10 ☆4
あの夜、初めて彼はドラゴンを見た。漆黒のドラゴンだった。それは、昔話で聞いた伝説の存在。
一体、あの夜、屋敷の中で何があったのか、外にいた者には分からない。ドラゴンを目撃してすぐに二人がいた部屋で駆けつけたが、もぬけの殻だったからだ。
あれだけの光が辺りを覆ったにもかかわらず、部屋には焼け焦げた跡一つない。光魔術研究室一団が屋敷の隅々まで探索を行ったが、魔王も、ホビットの商人も、子供たちも、シャルロットも見つけることができなかった。
ミカエリスは賢者の塔に戻っている。これ以上、あの場にいてもなにも進展はないと判断したためだ。
いったい彼らはどこへ消えてしまったのだろう。そして、あの漆黒のドラゴンはどこからきて、どこへ行ったのだろう。
「全く、不可解なことだらけで苛々するぜ」
ただ、今一つ分かっていることがある。それは、あの方を困らせているのはやっぱり魔王だということだ。事情はあるようだが。
だから、絶対もう一度封印してやる。 そう心に決めて戻ってきたのだ。
しばらく使っていなかった俺とシャルロット様の研究室はうっすらと埃が積もっていた。出て行ったときのままの状態のその部屋はひどく殺風景で、まるで何年もここを離れていたような錯覚を覚える。
机を強くこぶしで叩くと、細かいほこりが舞い上がった。
これまでの日々がセピア色に褪せてしまったように感じる。
――あの頃の笑顔はそのままに。
初めて会ったときのことは、緊張していてよく覚えていない。急な前任者の退職により、助手見習い扱いで配属してもらったのだったか。
「ブーケ様、はじめまして。ミカエリスと申します。若輩者ですが、このたび助手見習いとして配属されました。どうぞよろしくお願いいたします!」
平均寿命100歳のこの世界において、200歳以上という年齢はここ賢者の塔ではそれほど珍しくない。もちろん地上では大変珍しいのだが。
しかし、300歳、しかもあの事件の中心にいた存在となるととたんに数は片手で足りるほどに目減りする、らしい。らしいというのは、外見年齢が同じくらいの妖精に、いちいち年齢を聞く奴はほとんどいないからだ。
広く知られているということは、それだけ有名であるということだ。
伝説上の存在、妖精国きっての優秀な魔法使いであり、研究者であり、ずっと会ってみたい存在、それがシャルロット・ブーケという妖精だった。
その偉大な魔法使いは、本当に可愛らしい少女の姿をしていた。ピンク色の髪を背中の辺りまで伸ばし、ぱっちりとした黒曜石のような瞳、白い肌、小さな手足。よく笑い、よく話し、よく走る。
自分の体に似つかわしくない大きな机に座り、論文を読み、論文を書き、羊皮紙を抱えてフィールドワークに出かけては、いつの間にか戻ってくる。研究室の中は、戸棚の前に取り寄せた実験材料が未開封のまま大量に積んであり、いつだったかそれが雪崩を起こしてきて埋まりかけたのだそうだ。
伝説では20代前半あたりの容貌で記述されていたので、少々ギャップの差に驚いたのだが、彼は側に仕えるようになって、もっと驚いた。
――どうやら俺は好きになっていたらしい。
この絶大な魔力と叡智を持ちながらも目を離せない、愛すべき妖精のことを。
時間を止めることが、時間を戻すことができればいいのに、
時間って奴は勝手に一人歩きしていくんだ。
掴もうと手を握りしめても零れ落ちる砂のように、サラサラと流れて、そして回収できない。
そんな感傷に浸りつつ、ミカエリスはズボンのポケットに手を突っ込んで、屋敷でシャルロットからもらった薬を取り出そうとした。
指先に触れたそれは、ポケット内で絡まってしまったのか、なかなか出てこない。じれたように思いっきり引っ張ると、それは勢いよく飛び出し、
机の上に中身がぶちまけられた。
「うわぁ、もう、ほんと俺バカだ」
もらったモノをダメにしてしまった情けなさに思わず泣きそうになる。ツいていないときはとことんツいてないらしい。
木製の机のキズに染みこんでいくそれを何とかふき取ろうと、ハンカチを取り出しゴシゴシこすると、机の上が妙に綺麗になっていった。剥げたニスが修復され、まるで新品のようになる。
「どうなっているんだ?」
眉をひそめるが、意味が分からない。
こすり続けると、以前、リラレが机に描いた落書きが浮かび上がり、消えていった。まるで机の記憶を辿るように。
――記憶。
それはこの机の記憶だった。そして、あの小瓶に入っていたのは、時間を過去に戻す薬ではないか?
机を拭いた布を持って、研究室の入口に戻る。今はもう、すっかり古びてしまって、なんと書いてあるのか分からない状態になっている看板を拭くと、うっすらと「時空魔法研究室」と浮かび上がってきた。
「そうか、ここは時空魔法の研究室だったのか」
他の研究室の手伝いやら、シャルロットの気まぐれでテーマが変わるため、現在の名称は「魔法工学研究室」となっている。
――では魔王は、この薬でどこまで時間を戻そうとしているのだろう。
――なによりも、シャルロット様の身に一体何があったのだろう。
この研究室で一番古いものに使えば、薬の力で古い記憶を呼び起こし、それを読むことで何かが分かるかもしれない。
「もう薬も少ないからな。当時からあったもので、確実にあの事件に関わった道具」
研究ノートでも何でも、と考え、ふと、この古い机の記憶を読むことを思いつく。
彼が彼女に『サイズがあっていませんよ?』と注意しても捨てなかったこの机。
そして、代々の助手が残してきた『引継のための注意事項覚書』、このあたりの記憶をつなげれば、過去を再現できるかもしれない。
ミカエリスは机に手をつき、慎重に魔法陣を書いていった。机に魔力を満たし、魂を探す。200年以上そこにあったためか、大事にされてきた机に意思が宿り始めるのを見て取ると、手をついたまま机に呼びかけた。
「お前の持つ記憶を教えてくれ」
まるで承知したといわんばかりに机は光ると、ゆらゆらと記憶を映し出す。
荷物を詰めて、この研究室を出て行こうとする彼女の姿。
長期出張に出かけようとしている俺。
初めて彼女と会ったあの日。
彼女とキリル氏の別れ。色々な妖精が現れては消えていく。見知らぬ日の、彼が生まれる前の記憶。
過去に行くほどに、見知った顔を見かけなくなり、更に遡ると、画面に一人の妖精が立っているのが映った。
肩までのピンク色の髪、ふんわりした雰囲気。黒曜石の瞳。片手に分厚い書物を3冊ほど抱え、他の研究員とよく似た軍服のようなものを着用している。
見間違えるはずもなく、シャルロット様のはずだった。
しかし、彼女はミカエリスの記憶とは違った。
幼さを感じない容姿、ようするに、伝説で聞いていたとおりの『成人妖精』だったのだ。




