泥濘
魔法での清掃が終わった後の館には、驚くほど澄んだ空気が流れていた。
湿り気を失い、乾いた木材の香りが漂う室内。リフは、まるで魔法のように汚れが消え去った家具を、愛おしそうに、そして信じられないものを見るような目で見つめながら、手際よく荷解きを進めている。
しかし、窓の外の景色は依然として変わらない。
厚い霧の向こう側には、白濁とした、底の見えない泥の海が広がっていた。
「……さて。まずは、外の『地盤調査』から始めるか」
僕は、まだ少しだけ熱の残る自室を後にし、玄関の扉を開けた。
――グチャッ。
一歩、踏み出した瞬間に響いた、重苦しい音。
靴の底が、粘り気を増した泥に吸い込まれるように沈み込んでいく。
「フリド様、あまり遠くへは行かない方がよろしいですぞ」
少し離れた場所で、泥に脚を取られながらガルムが声をかけてきた。
彼はこのシュヴァンプ領で生まれ育ち、後にドナール家の兵として徴用された男だ。この土地の「呼吸のしづらさ」も、「泥の底知れなさ」も、骨の髄まで知っている。
「ガルム、向こうに見える小高い丘……あそこが村の居住区だよね? 直線距離なら五分ぐらいかな?」
「ええ。ですが、あそこへ行くには、この泥の海を直線で突っ切ることは不可能です。あちらの浅瀬の尾根……少しだけ泥が浅いルートを、大きく迂回せねばなりません」
「迂回……どれくらいかかるの?」
「片道で一時間。……それが、この土地の『常識』です」
僕は思わず眉をひそめた。
一時間。往復で二時間。
著しいリソースの浪費だ。移動という最も基本的なトラフィックにそれほどのコストがかかっていては、領地の開発など望むべくもない。
「……あそこに立っている、あの大きな木は?」
僕が指差したのは、泥の海の中に孤立して立っている、どっしりとした針葉樹の群生だった。他の樹木が湿気にやられて立ち枯れている中で、その木だけは異常なほど青々とした葉を蓄え、泥の中に深く根を張っているように見える。
「ああ、あれは『重檜』です。……ですがフリド様、あれに近寄ってはいけません。ありゃあ、この領地じゃあ『死の資材』と呼ばれてる代物だ」
ガルムの顔に、明確な忌避の念が浮かんだ。
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