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8/12

一時間


 その日、ラグンの背負う背負子には、例年よりも重い荷が積まれていた。

 山の斜面から切り出したばかりの、硬い木材。そして、湿地特有の湿り気を帯びた、希少な薬草の束。


「……おい、本当に大丈夫かよ。これ、いつもの倍は入ってるぜ」


 仲間の若者が、泥に足を取られそうになりながら声をかける。ラグンは額の汗を拭い、足元の「道」に目を落とした。

 数日前まで、そこは底なしの泥濘(ぬかるみ)だったはずだ。丘と丘の間を移動するには、わざわざ遠くの乾いた地層を迂回し、数時間をかけて泥に足を取られながら歩くのが、この村の「当たり前」だった。


 だが、今は違う。

 泥の底に打ち込まれた杭の上に、太い(はり)が渡され、その上に板が整然と並んでいる。

 地面から一段、あるいは二段、高く持ち上げられた「高架木道」のようなその道は、泥の不安定な感触を遮断していた。


「踏み外すなよ。梁の端の方は、まだ少し揺れる」


 ラグンは注意を促しながら、一歩、また一歩と進む。

 足裏に伝わるのは、不快な泥の粘りではない。強固な杭と梁によって支えられた、安定した感触だ。


 驚くべきは、その「速度」だった。

 これまで、一時間かかったはずの移動が、わずか数分で終わってしまう。重い荷を背負っていても、体力の消耗は驚くほど少ない。泥に足を取られて立ち止まり、踏ん張る、あの絶望的な疲労感がないのだ。


「……なあ、ラグン。これ、魔法か……? まるで、別の世界を歩いてるみたいだ」


 仲間の一人が、震えるような声で呟いた。

 これは単なる「便利な道」ではない。この道があることで、今まで「危険すぎて行けない」と諦めていた場所へ、我々は行けるようになる。これまでの常なる常識が、物理的に書き換えられているのだ。


 帰り道、村人たちはいつものように、以前よりも多くの、そして質の良い資材を抱えて集落へと戻った。

 集落の入り口、あの工事現場に、フリドの姿があった。


 集落の入り口に立つフリドは、作業の手を止め、周囲を見渡していた。

 視線は地面ではなく、その先――低地と川の境界へと向けられている。

 踏み固められた泥。水の引いた跡。わずかに残る流れの筋。

 それらを一つひとつ確かめるように、ゆっくりと歩く。


 その姿に、ラグンたちは吸い寄せられるように近づいた。

 恐る恐る、しかし、これまでの敬意とは異なる、期待の混じった眼差しで。


「……あの、フリド様」


 ラグンが声をかける。フリドは作業の手を止め、視線だけをこちらに向けた。


「君は、先ほど橋を使っていたね。問題はなかったかな?」


「いえ、その……。俺、この村に住んでいるラングです。今日の道を使ったのですが……。本当に、あっという間に着きました。荷物も、これだけ多く」


 ラグンが荷を誇示するように見せると、フリドは短く「なるほど」とだけ言った。


「道は、まだ梁と板を渡しただけの、仮設だから。負荷が増えると不安定になる。補強は必要だから、気を付けてね」


 フリドの言葉は、物腰は柔らかいものの、どこか淡々としていた。しかし、その内容は、村人たちにとって衝撃的だった。

 ラグンは、自分でも驚くほど自然に、言葉を続けた。


「……あの、もしよろしければ。情報の共有をさせてください」


 ラグンは、自分が知っている「土地の癖」を、堰を切ったように話し始めた。


「時期によっては、あの大きな柳の幹の半分くらいまで、水が来るんです。今の高さの道だと、その時は道ごと沈んでしまうかもしれません」


 フリドの眉が、わずかに動いた。彼は手元の石板に、何かを書き留める。


「それに……雨の後は、水の流れが変わることがあって。普段は川の方へ流れるんですけど、逆に川の水が戻ってきて、あっち側から水が押し寄せたりするんです」


 さらに、ラグンは点在する村落の位置や、水が溜まりやすい窪地などの情報も、一つひとつ丁寧に伝えていった。

 フリドは、それらすべてを、無機質ながらも極めて真剣な眼差しで、正確に記録していく。


「……わかった。その情報は助かるよ。水の動きが分かれば、無駄なやり直しは減る。本番では高さも上げよう」


 フリドがそう告げたとき、ラグンの背筋に、震えるような確信が走った。


(この人なら……)


 この人なら、この泥の地獄を、変えられる。

 自分たちが長年培ってきた「経験」という名のデータ。それを差し出せば、この人はそれを「形」にして、生活を、土地を、作り直してくれる。

 もはや、これは単なる恩恵ではない。俺たちは、この「技術」に、自分たちの生活の未来を預けてしまおうとしているのだ。


 村人たちの間に、静かな、しかし決定的な「依存」の芽が芽吹いた瞬間だった。


 一方で、フリドはその変化に意識を向けることなく、低地の縁に立っていた。


 視線の先には、湿地と川の境界。

 水が引いた跡と、わずかに残る流れの筋。


 踏み固められた地面の上を、ゆっくりと歩く。


 どこから水が来て、どこへ逃げるのか。

 その形を、頭の中でなぞるように。


 先ほど聞いた話が、思考の中で結びついていく。


「……やはり、水が戻るか」


 小さく呟き、足を止める。

 地面を固めるだけでは足りない。流れそのものが、定まっていない。


 周囲を見渡す。

 低地、川筋、わずかに残る水の跡。


 情報が、足りない。


 この場だけでは足りない。全体を見なければ、流れは定められない。


 しばらくの沈黙のあと、フリドは視線を上げた。


「……まずは、道を通そう」


 短くそれだけ言うと、踵を返す。


 視線の奥に残っていた違和感は、そのままに。


 村人たちが未来を預けたその瞬間、当の本人はすでに、次の工程へと思考を進めていた。

村人が心を開いてくれました。

現地の人の知識って大事だよね。


楽しんでいただければ幸いです。

よろしければ、何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

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