Scene 顔だけの詐欺師
時計の針を一年前に戻そう。肌を焦がすような日差しが降り注ぐ中、当時の俺はアフリカの某所にいた。
俺の名前はヴィクトル・リンドベリ。
年齢は三十五歳、白夜が訪れるデンマークの出身だ。
生まれも育ちも底辺に極まり、最終学歴は中卒で終わっている。これまでの職歴はスリとコソ泥、あるいは詐欺師といった裏家業ばかりだ。
誓って殺しの経験はない。
父親が重度のジャンキーだったので、違法薬物は心底から軽蔑している。
この世で最も愛している人は、幼い俺を捨てて出て行ったママだ。
そして最も嫌いな相手は、死んだ父親である。
あらかじめ断っておくが、俺の父親に同情しないで欲しい。ママがテレビを見ていただけで、うめき声しか出なくなるまで殴るような男だった。死体の第一発見者は俺だが、死んで当然の末路に清々しさすら覚えたくらいだ。
父親はコカイン中毒の果てに、自宅から飛び出して事故死した。自分の部屋が火事になった幻覚を見て、隣家のプールに頭からダイブしたのだ。底に溜まっていた泥に上半身が埋まって、子供でも立てる水深だったのに溺死した。
前に日本人が書いた推理小説の、『犬神家の一族』の英訳版を読んだことある。まさにあの場面にそっくりで、腹がねじ切れるほど笑ったくらいだ。
そして今日。
俺はアフリカの赤土に膝をつき、人生のエンディングロールを眺めていた。
「……神様。もし助けてくれたら、二度と女性は騙しません」
俺の懺悔に対して、眼前にいる黒人の男――反政府ゲリラの軍曹様は、虫歯だらけの歯を見せて笑った。軍曹の手には錆びついた自動小銃があり、足元には俺が盗んできた麻袋が落ちている。
計画は完璧だった。
視察に来た鉱山会社の職員になりすまし、紛争地帯のど真ん中でブラッドダイヤモンドを盗み出す。あらかじめ手配しておいた四輪駆動車に飛び乗り、死地を脱したらパリに高飛びして豪遊する。
これがハリウッドの映画ならば、大ヒット間違いなしのサスペンスだ。
だが現実は開始五分で軍用犬に追い回され、肥溜めに落ちて糞まみれになる。命からがら逃げ込んだ先が、ゲリラの本拠地だったというB級コメディだった。
眼前に黒い銃口を突きつけて、ひざまずいた俺に引き金を引こうとする。
「死ね、白豚」
とっさに叫んだ。
「待ってくれ! 俺を殺すのは惜しいぞ! 俺はハリウッドスターだ!」
嘘である。
「俺を人質にすれば、身代金が取れる!」
これもハッタリだ。
俺には後ろ盾など無いし、そんな金があるなら盗みはやらない。だがハリウッドの俳優だという話は、立ち回りによっては信じてもらえる勝算があった。
自分で言うのも何だが、俺の顔立ちは整っている。落ち着いたバリトンの声で囁いて、なびかなかった女性は一人もいない。映画俳優だという突飛な話も、信じ込まれたことが一度や二度ではないのだ。容姿が武器になることを自覚しているから、ボディメイクだって欠かしていない。
俺は泥と汚物にまみれた顔で、人生でも最高傑作の『憂いを帯びたハンサム顔』を作った。眉間に整った皺を寄せて、誠実そうな瞳で軍曹を見つめる。
畜生みたいな負け犬人生だったが、最後まで信仰だけは捨てなかった。シャツの下にあるロザリオを握りしめれば、きっと神様だって奇跡を起こしてくれる。
「主は見ていてくださる。あなたにも慈悲があるはずだ」
軍曹は真顔で言った。
「知るか、死ね」
……ああ、最初からこの結末は、心の奥底で痛いほどに理解していた。
これが俺のラストダンスだ。
何一つ遺せなかった人生だが、好きに生きてきた確信だけはある。俺を束縛するものは何もなく、肉体すらも解き放たれて真の自由を得るのだ。
いや、嘘です。
死にたくないです、助けてください。
しかし死を確信したとき、あらゆる理解を超えたことが起こった。大気が爆裂したような衝撃波が襲うと、俺の目の前で軍曹の上半身が消滅する。
まるで神の指先でデコピンでもされたように、軍曹の上半身だけが奇麗に吹き飛んだのだ。肉片どころか血飛沫すら上げずに、腰から下だけの軍曹が立っている。しばしの時間を置いて、木偶人形のように膝から崩れた。
「……は?」
間の抜けた声を上げたとき、俺の知っている常識が壊れた。
隣に止まっていたT-72戦車が、蹴り飛ばされたように宙を舞ったのだ。決して誇張や比喩ではなくて、総重量40トンもある戦車が空中を飛んだ。まるで空き缶かサッカーボールのように、ゲリラのアジトに屋根から落っこちる。
「悪霊だああああ!?」
「撃て! 見えないぞ! どこだァァァ!」
同時に寝込みに放火でもされたように、ゲリラたちが急にパニックに陥る。何もない虚空に自動小銃を乱射して、その幾分かは味方を同士討ちにしていた。
そして俺は見た。
水場に近い湿った赤土の上に、1メートルを超える巨大な足跡が付いた。重苦しい地響きと共に、見えない巨人が歩いていると直感する。
右往左往する大勢のゲリラたちが、みるみるうちに数を減らしていく。アジトだった木造家屋が、電柱でも振り抜いたように粉微塵になる。まるで神の巨大な手に掴まれたように、ひとりの兵士が空中に浮かんでいた。絶叫しながら暴れ回るが、雑巾のように絞られて破裂する。また別のひとりは見えない足に踏み潰されて、潰れたトマトのように地面と同化した。
逃げ惑う黒人の男たちは、もはや俺のことなど眼中にない。あまりの光景に呆然と座り込み、火達磨になったゲリラが走り回るのを眺めていた。
「じ、地獄だ……」
きっともう、俺は死んでいるのだ。
死んで地獄に落ちた。
胸元に軍曹の銃弾が撃ち込まれて、俺は今わの際に幻覚を見ている。
そうに決まっている。
やっぱりご婦人への結婚詐欺は、やってはいけないことだったのだ。彼女が「お前は地獄に落ちる」と吐き捨てた、別れ際の言葉は正鵠を得ていた。
俺は頭を抱えてうずくまり、全身を恐怖に震わせている。死に顔くらいは格好よくありたいと、ひたすら顔面を崩さないことだけを意識した。
それからしばしの時を置き、耳から入ってきた音が静かになる。ゲリラの悲鳴も破壊音もなく、大地を踏みしめる巨人の足音もない。
恐る恐る目を開けて見たのは、跡形もなく壊滅したアジトだった。あらゆる建造物が木端に変わり、ひしゃげたジープが転がっている。信じがたいことに戦車は真っ二つに両断され、燃料に引火したのか燃えていた。延焼したアジトは炎に包まれて、ときおり建材が弾ける音がした。
生きている人間は一人もおらず、人型を留めている死体のほうが少ない。おぞましいことに人体が燃える匂いは、豚肉を焼いたように香ばしいものだった。
そして災火の中心に、見えないモヤのようにそれはいた。
青空を背景とした頭上の空間が、陽炎のように揺らいでいる。なにか巨大な物体がいることだけはわかったが、限りなく透明で輪郭すらも判然としない。
「え……」
しかし俺が見ている前で、見上げる高さにいきなり『穴』が開いた。乗り物のハッチが開いただけなのだが、このときは理解不能の奇跡のように感じた。だから身軽に飛び降りた少女を、助けに来てくれた神か天使だと思ったのだ。
その人物はとても小柄で、全身を純白のスーツに包んでいた。未来の乗馬服のような不思議な格好で、真珠のような表面にときおり緑青色の光が走る。
まだあどけなさの目立つ、アジア系の少女だった。東洋人はただでさえ童顔に見えるが、それを考慮してもあまりにも幼すぎる。しかも泳いだばかりのようにびしょ濡れで、乱れた黒髪を無造作に手で整えていた。
彼女は目の前までやってくると、汚物まみれの俺の顔を覗き込んだ。
「……すごいね」
英語が通じる。
乾いた喉からどうにか言葉を紡ぎ出し、微かに震える声で問いを発した。
「あ、あなたが……神様、ですか?」
「近い。死神」
迷いもなく断言された言葉に、俺はまだ地獄にいることを悟る。この子は助けに来てくれた天使ではなく、地獄の御使いである白い死神だ。
彼女はひざまずいた俺の顎先をつかみ、値踏みするように左右に傾ける。
「汚い。臭い。血と泥と糞まみれ。なのに、顔だけ光ってる」
頬の骨格をなぞる。
「顔がアートだね。こんなに奇麗な人って、現実にいるんだ。全部のパーツが黄金比だし、鼻筋の角度も芸術的。眉間の皺なんて、ミケランジェロの彫刻みたい」
彼女の瞳は人間を見るものではない。
それはウフィツィなどの美術館で、偉大な彫刻を観賞するような視線だ。
「これ整形じゃないよね?」
「う、生まれつきです……」
「だよね、整形の変な統一感がないもん」
向き直る。
「ねえ、おじさん」
「は、はい!」
「こんなに良い顔してるのに、どうして泥の中にいるの?」
「……才能が、顔しかなかったからです」
俺が正直に答えると、彼女は腹を抱えて笑い転げた。酷く無邪気でありながら、どこか残酷な響きを孕んでいる声だった。
ひとしきり笑ってやっと落ち着いた頃に、急に意味不明なことを言い出す。
「おじさん面白いね。気に入った。私のパパになってよ」
「はい?」
一瞬、耳を疑った。
俺が生まれ育った界隈では、パパやダディは性的な意味合いを含む言葉だ。純粋に父親という意味か、男女間の隠語なのか区別が付かない。
俺は女性に不自由した経験が無いし、まずこんな子供は趣味ではない。
「ちょうど探してたんだー。表舞台に立つための、見栄えのいい代理人。私だと子供すぎて、相手にされないから。中身は空っぽでいいの。見た目が立派で、偉そうに座っていれば。あとは私が全部やるから」
彼女はどこからかスマートフォンを取り出すと、俺の隣に身を寄せる。背後には両断された戦車の残骸と、下半身だけの軍曹が転がっていた。
慣れた様子で自撮りのポーズを決めると、画角に収めてシャッターを押す。自分が殺したばかりの死体を背景に、愛くるしく笑える感性が理解できない。
「選択肢は三つかな。面白かったから選ばせてあげる」
一つ目。ここで死体に交じって肥料になる。
二つ目。特別に見逃してもいいけど、雑魚みたいな生活を続ける。
三つ目。私のパパになって、世界を舞台にして派手に踊る。
「どれがいい?」
「パパになります!」
俺はコンマ一秒の迷いもなく、白い死神に魂を売った。プライドなど十二のときにドブに捨てたし、今さら拾う気もない。
百人規模の重武装したゲリラを、一方的に殲滅するような相手だ。長いものには巻かれるに限るし、強い者に逆らうと早死にする。
威勢のいい連中は何人も見てきたが、そういうやつらはおおむね墓の下だ。
「よろしい。じゃあ契約成立だね」
「お、俺の名前は……」
「興味ないよ、そんなの。パパって呼ぶから」
こうしてこの少女――久世仄火は、俺のボスとなった。
俺など路傍の石くれのごとく、背後に残してきびすを返す。応じて透明な巨人が立ち上がると、追従するように歩いた地響きがした。
このとき俺は本気で思ったのだ。
仄火が次元の違う強者であることは、言われずとも雰囲気だけで思い知る。それまでの底辺の生活と比べたら、たとえ死神でも地獄の方が幾分マシだろうと。
だがまさか地獄の生活が、ブルジョアも極まるとは夢にも思わなかった。
『召使い付きの豪邸で、長椅子に寝転んでNetflixを見れた』
多少の無理難題さえ我慢すれば、浮世離れした華やかな生活が待っていた。ただ艱難辛苦のダンスを踊る場所が、常に崖っぷちで落ちたら即死するだけで。




