防衛都市
湿地の空は、今日も低く、重い。
しかし、その湿り気を帯びた空気のなかで、かつてないほど「整った」景色が広がっていた。
新たに設置された水門を通過した水は、計算された角度で誘導され、都市の周囲に設けられた広大な貯水帯へと導かれていく。
かつては予測不能な濁流であったものが、今は設計図に従い、秩序を持って大地を流れていた。
「……よし。浸食による流路の崩壊は見られない。水位の変化も設計値の範囲内だ」
フリドは、手にした泥のついた木板から視線を上げ、深く息を吐いた。
目の前には、巨大な木製の構造物と、それを支えるために魔力で補圧された土留めの堤防が、水面に威容を誇らせている。
「……全く、あんな無理な設計を押し付けやがって。石工の意地が、この水圧に負けねぇのは奇跡みたいなもんだぜ、旦那」
傍らに立つステインが、額の汗を拭いながら吐き捨てた。
彼の背後では、モルナが「できたできたよ、フリド!」と、泥まみれの顔で跳ねている。
主流から取水した水の勢いは凄まじい。
そのエネルギーを殺し、制御するために、ステインとモルナは地形に合わせて緻密な分流路とダムのような段差を作り込んでいた。
……また、その分水路や主流の水門自体にも、ある仕掛けを施している。
今回のプロジェクトの核心は、単なる排水ではない。
都市の周囲に、意図的に「水を溜めるための空間」――貯水帯を構築することだ。
これは、既存の第1層の外側に位置する、いわば第0.5層とも呼ぶべき、新たな防衛境界線である。
水門を開放すれば、この周辺一帯は瞬時にして深い泥濘へと変わる。
これまで、湿地は「移動を阻害する厄介な障害物」だった。
しかし、フリドの手によって、それは「敵の足取りを奪う防衛設備」へと書き換えられたのだ。
「土属性――《構造把握》」
フリドは小さく呟き、指先から微かな魔力を放った。
水門の基部、堤防の裏側、地盤の締まり具合。透過する視界の中に、水の圧力と土砂の密度が、設計図通りに浮かび上がる。
水門の稼働に問題はない。
貯水帯の容量も、想定される最大流量を十分にカバーしている。
都市の周囲は今や、「意図的に制御された、物理的な障壁」によって守られているのだ。
かつて、この土地には防壁など存在しなかった。
あるのはただ、底なしの泥と、予測不能な水流だけだ。
だが、今やここにあるのは、高度な工学に基づき、機能を付与された「構造物」である。
不意に、背後から足音が聞こえた。
重い泥を跳ね上げ、急ぎ足で駆け寄ってくる人物。
「……フリド様、ガルム様!」
現れたのは、監視所から戻ったばかりの若い警備兵だった。
その顔は、新しい水路の完成に沸く住民たちのそれとは異なり、蒼白に引きつっている。
「どうした?」
フリドが冷静に問いかける。しかし、警備兵は言葉にならず、ただ肩で息をしながら、震える指先で湿地の外縁――山道の方向を指し示した。
「……あ、あちらから……」
視線を向けた先。
霧の向こう、まだ整備の途上である道の先から、ただならぬ気配を感じる。
なにかがこちらへ向かって、急速に移動している――。
静寂を切り裂くように、遠くから響いてくるのは、馬の蹄と荒々しい怒号。
「伝令です! 伝令!!」
別の方向からも、悲鳴に近い叫び声が迫ってくる。
「敵です! 賊の集団が、山沿いの集落を襲撃! また、主道からこの方向へ向かっています!!」
山側、宿場街として整備予定だった廃村へ目を向ける。火の手が上がっているようだ。
フリドの瞳から、設計図への思索が消え、冷徹な分析へと切り替わる。
ついに、完成したばかりの「構造物」に、最初の試練が訪れようとしていた。
「……ガルム。直ちに警備隊を。戦闘の準備させろ」
フリドの声は、驚くほど静かだった。
ついに敵が来た! 的な話
準備が3話はちょっと長いか迷いましたが、そろそろ戦闘が始まります!
楽しんでいただければ幸いです。
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