フレイン家の視察
山道を進む馬車の窓から外を眺めていた、フレイン家次期当主候補――リーゼ・フレインは、言葉を失っていた。
眼前に広がるのは、彼女が想像していた「未開の地」の姿ではなかった。
整備された山道には要所に監視所が設けられ、点在する休憩所からは旅人の安堵した吐息が聞こえてきそうだ。かつては足を取られて困難を極めたであろう湿地帯には、堅牢な石橋や見事な木道が張り巡らされている。それらは単なる移動手段ではなく、物流の効率化を強く意識して設計されていた。
さらに視線を奥へ進めれば、計画的に区画整理された都市の威容が見て取れる。その周辺には整然とした田畑が広がり、勤勉に働く人々の姿があった。
(……嘘でしょう? この規模の整備を、たった一年足らずで?)
リーゼの脳裏に、膨大な計算が駆け巡る。
これほどのインフラを構築するには、どれほどの人員と資材が必要か。石橋一つ作るにしても、石の切り出し、運搬、加工……。さらには、この地の天候による水害のリスクを考慮すれば、通常の数倍の工期と費用が見込まれるはずだ。
もしこれがドナール家の支援によるものだとしたら、その規模は想像を絶するものだ。
(これほどの手厚い支援があるからこそ、この奇跡のような開発が可能だったのか……)
疑念に近い驚愕を抱えたまま、馬車は市場の喧騒へと近づいていった。やがて馬車が速度を落とし、領主館へと向かうよう指示が飛ぶ。
──しばらくして。
領主館の正面前。そこには、明らかに一介の平民の持ち物とは思えない、格式高い馬車が停まっていた。
施された装飾は繊細で、放たれる威圧感は高位貴族のそれである。しかし、リーゼの眉がわずかに寄った。
(あの紋章……見たことがないわ。ドナール家の家系でもない……?)
自らの不勉強を呪わずにはいられなかった。魔力量を高める修行に没頭するあまり、貴族社会の細かな動向や、新興勢力の台頭について学ぶことを疎かにしていた自分を。
馬車の扉が開き、執事らしき人物に支えられながら、一人の淑女が降りてきた。艶やかな長い髪をなびかせたその女性は、まるで一輪の美しい花のような気品を纏っていた。
「ようこそお越しくださいました。シュヴァンプ領の領主、フリドです」
リーゼを迎えたのは、丁寧な、しかし毅然とした挨拶だった。
リーゼもまた、自らの立場をわきまえ、深く一礼した。
「突然の訪問にも関わらず、お出迎えありがとうございます。フレイン家長女、リーゼ・フレインと申します」
「本日は、ぜひ急発展された街を見てみたいと思い、参りました」
リーゼがそう告げると、フリドは柔らかな笑みを浮かべながらも、その瞳の奥で鋭く思案を巡らせた。
(フレイン家……。実家のドナール家と同じ上位貴族の一角、四大貴族の名を冠する大貴族か)
当主候補という立場から外れたフリドにとっても、その名は聞き馴染みがあるものだ。広大な穀倉地帯を支配し、国の小麦供給の大部分を担う、まさに「国の胃袋」とも言える権威ある家門である。
「視察、ですか。……では、喜んでご案内いたしましょう」
それからの時間は、リーゼにとって情報の濁流であった。
フリドの案内は完璧だった。第一層の市場を見渡し、物流の要となる倉庫の構造を確認。続いて加工場へと足を運び、どのような技術が導入されているかを詳細に観察した。さらに街の隅々まで張り巡らされた水路を辿り、最後に広大な田畑へと向かう。
特に田畑でのやり取りは、まるで尋問に近いものとなった。
「なぜ、これほど細かく水田を区切っているのですか?」
「稲を逆さに吊るす……? なぜ種を外さずに乾燥させる必要があるのでしょう。どのぐらいの期間ですか?」
「……理にかなっていますわね。ところで、水の制御は、どのように行っていますか?」
「この種は、一体どこから……?」
日本の記憶を頼りに構築した、未完成ながらも合理的な農法。その理屈を知らないリーゼにとって、目の前の光景は謎に満ちていた。彼女は考え込む仕草を繰り返し、技術の根幹を探ろうと必死だった。
日が傾き、すべての行程を終えて領主館の会議室に戻ったとき、フリドは問いかけた。
「いかがでしょうか。ご期待に沿うものはございましたか?」
リーゼは一瞬、言葉を飲み込んだ。しかし、すぐに真っ直ぐな眼差しで答えた。
「……話に聞いていた以上に、素晴らしい発展具合でした。一年未満という短期間で、これほどまでのものを作り上げる手腕は、他の誰にも真似できないでしょう」
議場に流れるわずかな沈黙。それはお世辞を察したフリドの、僅かな動揺であった。
リーゼはそれを見逃さず、あえて言葉を継いだ。
「ところで、フリド様。ひとつ……提案がございます」
「提案、ですか?」
「貴方は、すぐにでも爵位を頂くべきですわ。そのための助けとなりたいのです」
フリドの笑顔が、一瞬だけ凍りついた。
突飛な提案だ。何の意図があるのか、あるいは敵意か。彼女の脳裏に警戒心が走る。
「なぜ……そこまで仰るのです?」
「貴方は素晴らしい街を作り上げましたが、爵位のない状態では、その成果はあまりにも危うい。周囲の貴族たちが、この土地や人員、そして作物を接収しようと動き出すのは時間の問題ですわ」
「……土地の統治権は国王陛下より認められていますが……」
フリドの言葉を遮るように、リーゼは畳み掛けた。
「爵位の有無、そして貴族としての『横の繋がり』。それがいかに決定的な力を持つか、お分かりのはずです」
突き刺さるような真実。フリドは自らの喉元に突きつけられた刃を感じ取った。確かに、どれほど優れた土地であっても、法的な身分と後ろ盾がなければ、強欲な隣領から守り抜くことは困難だ。
「……考えもしなかった提案です。ありがとうございます」
フリドは、震える声を抑えながら問い返した。
「しかし……一体なぜ、貴方はそこまでして私を……?」
リーゼの瞳に、確固たる意志が宿る。
「簡単ですわ。貴方の農業技術、特に『米』に対する知見は、この国にとって宝なのです」
「米……?」
「この国の主流は小麦です。米の大規模栽培は、未だ前例がほとんどありません。もしこれが実現すれば、平野だけでなく、活用困難だった湿地帯までもが豊かな生産拠点へと変わる。国内の食料生産量は劇的に増えるはずです」
リーゼの言葉は、単なる称賛ではなく、明確な利益の提示だった。
「私は、貴方と技術提携を行いたいのです」
「……なるほど」
フリドは深く息を吐いた。納得せざるを得なかった。米という新たな食糧資源がもたらす価値。それは、自身の領地だけでなく、国全体の勢力図さえ書き換えかねない可能性を秘めている。
「さらに申し上げれば……」
リーゼの追撃が、フリドの背中を押した。
「我が家でも、一部で米の栽培を試みております。種についても、より多くのものを提供できる用意がございますわ」
その言葉を聞いた瞬間、フリドの迷いは消えた。目の前の少女は、単なる視察者ではない。共に新たな時代を切り開くための、強大なパートナーの提案なのだ。
「……ぜひ、お話を進めましょう」
食い気味に答えたフリドの瞳には、新たな野心が宿っていた。
「では! お話は決定ですわね」
リーゼは晴れやかな笑顔を見せ、立ち上がった。
「この件については、すぐに母へ報告いたしますわ!」
嵐のような熱量を残したまま、リーゼは自身の領地へと帰路についた。
早急に馬車に乗り込み、それを見送る。
後に残されたフリドは、静まり返った領主館前で、ただただその余韻に浸っていた。
ついに外部の貴族からも注目される、的な話。
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