Scene 這い回る白熊
屋外の厳重な警備とは対照的に、校舎の中は味気ないほどに素通りだ。特殊ブーツの性能で足音はほぼなく、女子更衣室に繋がる回廊へと差しかった。
聖域へと至る一本道に踏み込もうとしたとき、魔術師の無意識が緊張する。
「オゾン臭がする」
人並外れて鋭敏な嗅覚に、微かな刺激臭が刺したのだ。
「……なるほど、そういうことか」
一瞬で仕掛けを看破すると、挑発的に笑い飛ばした。
高電圧によって大気が電離して、イオン化したときの匂いだ。つまり大量の電気を使う罠が、この付近に設置されていることを意味する。
「来たれ、屍王の吐息よ」
パルスシンカーが思考を読み取り、コートに分散配置された極小プロセッサが反応する。必要な流体圧を瞬時に計算し、循環する液体窒素を気化させた。
フローズンコートの極小ノズルが全開放されて、高圧充填されていた液体窒素ガスが噴出する。断熱膨張をともなった温度変化で、空気中の水分が急冷却された。廊下はまたたく間に白濁の渦を巻き、ロンドンのような濃密な霧が充満する。
同時にコートの人工筋肉が反応すると、裾が大きく背後にめくれ上がる。大鴉の翼のように変化すると、怪鳥のように羽ばたいて空気をかき回した。周囲の霧を渦巻くように攪拌して、力強い風圧で空気を押し出す。乳白色の霧が前方に流れると、廊下に待ち受けていた罠が視覚化した。
レーザーセンサーだ。
天井、壁面、そして床の全方位から照射された光線が、複雑奇怪な光の檻を形成していた。その一本を遮断するだけで、即座に警報が鳴る死の結界である。
レーザーの隙間は極めて狭隘であり、成人男性が通れるとは思えない。またこの密度のセンサーを氷結させるのは、今の装備では時間がかかってしまう。
「……無駄なことを」
だが魔術師は不敵な笑みを浮かべると、サングラスの位置を厳かに直した。光学解析を終えた視界には、勝利への道筋が明瞭に見えている。
むろん常人であれば絶壁に爪を立てる神業だが、魔術師の超人的な能力があれば越えられるはずだ。下着を目指す執念の前には、不可能は可能へと昇華される。
「征くぞ……。この先に待つのは、救済の布地だ」
魔術師は疾走を開始すると、わずか二歩目で重力の拘束を超えた。横手に踏み切って壁を足場にすると、空中に身を投じて鋭い螺旋を描く。
世界がスローモーションになったと錯覚しながら、パルクールのコークスクリュー・ジャンプを繰り出す。まさに槍のような穿孔回転を決めながら、第一のレーザー網を鮮やかに潜り抜けた。
人工筋肉の緻密な制御に対応して、フローズンコートも形状を変化させる。ロングコートが帯のようにひるがえり、網膜を焼くレーザーが虚しく掠めていく。
着地の衝撃を次なる運動へと転換し、魔術師は止まることなく床面すれすれを滑空する。バレリーノのように開脚しながら、影そのものと化して旋回した。膝下よりも遥かに低い隙間を、前髪が床に触れるほどの高さで突破する。すぐさま脊椎を弓のように逸らせると、鼻先のわずか数ミリ先をレーザーが通過した。
躍動する魔術師は目を閉じて、もはやレーザーの位置など見てはいない。先ほど数秒間ほど確認しただけで、全体の立体構造を完璧に記憶していた。
そして迎える最終防衛線は、まさに縦横無尽に交錯する光の格子だ。いかな魔術師と言えども、抜けられる密度ではない。
しかし両膝を畳んだ芸術的な姿勢から、慣性の法則に従って床を滑走する。物理的に不可能じみた姿勢から、鋼のようなバネで上空へ跳ね上がる。
空中で大きく広がって大の字になれば、全身を愛撫するような無数の光条が抜けていった。呼吸に随伴する胸部の膨張さえも、計算に入れた驚異的な機動だ。
壁を蹴り天井すらも足場に変える姿は、極限に達した身体制御の芸術である。重力の概念を冷笑するような、縦横無尽な三次元機動を見せつけた。目撃者など誰一人いない深夜の学校で、人体が到達しうる最高峰を披露する。
前方宙返りから鮮やかに片手を付くと、最後のレーザーまでも回避した。乱れた前髪を無造作にかき上げる表情には、息ひとつ乱さぬ余裕すら漂っている。
「他愛ない」
壁面のセキュリティスイッチに指を添え、自信に満ちた声で言ってのけた。無造作に電源をオフにすると、廊下を埋め尽くしていた格子は一斉に消灯する。
「俺の勝ちだ」
もはや魔術師の進軍を阻むものは存在しない。
眼前にある扉の先は、禁断の聖地――女子更衣室である。
オリンピックの金メダリストを凌駕する身体能力と、女子の下着に妄執する執念が高結合していた。その膨大な熱量をなぜ人類の幸福や、文明の進歩に充てることが出来なかったのか。
魔術師は神の寵愛を受け、救世主にもなりえた男である。
しかし運命という気まぐれな神は、その才能に余計な性癖まで付け加えた。
勝利を確信した魔術師は、更衣室の扉に冷気の本流を解き放つ。床面から天井までを一瞬にして凍結させると、裏側にあるであろうセンサー群を無力化した。
更衣室の扉は施錠されていたが、前腕部の人工筋肉が容易にねじ切る。ドアノブを回しただけで、内部から金属の折れた音がした。
「待ちかねたぞ、我が希望の布よ」
しかし開け放った先に見えたのは、魔術師が期待していた光景ではない。女子中学生の密やかな花園はなく、甘い制汗剤の匂いもしなかった。柔らかな潔白と薄紅に彩られた、楽園の気配すらないものだった。
「……なんだ?」
魔術師が困惑したのも無理はない。
女子更衣室だと思っていた部屋は、玩具屋の倉庫のようだったのだ。過密に詰め込まれた金属ラックに、白熊のぬいぐるみが整然と並んでいた。更衣室の場所を変更しただけならまだしも、学校にぬいぐるみがある理由が分からない。
『侵入者を検知したよ! 排除モード起動!』
唐突にその場にそぐわないほど、愛らしい少女の声が響き渡った。魔術師は知る由もないが、サンプリングされた陽織の声である。
突如。
居並んでいた白熊の首が、一斉に旋回して魔術師を見た。つぶらな瞳をした白熊人形が、一糸乱れぬ無言の威圧で凝視する。冷静沈着を自負する魔術師ですら、異様な迫力に鳥肌が立ったほどだ。
その次には白熊の下半身から、冒涜的なまでの異形が出現した。
柔らかな布地を押し開いて、蜘蛛のような八本足が一瞬で展開する。ぬいぐるみへの擬態をかなぐり捨てて、高剛性カーボンフレームの多脚が突き出した。黒曜石のような鋭利な歩肢が、四方八方へと突き刺さって体を持ち上げる。
水のように滑らかに駆動すると、重量を感じさせずに地面に降りる。歩肢はハエトリグモのように堅牢で、重心を落とした姿は漆黒の円盤だ。全幅にして一メートルほどの、童話と悪夢が融合したキメラである。
鎮座していた全ての白熊が、節足を律動させて排除モードに移行した。部屋中を埋め尽くす勢いで、壁面や天井すらも自在に這い回る。狭い保管庫を埋め尽くす漆黒の歩肢は、虫が群集する生理的な嫌悪感を誘発するほどだ。
これが可変長多脚型・自律思考群体警備ユニット。
識別名『ティム』である。
「なっ!」
幾多の難局を超えてきた魔術師ですら、非常識な禍々しさに後ずさりした。その一瞬の隙をつくように、手前にいたティムの姿がかき消える。動体視力を超えるような速度で、魔術師とすれ違うように突進したのだ。真横を通って壁に跳ね上がり、天井を這って一瞬で物陰に消える。
危機感にかられた魔術師は、即座に反応して距離を取ろうとした。しかし足を動かそうとした瞬間、前のめりにつんのめって悪寒が走る。
見れば魔術師の足首に絡まるように、繊維状の糸が何本も貼りついていた。突進したティムがすれ違いざま、射出口から吹き付けた拘束糸である。
力任せに千切ろうとしたが、信じがたいことに弛緩の様子すらない。人工筋肉の出力を上げれば切れるだろうが、ティムはそんな猶予は与えてくれなかった。
保管庫からは他のティムが、雪崩を打つように湧き出ていた。床だけではなく壁や天井までを這い回り、全方位から埋め尽くそうとしている。この無機質な奔流に飲み込まれたら、魔術師と言えども生還は不可能だ。
「まさかこの俺が、ここまで追い込まれるとは!」
魔術師の危機的な絶叫に、パルスシンカーが反応する。暴風を浴びたようにフローズンコートが翻ると、極小ノズルから全力の凍結ガスを噴き出した。視覚化するほどの濃度の液体窒素が、爆発するように周囲を極寒へと塗り替える。
「眠れ、氷棺の中で!」
ガス爆発のような白い波動が、廊下を純白へと染め上げる。美しくも冷徹な銀色が蹂躙し、大気中の水分は瞬時に凍結した。煌びやかなダイヤモンドダストが、暴風に舞って空間を埋め尽くす。
解放された液体窒素は、周囲の熱量を貪欲に略奪する。魔術師を中心とした半径数メートルほどが、マイナス196度の極低温地獄へと変貌を遂げた。
襲い掛かろうとしていたティムの群れは、視界を遮断するほどの濃密な霧に飲み込まれる。爆風のように広がる凍結ガスなど、ティムの機動力でも避けられない。
「はっ!」
魔術師は氷棺が炸裂した直後に、頭から極低温の霧を引き裂いた。空中で前転しながら床に手を付くと、体操選手のように体をひねって距離を取る。遠心力を跳躍のエネルギーに変換すると、曲がり角の安全地帯に滑り込む。両足を拘束されていながらも、ハンデなどまるで感じさせない。
足首に絡んだ粘着ワイヤーは、至近距離から氷棺を浴びて凍結していた。化学繊維である以上は低温脆性には逆らえず、わずかに力を入れるだけで砕け散る。
「切り抜けたか……」
自由を取り戻して振り返ると、氷棺の爆心地は静かに沈黙していた。無数のティムは白い霜に覆われて、死んだ昆虫のように歩肢を丸めている。冬将軍に侵略された自然の摂理のように、白く凍り付いた虫たちの氷像である。
関節を支えていた樹脂が割れて、姿勢を維持できなくなったのだ。電池が固まって電気を引き出せなくなり、群体制御ネットワークからも脱落した。
「……他愛ない。しかし間一髪ではあった、称賛しよう」
魔術師は背を向けると、今夜の苦渋を噛みしめる。
目下のティムこそ排除したが、目的の聖布にはたどり着けなかった。先ほどの部屋は更衣室ではなく、新しい場所はわからない。情報もなく校舎を探るなど、逮捕のリスクを増やすだけの愚行だ。
これほどの警備が敷かれている以上、パンツの略奪は断念するしかない。
魔術師の敗北だ。
自らが放った冷気の残滓が舞う中を、魔術師は外套を翻して背を向ける。
「名残惜しいが……。清らかなる布地よ、またいずれ会おう」
しかし撤退しようとしたとき、わずかな違和感が肩口に走る。最初は冬場に衣類を脱いだときの、微かな静電気のように感じた。
そして違和感が疑問に変わる前に、激烈な症状となって魔術師に襲い掛かる。
絶叫。
思考を真っ白に塗り潰すほどの、言語に絶するほどの激痛だった。忍耐など成立しない次元の苦悶に、尊厳をかなぐり捨てた悲鳴が迸る。
熱い。
熱い。
熱い。
魔術師の脳裏を埋めるのはこれだけだが、このような平易な表現では到底追いつかない灼熱である。
全身の皮膚をはぎ取られ、沸騰した油に突き落とされたようだ。あるいは可燃性の燃料を大量に浴びた上で、火を放たれたような熱痛である。
逃げ場のない灼熱地獄にさいなまれ、気づいたときには床を転げ回っていた。遠ざかろうとする意識が、激甚たる痛みにより再覚醒する。熱したフライパンに落とした水滴のように、手足を激しく叩きつけて悶絶していた。
異常なのは廊下に火の手はなく、魔術師の衣服にも熱源など皆無なことだ。放火されたと確信するほど熱いのに、煙すらも一切立ち昇っていない。
『全身が炭化するほど燃えている』
魔術師の脳裏に叩き込まれているのは、神経系からの暴力的な虚偽信号だ。
能動的拒絶システム。
電子レンジの技術を応用した、指向性のエネルギー兵器だ。95GHz帯のミリ波を照射することで、皮膚下0.4ミリにある痛覚神経を加熱する。水分子を強制的に振動させて、過剰なまでの痛みを誘発させるものだ。
ADSは決して対象を殺さない。
治療が必要な後遺症はおろか、外傷的なかすり傷さえ与えない。
ただ『死ぬほど痛い』のだ。
米軍が拷問に使っているという、黒い噂すら囁かれるほどである。肉体を破壊して命を奪うことはなく、意志だけを根こそぎへし折る人道的な軍事技術だ。
「ひぐっ、あ、あがぁああ……ッ!」
体中の穴から体液を垂れ流し、逃走の選択肢すら痛みで浮かばない。痙攣する指先で床をかきむしると、力加減が出来ずに無残にも爪が剝がれた。全身の筋肉が勝手に収縮して、まるでエビのように一メートルも跳ね上がる。もはや正常な呼吸すら困難で、生死の瀬戸際でのたくっていた。
混濁した視界の中で、この痛みの元凶であるティムが姿を現す。
廊下の暗がりから音もなく現れたのは、新たなるティムの群体だった。一機や二機の規模ではなく、十、二十……いや、総数では百機を優に超えている。
通路の角。
換気用ダクトの隙間。
天井にある窓。
白くて柔らかい塊が無感情に、雪崩のような勢いで押し寄せてくる。つぶらな瞳をたたえた白熊なのに、下半身から黒光りする多脚が生えていた。硬質な駆動音を連続させながら、壁面に張り付いて高所を邁進する。
無数のカメラアイの視点が、全て魔術師の姿を捕捉していた。苦悶に身をよじる対象者の挙動を、無機質なデータとして収集している。鋭利な多脚で縦横無尽に這い回り、白黒の津波となって魔術師を包囲していた。
それはこの世の倫理を逸脱した光景である。
玩具のような愛玩性と、軍事兵器としての無慈悲な機能が融合していた。蜘蛛のような嫌悪感を引き連れながら、狂気のパレードが廊下を占拠している。
魔術師は崩壊しつつある理性で悟った。
ここは学校ではない。
無邪気な悪意を知性で形にした、逃げ場のない地獄の底である。




