第7話 将軍は妖精姫を繋ぎ留めたい
透明な真珠の粒が、まろい頬を伝ってぽつり、と落ちる。
次の瞬間俺は椅子を跳ね飛ばして立ち上がり、叫んだ。
「嫌ってなどおりません!」
殆ど怒号と言っても良い。二粒目の真珠をこぼす前に、フィリアはぱちぱちと瞬きをして俺を見つめた。
「でも、剣を磨くのを見せて下さらなかったし、馬の世話も手伝わせて下さいませんでした」
それは覚えている。忘れられるはずがない。あんなに肝を冷やしたのは久しぶりだった。
「当然でしょう」
「何故ですか」
「剣は刃物ですし、馬は大人しくとも言葉の通じぬ動物です。危険です」
「危険なんかありません」
「いいえ、危険です!」
フィリアは自分の強度を全く認識できていないのではないか。俺は可能な限り毅然とした態度で断言した。
刃物は勝手に動くことはないからまだしも、馬なんか本当に危険だ。あいつらだって虫の居所が悪いこともあれば、物音に驚いて立ち上がることもある。もしその時フィリアが近くに居たら? どうなるかは火を見るより明らかだった。そのような危険を看過することは絶対に出来ない。
「それに、私がお傍によるといつもとても険しいお顔をなさります」
「……元々この顔です」
「商人の奥方とは笑ってお話していましたし、声をかけられても驚きませんでしたわね。傍で刃物もお使いになった」
それは、そうだろう。だってあの奥方はフィリアの何倍も防御力があって恐らく生命力も強い。ちょっと手が滑って短刀が当たっても即座に生命に関わる大怪我は負わない筈だ。自力で樽を転がす膂力もある。フィリアに樽を転がせるか? 試して貰ったことはないが絶対に無理だ。その前にまず樽の木肌を磨かねばならん。
だが、同じ女性という括りでしか考えられていないらしく、フィリアは納得できないようだった。
「あの者は、フィリア様とは違います」
「それは、やっぱり」
「いいえ、好き嫌いの話ではなく、防御力の話をしております」
きょとんとした顔をした。ただでさえ整った顔に無邪気さが加わって、益々人間離れしている。
「あれは平民の、労働をする女です。樽を転がしていたのをご覧になったでしょう」
「ええ、見ました」
「それが出来る筋力と、足腰の頑健さと、重量を持っております」
「重量……」
「と筋力と頑健さです」
フィリアが眉根を寄せて口の中で繰り返した。そうだ、それを身につけてもらえれば俺もいくらかやりやすい。だが体質もあるし難しいだろうとも思った。恐らくフィリアは鍛えても肉はつきにくいのではないかと思う。骨の太さは鍛錬でどうにかなるものでもない。
「フィリア様は私から見ると……」
「遠慮せずに仰って」
「余りにも、脆そうなのです」
「脆そう……」
また、繰り返した。どう思っているのかが解らなくて緊張する。遠慮せずに言えと言われたから言ったものの、やっぱり脆そうとか弱そうとかいう表現は不愉快ではないだろうか。
とはいえ、俺自身にフィリアに対する悪感情はないことだけは確実に伝えねばならない。王命で結ばれるのにその夫に嫌われていると思ったままでは、心安らかでいられるはずがない。
話しているうちに涙だけはすっかり引っ込んでくれたようだ。それは本当にありがたい。こちらの心臓が止まりそうだった。
「確かに、バルド様と比べれば私は小さくて、細くて、頼りなくはあるでしょう」
「ご理解いただけますか」
「でも、私はなにも触れれば崩れるガラス細工ではありません」
だがイメージとしてはかなり近い。極細の部品がいくつもついて、突くだけであっという間にシャラシャラ折れてしまう繊細なガラス細工。俺にとってのフィリアはまさにそれだった。
とはいえ。
「勿論、ガラス細工でないことは承知しております、なにしろ」
倒した椅子を立てて、座り直す。
「ガラスであれば幾らか硬度がありますから」
フィリアがまた瞼を下げた。
全てに納得した、というわけではないのだろうが、どうやら誤解は解けたようだった。
その上で提案されたのが「お互いにもっと時間を取って向き合うこと」である。フィリアの脆さを恐れるあまりなるべく距離を取ろうとしていた自覚はある。刃物や馬だけでなく、俺自身もフィリアにとっては危険物だと思っていた。例えば歩いている時にうっかりぶつかるだけでも怪我をさせてしまうだろう。
だがフィリアはそれではいけないと言う。勿論これに関してはフィリアが正しい。夫婦になるのに、夫が妻に近付けない関係が健全とはとても言えまい。一方、それはそれとして俺自身の危険度が突然皆無になるわけもない。
だから、訓練が必要なのだという話になった。どの位の力加減で触れれば痛まないのか、歩く時にはどの位の速度なら負担が無いのか。結局そういう部分は実際に傍にいることでしか覚えられない。
侍女に持たせるのではなく自分自身で白い日傘を持った後姿が、ゆらゆらと庭を移動している。日差しはやや強いが風があるので庭を歩くには良い気候だった。フィリアが毎日蕾が開くのを楽しみに待っている花があるのだというので、それを見に行く。
戦功の褒賞としてこの屋敷を貰い受けてからそこそこの年月が経っているが、庭の花など気にしたことはなかった。庭師を雇ってもいるが、俺の意識にあったのは庭木の枝が見苦しく伸びていないか、その程度のことだ。春になれば花が咲いたな、程度は思ったが品種などは全く分からない。
それが、フィリアが来てからは随分解るようになった。他人と生活を共にするというのはこういうことなのだろうな、と思う。
庭の花、切れたら大変なお茶、毎日変わる香水の香り。フィリアが来なければ生涯俺には所縁の無いものだった。
「バルド様、あの花ですわ」
フィリアが振り返って一本の木を指さした。花というのでてっきり花壇の物かと思ったが、木に咲く花のことだったらしい。
つやつやとした葉を持つ大ぶりの木で、白い花がついている。傍によると柔らかく甘い香りがした。
「良い香りでしょう? 香水の材料にもなるんですよ」
「なるほど」
言われてみると、フィリアがこれと似た香りを纏っていることがある……、ような気がする。香水には詳しくないので確信はないが。
花の香りを楽しむためか、フィリアが背伸びをした。そんな不安定な姿勢になって転びやしないかと思わず両腕が浮くが、支えようにも触れるのは怖い。若干の距離を保って間抜けな姿勢で立ち尽くすことになった。傍から見れば滑稽であろう。
それが証拠に日傘を傾けてこちらを見たフィリアがふ、と笑う。なんにせよ、泣いているより笑っている方がずっと良い。
そうして気を抜いた瞬間だった。
思いがけず強い風が吹き抜ける。驚いたフィリアが声を上げ、日傘を持つ手が風に煽られて上に伸びる。そこで俺は確かに見た。
フィリアの足が地面を離れて、浮いた。
浮いた!? 人間というのは浮くものだったか!!??
「フィリア様!!!」
風を受けている日傘の柄を掴み、ぐっと手元に引き寄せた。自動的にフィリアの身体もついてくる。これまでになく距離が近付いているがそんなことを気にしている場合ではなかった。
浮いた。今、間違いなく風で浮いたぞ! 何ということか。一瞬のことではあったが、もし俺が傍に居らず、もっと強い突風だったら、空に巻き上げられていた可能性があるんじゃないか? 恐ろしい想像に体が強張り、ぼき、という音がした。
嫌な予感がする。
恐る恐る手を開くと、細い日傘の柄は見事にへし折れていた。フィリアが目を丸くしている。
「まあ」
「も、申し訳ありません、思わず力が入り……」
「いいえ、傘は良いのですけど。本当に折れてしまうのですね、驚きましたわ」
折れるだろう。こんなにか細いのだから何も驚くことはない。だが、フィリアの中では日傘の柄というのは中々丈夫なものという認識だったのかもしれない。見えている世界が違う。
「驚いたのは私の方です。まさか、浮くとは」
こっちの方が余程とんでもないことだと思う。風で浮かぶなど、考えられない。これまでどうやって生存してきたのだ。
「ほんの一瞬です。傘をさしていたんですもの、そういうこともあります」
「いいえ、私は浮いたことはありません」
「……台風の時に傘をさしてみたら宜しいわ」
「いえ、俺が浮く前に傘が壊れます」
「そうかしら」
フィリアはぴんとこない顔をしている。一方で俺は、また頭の中で妖精姫の保護任務について改善策を洗い出していた。




