「し、師匠、どこです!?」
『三階。階段を上がってきて』
使用する部屋を優先したらしく、二階はまだ工事中で資材が積まれていた。三階まで上がるだけなのに、防犯用のシャッターを二枚も通る。脇目も振らず最上階まで駆け抜けると、出迎えたのは天然木が美しい高性能ドアだ。
紛れもなくボートハウスの中なのに、なぜか三階に独立した玄関があった。
『雪ノ下、そこで靴を脱いで。私、土足嫌いなんだ』
「そんなことはどうでもいいです!」
脱いだ靴をそろえる余裕すらなく、仄火がいるらしい部屋へと飛び込んだ。途端に奏が立ちすくんだのは、高級ホテルのような内装を見たからである。
「な、なんです……これ……」
埃っぽい廃墟の面影などなく、二十畳を優に超える洋間だった。白と黒鉄色で統一されて、石材と金属が目立つ硬質な印象である。オレンジ色の間接照明が、冷たい真鍮の装飾を照らしていた。大理石の床には絨毯が敷かれて、大型のレザーソファが存在感を放っている。
そして何よりも視線を引くのは、壁一面に設けられたアーチ形の大窓だ。東京港のくすんだ青色の向こう側に、都心のビル群とスカイツリーを展望できた。
「おーす、雪ノ下。おはよー」
奥から気の抜けた声がかかると、欠伸を噛み殺しながら仄火が出てきた。寝間着らしいハイブランドのスウェットを着込み、黒髪には見事な寝癖が付いている。
「し、師匠! 何てことをしてくれるんですか!」
「うるさいなあ。朝から大声を出さないでよ」
「これが騒がずにいられますか! ほとんど別の建物じゃないですか! こんな大規模な改築をして、父にどうやって言い訳すれば良いんです!?」
奏は頭を抱えて抗議する。
仄火は壁と一体化したビルドイン冷蔵庫から、サイダーを取り出しながら平然と言い放つ。
「別にいいじゃん。もしパパさんに怒られたら、私が建物ごと買い取るからさ」
§
新造された隣部屋には、ドイツ製のキッチンが設置されていた。中華料理店のような火力を前に、奏が慣れた手つきで鉄鍋を振っている。
熱した中華鍋にラードを落とすと、甘い脂の香りが微かに立ち昇る。ネギの半量を香りが出るまで炒めてから、一度別の皿へと移しておく。香味油に溶いた卵を流し入れて、白米を投入して手早く鍋をあおる。ほぐれたところで全てのネギと、刻んだチャーシューを追加した。調味料で味を調整して、醤油を鍋肌から回し入れる。焦げた醤油の香ばしさと、紹興酒の芳醇な香りが混ざり合う。
手早く二人分を皿に盛り付けると、仄火が待つテーブルへと運んで行った。
「……雪ノ下、ほんとに料理できたんだ」
「最初からそう言っています。僕は『物を作る』のはだいたい得意です」
エプロンを外した奏は、仄火と対面する食卓へと着いた。軽く味見はしたので確信していたが、我ながら良く出来た炒飯だと思える。
米粒は黄色い卵を均一にまとって、空気を含んで見事にほぐれている。味付けも仄火の好みに合わせて濃いめにしたし、これなら満足してもらえるだろう。
「……美味しいじゃん」
「ありがとうございます」
食事を進めながら、折を見て奏が切り出した。
「ときに師匠、ご相談があります」
「なに?」
「一階にある機材、僕が使っても良いですか?」
奏の真摯な瞳には、隠すつもりもない熱がこもっていた。
一階の作業室にあった機械は、普通は個人で持てる代物ではない。安くても数千万円は下らないもので、中には億を超えるような、最新の機材まで混ざっていた。
「……まあいいか。この建物を紹介してくれたし」
仄火は一瞬迷った表情をしたが、多少は恩に感じているのか承諾した。
「雪ノ下、タブレットは持ってる?」
「あ、あります」
奏は置いてあったリュックから、私物のタブレット端末を取り出した。
「スターバック。説明書を転送して」
「かしこまりました」
二人きりだと思っていた部屋に、唐突に第三者の声が響き渡った。
驚いた奏が見回すが、それらしき男性の姿はない。
「だ、誰ですか?」
「私の秘書みたいなもん。AIだよ」
見知らぬ男性が潜んでいるわけではなく、機械の合成音声だと知って安心する。
しかし安堵もつかの間、奏を次なる恐怖が襲う。
「……なっ!」
タブレットの画面が勝手に点灯して、無数のマニュアルが格納されていく。タブレットのWi-Fi接続は、確かに有効にしてあった。百歩譲ってセキュリティをすり抜けて、MACアドレスを特定されたまでは良しとしよう。
だが奏は受信の許可など出していないのに、スターバックとやらは当たり前にデータを書き込んだ。暗号化プロトコルをほとんど素通りして、いとも無造作にOSの管理者権限を奪ったのだ。
「……一体どういう魔法なんですか」
理解を超えた技術力を前に、奏は呆然と画面を見ることしか出来ない。
§
一階の作業室に降りた奏は、金属製の台座の前で座り込んでいた。彼の眼前に鎮座しているのは、縦横80センチメートルほどの四角い箱である。
この機材こそが仄火が大規模な停電騒ぎを起こして、ホテルを追い出されることになった元凶だ。
小型の精密焼結炉である。
『使う前に読め』と念押しされたので、素直に説明書を熟読していた。次第にオーバーテクノロジーの仕様書を見ているような、形容しがたい感覚に陥ってくる。
「……こんなものを動かしたら、そりゃホテルも停電するよ」
仕組みを簡単に説明すると、金属用の3Dプリンターだ。
充填した金属粉末に対して、高出力のレーザーなどを照射する。融解と凝固を繰り返して、緻密に立体物を積層していく。設計図になる三次元の造形データと、対応する金属粉末さえ用意すれば、理論上はどのような形状でも生成できる。
ただし一般的な焼結炉は、せいぜい十数ミクロンの精度でしか作れない。しかしブラックアイアン社の精密焼結炉は、一万分の一ミリ単位――すなわちサブミクロンでの造形を実現していた。
この次元の微細構造を作れるのであれば、造形後の研磨など必要がない。
「……使ってみたい」
エンジニアとしての純粋な探求心が、奏を強烈な誘惑に飲み込む。こんな世界に数台しかない特殊機材など、手元にあったら試してみたくもなる。普通の焼結炉なら経験があるため、金属粉末は奏の研究室に残っていたはずだ。
なお改築の魔手が及んだ結果、二階にあった奏の研究室も解体された。しかし破棄までは気が咎めたのか、部屋にあった物品はまとめて保管してあった。内装が完成したら私室をくれると言っていたので、かろうじて師匠を信用することにする。
奏は手元のタブレットを操作し、フレームワークソフトを立ち上げた。仄火が以前に見せてくれた、専門家向けの高度なシステムだ。仄火は「どうせコピー」と分けてくれたが、ブラックアイアン社の社外秘ソフトである。
当然ながら練習中の奏では、仄火のような魔法じみた速度では使えない。また習熟とテストで試すだけなので、出来るだけ単純な形状が望ましい。
よって何を設計するかと問われたら――そんなものはひとつしかない。
§
昼休みの喧騒が落ち着いた教室で、奏は机上の教科書を片付けていた。開け放たれた窓から風が吹き込み、色褪せたベージュのカーテンが波打つ。
「雪ノ下君、それピアス?」
名前を呼ばれて顔を上げると、通りかかった陽織が足を止めていた。彼女が興味津々で見ているのは、奏が左耳に付けているチタンである。
「イヤーカフだよ。耳に挟んでるだけ」
「先生に怒られない?」
「大丈夫。許可をもらったから」
「もらえるものなの?」
「これアクセサリーじゃないんだ。パルスシンカーっていう医療機械」
パルスシンカー。
脳波を非侵襲的に検知して、電気信号へ変換するセンサーである。思考のみで外部機器を操作する、ブレインマシンインターフェイスの一種だ。本来は義肢装具を操作するために開発された技術で、奏の家業である雪ノ下製作所の専門分野である。
「父の会社で新型を試作してて、長期のモニタリングをやってる」
「何かのテスト?」
「臨床試験だね。僕の心拍数とか手足の動きとか、日常生活の脳波を記録してる。僕のリアルタイムの生体データが、会社のサーバーに送られてるよ」
「えー」
「父に『外すな』って言われてる。学校に書類を出したら簡単に通ったよ」
「それって監視じゃん。嫌じゃないの?」
陽織が同情を込めて首をかしげると、奏は朗らかに笑って受け流した。彼女が教室を去るのを見届けてから、奏は途中だった手元の作業を再開する。
……奏が語った言葉に、嘘はひとつもない。雪ノ下製作所の試作品を装着しているのも、奏の生体データを記録しているのも事実である。
しかし装着は親の強制ではなくて、奏が自分から志願したものだ。学校でイヤーカフを付けるための口実として、臨床試験の被験者になるのが好都合だった。
周囲に視線がないことを確認して、耳からイヤーカフを外す。
艶消しした黒鉄のような質感で、形状はシンプルな『C型』である。外殻はあの精密焼結炉で造形したもので、雪ノ下製作所のパルスシンカーを内蔵した。表面にはミクロン単位の積層痕すらなく、ガラスを触っているように滑らかだ。
男性が付けても不自然のない、とても落ち着いたデザインである。だが奏はたった一点だけ、極めて私的な細工を施した。
外側の地味な黒鉄色とは対照的に、湾曲した内側が鮮やかなオレンジ色なのだ。チタンの陽極酸化処理によって、塗料では到達できない輝きを放っている。
黒鉄色とビビッドオレンジ。
仄火が自分の所有物に入れている、お気に入りのパーソナルカラーだ。
この内側に秘めた配色は、奏だけの自己満足である。誰かに気付いて欲しいわけではないし、むしろ自分だけの秘密として墓場まで持っていくものだ。何よりも仄火が興味を持って、手に取ることだけは避けたかった。だから装着したら隠れてしまう、イヤーカフの内側に仕込んだ。
これは雪ノ下奏という少年が、仄火に対して忠誠を誓った証である。




