王都からの使者
トントントン、と。
静かな執務室に、規則正しいノックの音が響いた。
シュヴァンプ領、領主館。
フリドは机に向かい、来年度の農業計画案を練っていた。
数字と向き合う作業は、彼にとって最も平穏で、かつ集中を要する時間だった。
「入れ」
短く応じると、重厚な扉がゆっくりと開く。
入ってきた人物の姿を見た瞬間、フリドは思わずペンを止めた。
「失礼いたします。シュヴァンプ領領主、フリド殿」
そこに立っていたのは、見知らぬ身なりの男だった。
だが、その胸元に輝く紋章が、彼がただの旅人ではないことを雄弁に物語っている。
この国において、誰もが、そして畏怖をもって仰ぎ見るもの。
王家の紋章。
その旗印を掲げることを許された者が訪れるとき、それは王の意思そのものが届いたことを意味していた。
(……王家の使者か)
心臓が跳ねる。
フリドは即座に椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
使い走りのような立場ではない。王命を預かる者として現れることを意味するのだ。
「王命を預かる御方に、ご挨拶申し上げます」
丁寧な、しかし震えを抑えた声で告げる。
まともな貴族教育を受けていない自分にとって、こうした儀礼的な振る舞いは常に綱渡りのようなものだ。
「すぐに顔を上げても良かったのか?」といった迷いが脳裏をよぎるが、まずは無礼のないよう、最敬礼の姿勢を保った。
「……頭をお上げください」
落ち着いた声に促され、恐る恐る顔を上げる。
使者は感情の読み取れない表情で、一通の手紙を取り出した。
「本日は王家より、こちらの勅書をお持ちいたしました。ご確認ください」
受け取った書状には、重厚な蝋封が施されていた。
フリドは呼吸を整え、震える指先でそれを開封した。目に入ってきた文字の一行目で、彼は息を呑んだ。
(……独立家門……?)
そこに記されていたのは、事前の予想とは決定的に異なる内容だった。
『シュヴァンプ領における開拓の功績を認め、ここに新たな家門として男爵位を授与する。つきましては、〇年〇月〇日十五時、王都にて授与式を執り行うものとする。速やかに王都へ参られよ』
ドナール家からの伝令では、あくまでドナール家の扶助を受ける範囲内での話だったはずだ。フレイン家からも、何らかの恩恵については聞いていたが……。
これは、単なる「分家」としての扱いではない。
(独立した、一つの家門として……認めてくれたというのか)
あまりの衝撃に、言葉を失う。
フリドは震える手で書状を閉じ直すと、喉の奥から絞り出すように言った。
「書状、確かに受け取りました」
「爵位の授与、おめでとうございます。貴公のさらなる奮励が、王国に利益をもたらすことを期待しております」
使者は短くそう告げると、僅かな物資補給の約束を事務的に交わした。その後、彼に案内を命じたガルムと共に、風のように去っていった。
嵐が過ぎ去った後のような静寂が、執務室を包み込む。
「……ふぅ……」
短すぎるやり取りだった。それなのに、フリドの体は鉛のように重かった。
背中を伝う冷や汗が、心地よい疲労感ではなく、言いようのない重圧となって彼にのしかかる。
実家から追放されたあの日。
自分はこの世界の理から外れ、二度と貴族や政治といった舞台に立つことはないと覚悟していた。
現代日本という、政治の泥沼とは無縁の場所で生きてきた自分には、このような権威を背負う器など備わっていない。
だが――。
「……ある意味……これまでの活動が、正当に評価されたということか」
独り言は、空虚な執務室に溶けていった。
――……‥‥‥・・・・・・
その頃、シュヴァンプの村は、かつてない熱気に包まれていた。
「酒だ酒だ! 今日は仕事なんかしねぇ!」
「ついに、俺たちの領地が認められたぞー!」
「これで俺たちも正式な男爵領の民だ!」
「これも全部、フリド様と共に頑張ったおかげだ!」
「フリド様万歳! フリド男爵万歳――!!」
あちこちの屋台からは香ばしい料理の匂いが漂い、道端では人々が手を取り合って踊っている。
突然の知らせに、村全体が祝祭状態へと突入していたのだ。
(……これほどの騒ぎになるとはな)
収穫祭の際に盛り上げるくらいだと思っていたが、蓋を開けてみれば、住民たちの喜びは制御不能なほどに膨れ上がっていた。
彼らにとって、フリドの爵位獲得は、自分たちの生活が守られ、認められたという証明でもあったのだ。
「よぉ、男爵様。おめでとう」
不意に、上空から軽やかな声が降ってきた。
領主館のベランダに、ひらりとアイヴィーが舞い降りる。
「……えぇ、ありがとうございます」
フリドは力なく微笑む。その様子を見て、アイヴィーは首を傾げた。
「ん? なんだ、そんなに嬉しくないのかよ?」
「……どうやら、ドナール家の分家ではなく、独立した『独立家門』として扱われることになったようでしてね」
「独立家門……?」
アイヴィーの瞳に、わずかな驚きが走る。
「ええ。ドナール家の使者が伝えてきた話とは違いました。……何が、どうなるのか」
自分でも驚くほど素直な告白だった。
地位が上がるということは、それだけ責任と、そして敵が増えることを意味する。
かつて味わった「追放」の恐怖が、ふとした瞬間に顔を覗かせるのだ。
「へぇ……つまり、不安ってわけだ。お前にしては珍しいな」
アイヴィーはニヤリと不敵に笑った。
「まぁ、考えても仕方ねぇだろ。どうせ、お前ならどうにかできるだろう?」
「……何を根拠に」
「こんな大都市を作り上げたんだ。王都での手続きなんて、比べ物にならないくらい楽なもんだろう?」
その言葉には、確かな信頼が込められていた。
フリドはふっと息を吐き、自嘲気味に笑う。
「ふふ……男爵ともなれば体裁がありますからね。今後は『お前』では済まされないかもしれません」
「げぇっ! フリド男爵様ぁ~、とでも呼べってか?」
「もちろんです。なんといっても、今日からは『お貴族様』ですから」
軽口を叩き合い、どちらからともなく大きな笑い声が上がった。
アイヴィーが勢いよく拳を前に突き出してきたので、フリドもそれに応えるように、軽く拳をぶつける。
眼下に広がるのは、夕闇に染まり始めた活気あふれる街並み。
不安は消えない。王都という巨大な権力の中枢へ乗り込む恐怖もある。
けれど、この街を作り上げてきた手応えと、隣にいる友の言葉が、背中を押し返してくれた。
夕暮れ時の空は、どこまでも高く、晴れ渡っていた。
嬉しいような不安なような、的な話。
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