俯瞰、湿地全体
重力から解き放たれる感覚は、決して心地よいものだけではない。
それは、自身の存在が地面という「確かな基盤」から切り離されていく、言いようのない不安を伴う浮遊感だった。
「……フ、フリド様!? 何を……何をなさるおつもりで……っ!?」
背後でガルムの悲鳴に近い声が響いた。
彼は泥に足を取られながら、必死に地面に縋り付いている。彼の視点では、主である僕が自ら重力を捨て、空へと昇ろうとしているように見えるのだろう。
僕は答えない。ただ、術式を編み、膨大な魔力を「風属性《浮遊》」へと注ぎ込む。
風属性の魔法。
通常、人を1m浮かせる程度の出力であれば、一介の魔術師でも容易なはずだ。しかし、僕が求めているのは単なる浮遊ではない。
視界を遮る「龍の溜息」――この地を覆う厚い霧を、物理的な障壁として突き破るための、強引な上昇力だ。
ドクン、と。
心臓の鼓動が、魔力の脈動と同期する。
一気に膨れ上がった魔力が、僕の身体を包み込む風となって、周囲の泥濘を跳ね上げた。
「あ……あぁ……」
ガルムの困惑した声が、急速に遠ざかっていく。
霧の中。白濁した世界。
視界は遮られ、音も湿った空気に吸い込まれていく。
だが、僕は止まらない。
霧の層を、まるで重いカーテンを捲り上げるように、魔力の圧力で押し退けていく。
――そして。
視界が開けた。
「…………」
声が出なかった。
眼下に広がっていたのは、僕がこれまで「点」として認識していた、あの泥の塊ではなかった。
それは、果てしない「面」だった。
視界の端から端まで、緑と濁った茶色が混ざり合う、広大な、あまりにも広大な湿地帯。
かつて、この場所が全域、広大な盆地であるという記述を読んだとき、僕は単なる誇張だと思っていた。
複雑に絡み合う、血管のような水路。
それは一本の大きな流れではなく、無数の枝分かれを見せ、低地へと流れ込み、そこで行き止まりとなって淀んでいる。
あちこちに点在する、霧に濡れた木々の群生。
その中に、まるで泥に浮かぶ小石のように、ぽつり、ぽつりと、孤立した集落が、点在しているのが見える。
僕らが今、必死に整備しているこの領主館も、その数ある「孤島」の一つに過ぎないのだ。
(……なるほど。こう見えるのか)
視界に入った情報を、順に整理する。
水流のパターンを追う。
山側から流れ込む水は、明らかにこの盆地の中央部へと集まってきている。だが、出口である『龍の喉』へと向かうための、明確な「主軸」が見当たらない。
水は流れていないのではない。
地形のわずかな高低差と、排水能力の不足によって、行き場を失い、ただ「滞留」しているのだ。
この湿地の構造は、まるで設計ミスを起こした巨大な貯水池だ。
排水路の設計が、地形の勾配に対してあまりにも不適切すぎる。
しかし、視界を広げるほどに、新たな問題が浮き彫りになっていく。
(……見えない)
上空からの俯瞰は、全体像を把握するには最適だ。
だが、致命的な情報不足がある。
樹木の密度が濃い場所では、地表の微細な起伏が読み取れない。
水位がどれほど変動しているのか、この「溜まり」の底がどれほどの深さなのか。
何より、地中の構造――どの層に粘土があり、どの層が岩盤なのか。
上空から魔法の「目」を広げても、霧の向こうにある「真実」までは捉えきれない。
このまま、地図も持たずに「排水路を作ろう」などという提案をすれば、それは単なる無謀な博打だ。
不完全なデータに基づいた意思決定は、最悪のコストを招く。
それは、この世界における「失敗」の定義そのものだ。
「……ふぅ」
僕は深く、熱い吐息を吐き出した。
魔力の消費は激しい。高度を維持するだけで、莫大なリソースを食いつぶしていく。
これ以上の滞在は、計算上のリスクが高すぎる。
僕は、ゆっくりと下降を開始した。
霧の層を再び潜り抜け、湿った空気の重みが身体に戻ってくる。
視界が再び、泥と緑の、閉鎖的な世界へと戻っていく。
やがて、泥にまみれたガルムの、呆然とした顔が見えた。
僕は地面に降り立ち、泥を払うこともせず、ただ彼に向かって、短く、結論だけを告げた。
「……まだ足りないな」
小さく呟く。
視界は得た。
だが、設計には至らない。
「……まずは、道を通そう」
情報を集めるための動線が必要だ。
この広さを扱うには、
人と物が、自由に動ける状態を作るしかない。
問題を解くには、前提が足りない。
空を飛ぶ、一回はやってみたいですよね。
土地の絶望感が伝わっただろうか……。
楽しんでいただければ幸いです。
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