Scene 死神船と航海士
東京湾の沖合に、白亜の巨船が停泊していた。水平線には雲がかかり、波は穏やかに凪いでいる。船がポツンと浮かぶ姿は、海原に浮かぶ白鳥の羽根のようだ。
だが近づいてみれば、実態はそんな詩的なものではない。
大きい。
全長にして200メートル。
ナイフのような流線型を持つその船は、大富豪が所有するギガヨットである。
船名は『ピークオッド号』。
外装こそ豪華絢爛なギガヨットだが、その正体は強襲ステルス巡洋艦だ。徹底的なAI制御によって乗員を排し、船の大部分は無人化されている。普段から少人数なのに今日は輪をかけて少なく、人間は二人しか乗っていなかった。
一人はヴィクトル・リンドベリ。アジアの大手重工業メーカーの役員である。
そしてもう一人はこの船のオーナーで、『死神』と呼ばれる少女――。
久世仄火だ。
中央の積層デッキの最上層には、全面ガラス張りの展望ソラリウムがある。機械によって管理された人工の庭園で、空調で風の揺らぎまで再現されていた。本物の花々が咲き乱れ、甘い蜜の香りがかすかに漂う。
健全無欠ともいえる植物園だが、壁際に致命的な異物が混ざっていた。北極熊のような白い質感を持つ、のっぺらぼうのマネキンがずらっと整列している。美しい庭園に打ち込まれた墓標のように、ひっそりと沈黙を守る姿はどこか不気味だ。
それは鍛えた成人男性と変わらぬシルエットを持ちながら、体表面には人間的な特徴が欠落していた。眼窩も、鼻梁も、口唇もない。全体的に凹凸がなく、丸っこい曲線ばかりの無貌のマネキンである。
ざっくばらんに言ってしまえば、外見は『ペプシマン』にそっくりだ。
光の加減によって真珠のような光沢が走るのは、表面に塗布された『偏光性珪素結晶板』の影響だ。一見すると柔らかそうだが、実際は全身が装甲の塊である。
行動中は透明化しているため、この姿を見る機会はあまりない。この『のっぺらぼうの白いマネキン』こそ、『アイスマン』と呼ばれる歩兵型の自律兵器だ。
静かな機械音を立てて、階下からのエレベーターが到着した。出てきたのは立派なスリーピースを着込み、銀髪を丁寧に整えた美丈夫である。
「うぅ……」
今日も今日とて胃が痛いのか、ヴィクトルは鳩尾に手を当てていた。堂々としていれば美術品じみた男なのに、背中を丸めていては台無しである。眉間には痛みから来る皺が刻まれて、足取りは鉛のように重たい。
ヴィクトルのスリーピースは極上の仕立てであり、通気性よりもシルエットの美しさを優先している。そのためかソラリウムに入った瞬間に、首元に不快な熱気を感じた。もちろん慣れの問題で、すぐに気にならなくなったはずだ。
しかし一切の態度には出していなかったのに、ヴィクトルの周囲だけ気温が二度ほど下がる。快適な酸素濃度に調整された冷風が、そよ風のように包み込んだ。
「お帰りなさいませ、リンドベリ様」
無意識すら察して調整したのは、船を管理しているAIの『スターバック』だ。仄火専用の汎用AIであり、ピークオッド号の航海士でもある。
スターバックに実体はなく、どこからともなく慇懃な男性の声だけが響いた。ソラリウムにスピーカーのような無粋なものもなく、壁、ガラス、葉の振動――そういった構造体を使って、工学的に発声している。
「心拍数102、血圧上昇、コルチゾール値が危険域でございます。そのお顔の色合いは、胃薬をご所望と拝察いたします」
ヴィクトルが肯定を返すよりも早かった。
直立していたアイスマンの一機が、まったく音を立てずに動き出した。物陰の冷蔵庫から水差しを取り出し、クリスタルのグラスへ鮮やかに注ぐ。滑らかな所作で銀盆に乗せると、胃薬と共にヴィクトルへ差し出した。
その動きは生理的な嫌悪感を抱くほど人間的で、洗練された執事そのものだ。道具を使うという人間の特権を、無貌の怪物に奪われたような違和感があった。
ヴィクトルは錠剤を流し込み、誰もいない虚空に向かって呻く。
「……スターバック。外はどうなってる」
「現在、毎分400件のペースで着信してございます」
直近の記憶が曖昧になるほど、ヴィクトルは仕事に忙殺されていた。それもこれもアメリカの大統領が、突然エイハブの購入を公表したからだ。アメリカが導入した新兵器など、どの国でも座視できる代物ではない。
事前の根回しが無かったため、ブラックアイアン社としては寝耳に水である。ヴィクトルへは政財界の要人から、表敬訪問という名の探りが殺到していた。
エイハブの販売元は、『ブラックアイアン』というシンガポールの企業だ。アジア最大級の重工業コングロマリットで、軍需産業としても世界的な知名度を持つ。だがその実態は、表舞台に兵器を売り込むために、裏社会の武器商人が作り上げたフロント企業である。
現在のオーナーは仄火だ。
そしてヴィクトルの表向きの立場は、ブラックアイアン社の日本支社長である。
「忙しい……。休みたい……」
ついさっきもフランスの駐日大使と会ったばかりで、食事など連絡ヘリの中でカレーパンを食べただけだ。全社対応を任されているスターバックに至っては、さぞ凄まじい処理量になっていることだろう。
「ご安心くださいませ。すべて滞りなく処理しております」
ヴィクトルの目の前で、何もない空間が一瞬だけ明滅する。
すぐにホログラムか何かで、無数のウィンドウが山のように流れた。英語、フランス語、中国語、アラビア語――世界中の言語が高速でスクロールしていく。
「イギリスとフランスには、当社のカタログを送付いたしました。ペンタゴンには価格表を。CNNにはノーコメント。抗議には自動音声で対応しております。そしてお嬢様への求婚は、スパムフォルダに分類いたしました。これらの会話を相手の言語、方言、文化的背景に合わせて、同時かつ個別に行っております」
流れていく文字列は、人間の動体視力では追うことすらできない。
スターバックの常軌を逸した処理能力は、いつものことながら戦慄を覚える。
「……お前、一人で何人分の仕事をしている?」
「サーバーのリソース使用率は、わずか0.02%でございます。暇潰しにリンドベリ様の脱税――失礼、言葉が滑りました。節税の申告書も修正しておきました。そのまま国税局に提出していただければ、問題なく通るかと存じます」
「悪魔め」
「最高の賛辞でございます」
ため息をつく。
「……そんなことより、ボスはどこだ」
「奥のラウンジにいらっしゃいます」
石畳の通路を進むと、ソラリウムがもっとも美しく見える場所に仄火はいた。
円形に設えられたガーデンラウンジである。
職人の手仕事だと一目でわかる黒檀のローテーブルには、場違い極まりない原色のパッケージ――開封されたポテトチップスの袋が散乱していた。隣に置かれたバカラのグラスでは、注がれた炭酸水が無垢な宝石のように気泡を上げている。
一流ホテルのような革張りの長椅子に、ハイブランドのパーカーを着た仄火が寝そべっていた。視線の先には巨大なモニターが鎮座し、彼女は惰性でコントローラーを操作している。
空間音響から本物さながらの崩壊音が轟き、画面内では熾烈な戦闘が繰り広げられていた。だが遊んでいる仄火の瞳に熱量はなく、深海のように暗く凪いでいる。
不意に仄火が動く。
画面から視線を外さず、無造作に虚空へと右手を差し出したのだ。
同時に影のように控えていたアイスマンが、差し出された手の軌道、速度、到達点の座標――その全てをあらかじめ入力されていたかのように、ポテトチップスを載せた銀皿を滑り込ませた。
そこに在ると確信しきった指先が、一切の淀みなくチップスを摘み上げる。アイスマンの奉仕を当たり前のように無視して、仄火は視線すら向けなかった。
「……この敵、硬い」
「お嬢様、助言は必要でございますか?」
「ん」
「敵の攻撃パターンはCでございます。2秒後に右スティックを倒し、続けて攻撃ボタンを2回連打してください。それで沈みます」
仄火は言われた通りに、気だるげに指を動かした。画面の中のアバターが鮮やかに攻撃を回避し、巨獣の眉間に致命の一撃を叩き込む。
すぐにステージクリアを告げる、華々しいファンファーレが鳴り響いた。
「……終わった」
「流石でございます」
ヴィクトルはこめかみを押さえ、深いため息を漏らした。
この船はスターバックの完全な支配下にあり、無数のアイスマンによって管理されている。船上にある全ての事象が、AIの掌の上で動いているのだ。スターバックは忠実な仄火の下僕であり、乗船している限り不快になることすら許さない。
それは娯楽の敗北とて例外ではないようだ。
最適解をAIに算出させて、人間はボタンを押す入力装置に成り下がっている。
「ボス……」
ヴィクトルは胃痛をこらえながら、改めて主のほうを向いた。仄火はゲームをクリアした余韻に浸ることもなく、ただ退屈そうに虚空を見ている。顔つきはまだ子供の女の子なのに、双眸の温度感だけが氷のように冷たい。
「ボス、説明してくれ」
「なに?」
「エイハブのことだ。世界中から問い合わせが殺到している。ボスは本気でエイハブなんて、物騒な代物を売るつもりなのか? アイスマンだけでも充分すぎる戦力のはずだ。あんなデカブツまで市場に流せば、世界の均衡なんて消し飛ぶぞ」
「パパには話してなかったっけ?」
「何も聞いていない。ボスはいつも肝心なことを話さない」
「……今なら暇だしいいか、じゃあ説明してあげるよ」




